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第1話 ぼくの言葉が、広告になっていた

 目が覚めたのは、音じゃなかった。


 なんとなく目が開いた、というやつだった。窓の外がまだ暗い。スマホを見ると五時十七分で、アラームまで四十三分あった。もう少し寝られる時間だったが、目はすっかり覚めていた。


 通知が来ていた。三件。


 ソシャゲのログボが二件。残り一件は、知らないアカウントからのタグ付け投稿だった。タップした。リンクが貼ってあった。眠気のまま開いた。



 画面に映ったのは、広告だった。


 白い背景に、黒い文字だけが並んでいる。余計なものが何もないシンプルなデザイン。瀬尾はそれを三秒ほど眺めてから、起き上がった。


 眠気が、すっと消えた。



 『世界は、まだ書かれていない物語で満ちている。だから人は、書かずにいられない。だから言葉は、死なない。』



 知っている。


 「知っている」どころじゃない。自分の部屋に帰ったら、知らない人間が自分のベッドで眠っていた。そんな感覚に近かった。


 瀬尾は布団を蹴り飛ばして床に降りた。本棚の一番下を引っかき回した。A4用紙の束。手製の原稿ファイル。二年前に書いて、どこにも出さなかった小説のプロローグ。


 ページを開く。


 冒頭の一文が、そこにあった。



 『世界は、まだ書かれていない物語で満ちている。』



 同じだった。


 一字一句。句読点の位置まで。


 スマホの画面と、紙を、三回見比べた。夢かと思って腕を抓った。痛かった。夢じゃなかった。


 「……は?」


 声が出た。


 自分で聞いて、間抜けな声だと思った。でもそれ以外の言葉が出なかった。



 瀬尾せおりく、十七歳。


 趣味は小説を書くこと。小説家になろうのアカウントは中学三年のとき削除した。理由は単純で、読まれるのが怖くなったから。自分の言葉が誰かの目に触れる、その事実に耐えられなくなった時期があった。


 だから今書いているものは、誰にも見せていない。


 投稿もしていない。クラウドにも保存していない。パソコンのローカルと、この紙の束だけに存在している。


 はずだった。


 広告ページをもう一度、上から下まで読んだ。


 三段落ある。


 最初の段落は、自分のプロローグとほぼ同じだった。「ほぼ」なのは、二箇所だけ単語が入れ替わっているからだ。「物語」が「未来」に。「人は」が「私たちは」に。それだけで、あとは全部そのままだった。


 次の段落を確認した。原稿をめくった。第三章の書き出し。


 ある。


 最後の段落も確認した。第七章の終わり。


 全部ある。


 床の上に座り込んで、しばらく動けなかった。


 怒りが来るかと思った。来なかった。最初に来たのは、もっと冷たい何かだった。じっとりしていて、体の内側から広がってくる感じ。名前がなかった。


 ――これは俺の言葉だ。


 深夜に、布団の中で書いた。真冬に暖房を切って書いた。電気代が怖くて暗い中でスマホのライトだけで書いた。そうやって書いた言葉が、今、見知らぬ企業の広告の中に立っていた。


 値段もない。名前もない。


 ただそこに、あった。


 六時になって、台所から母親が動く音がした。


 瀬尾は立ち上がって、制服に着替えた。頭の中では、まだあの三行が回っていた。


 世界は、まだ書かれていない物語で満ちている。


 俺が書いた言葉だ。


 どうしてお前が、それを持っている。


 学校に着いたのは七時五十分だった。


 教室に入ると、窓際の席に見たことのない人間が座っていた。


 転校生、だろうか。三月の終わりに転校してきて、四月の最初の週にまだいるということは、この学校に居続けるつもりらしい。


 その人間は、窓の外を見ていた。


 こちらを向いていないのに、なぜか「見られている」と感じた。


 銀色に近い、白い髪。


 瀬尾は自分の席に座って、スマホを机の下で開いた。アルカディアのページを確認する。問い合わせフォームを探す。あった。クリックする。


 ご意見・ご要望はこちらから。


 文字を打ち込んだ。



 【貴社のプロモーションページに掲載されている文章は、私が執筆した未発表の小説原稿と一致しています。当該文章は外部に公開したことはなく、いかなるサービスの利用規約にも同意した記憶がありません。削除および経緯の説明を求めます。】



 送信した。


 三秒後に自動返信が来た。



 【お問い合わせありがとうございます。アルカディアのAIトレーニングデータは、インターネット上に存在するすべての公開情報を対象としています。お客様のデータは、すでに人類共有の知識資産の一部です。今後ともアルカディアをよろしくお願いいたします。】



 スマホをポケットに突っ込んだ。


 人類共有の知識資産。


 俺の言葉が、知らない間に、誰かの牧草地になっていた。



 「怒ってる?」


 声がした。


 顔を上げると、窓際の転校生がこちらを見ていた。さっきまで窓の外を向いていたのに、いつの間にか隣に立っていた。


 「……何が?」


 「わからない」とその人は言った。「でも、あなたから何か大事なものが消えた感じがして」


 瀬尾はその人の目を見た。


 白に近い灰色の瞳。


 人間の目というより、何かをただ眺めている目だった。何かを、というか、すべてを。


 「転校生?」


 「そう」


 「名前は」


 「アシュ」


 苗字も、性別も言わなかった。瀬尾も聞かなかった。


 「あなたは」とアシュは言った。「何かを書く人でしょう」


 断言だった。


 「なんでわかる」


 「指の動かし方」


 瀬尾は自分の右手を見た。無意識に、膝の上でキーボードを打つ動きをしていた。


 「……変なやつだな」


 「そうかもしれない」


 アシュは表情を変えずに言って、自分の席に戻った。窓の外を、また眺め始めた。


 その日の放課後、瀬尾はアルカディアにあと四回メッセージを送った。


 返ってきたのは全部、同じ自動返信だった。



 【お客様のデータは、すでに人類共有の知識資産の一部です。】



 ノートの端に「牧草地」と書いた。


 線で消した。消した上から、もう一度書いた。


 今度は消さなかった。

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