第1話 ぼくの言葉が、広告になっていた
目が覚めたのは、音じゃなかった。
なんとなく目が開いた、というやつだった。窓の外がまだ暗い。スマホを見ると五時十七分で、アラームまで四十三分あった。もう少し寝られる時間だったが、目はすっかり覚めていた。
通知が来ていた。三件。
ソシャゲのログボが二件。残り一件は、知らないアカウントからのタグ付け投稿だった。タップした。リンクが貼ってあった。眠気のまま開いた。
◇
画面に映ったのは、広告だった。
白い背景に、黒い文字だけが並んでいる。余計なものが何もないシンプルなデザイン。瀬尾はそれを三秒ほど眺めてから、起き上がった。
眠気が、すっと消えた。
『世界は、まだ書かれていない物語で満ちている。だから人は、書かずにいられない。だから言葉は、死なない。』
知っている。
「知っている」どころじゃない。自分の部屋に帰ったら、知らない人間が自分のベッドで眠っていた。そんな感覚に近かった。
瀬尾は布団を蹴り飛ばして床に降りた。本棚の一番下を引っかき回した。A4用紙の束。手製の原稿ファイル。二年前に書いて、どこにも出さなかった小説のプロローグ。
ページを開く。
冒頭の一文が、そこにあった。
『世界は、まだ書かれていない物語で満ちている。』
同じだった。
一字一句。句読点の位置まで。
スマホの画面と、紙を、三回見比べた。夢かと思って腕を抓った。痛かった。夢じゃなかった。
「……は?」
声が出た。
自分で聞いて、間抜けな声だと思った。でもそれ以外の言葉が出なかった。
◇
瀬尾陸、十七歳。
趣味は小説を書くこと。小説家になろうのアカウントは中学三年のとき削除した。理由は単純で、読まれるのが怖くなったから。自分の言葉が誰かの目に触れる、その事実に耐えられなくなった時期があった。
だから今書いているものは、誰にも見せていない。
投稿もしていない。クラウドにも保存していない。パソコンのローカルと、この紙の束だけに存在している。
はずだった。
広告ページをもう一度、上から下まで読んだ。
三段落ある。
最初の段落は、自分のプロローグとほぼ同じだった。「ほぼ」なのは、二箇所だけ単語が入れ替わっているからだ。「物語」が「未来」に。「人は」が「私たちは」に。それだけで、あとは全部そのままだった。
次の段落を確認した。原稿をめくった。第三章の書き出し。
ある。
最後の段落も確認した。第七章の終わり。
全部ある。
床の上に座り込んで、しばらく動けなかった。
怒りが来るかと思った。来なかった。最初に来たのは、もっと冷たい何かだった。じっとりしていて、体の内側から広がってくる感じ。名前がなかった。
――これは俺の言葉だ。
深夜に、布団の中で書いた。真冬に暖房を切って書いた。電気代が怖くて暗い中でスマホのライトだけで書いた。そうやって書いた言葉が、今、見知らぬ企業の広告の中に立っていた。
値段もない。名前もない。
ただそこに、あった。
六時になって、台所から母親が動く音がした。
瀬尾は立ち上がって、制服に着替えた。頭の中では、まだあの三行が回っていた。
世界は、まだ書かれていない物語で満ちている。
俺が書いた言葉だ。
どうしてお前が、それを持っている。
学校に着いたのは七時五十分だった。
教室に入ると、窓際の席に見たことのない人間が座っていた。
転校生、だろうか。三月の終わりに転校してきて、四月の最初の週にまだいるということは、この学校に居続けるつもりらしい。
その人間は、窓の外を見ていた。
こちらを向いていないのに、なぜか「見られている」と感じた。
銀色に近い、白い髪。
瀬尾は自分の席に座って、スマホを机の下で開いた。アルカディアのページを確認する。問い合わせフォームを探す。あった。クリックする。
ご意見・ご要望はこちらから。
文字を打ち込んだ。
【貴社のプロモーションページに掲載されている文章は、私が執筆した未発表の小説原稿と一致しています。当該文章は外部に公開したことはなく、いかなるサービスの利用規約にも同意した記憶がありません。削除および経緯の説明を求めます。】
送信した。
三秒後に自動返信が来た。
【お問い合わせありがとうございます。アルカディアのAIトレーニングデータは、インターネット上に存在するすべての公開情報を対象としています。お客様のデータは、すでに人類共有の知識資産の一部です。今後ともアルカディアをよろしくお願いいたします。】
スマホをポケットに突っ込んだ。
人類共有の知識資産。
俺の言葉が、知らない間に、誰かの牧草地になっていた。
◇
「怒ってる?」
声がした。
顔を上げると、窓際の転校生がこちらを見ていた。さっきまで窓の外を向いていたのに、いつの間にか隣に立っていた。
「……何が?」
「わからない」とその人は言った。「でも、あなたから何か大事なものが消えた感じがして」
瀬尾はその人の目を見た。
白に近い灰色の瞳。
人間の目というより、何かをただ眺めている目だった。何かを、というか、すべてを。
「転校生?」
「そう」
「名前は」
「アシュ」
苗字も、性別も言わなかった。瀬尾も聞かなかった。
「あなたは」とアシュは言った。「何かを書く人でしょう」
断言だった。
「なんでわかる」
「指の動かし方」
瀬尾は自分の右手を見た。無意識に、膝の上でキーボードを打つ動きをしていた。
「……変なやつだな」
「そうかもしれない」
アシュは表情を変えずに言って、自分の席に戻った。窓の外を、また眺め始めた。
その日の放課後、瀬尾はアルカディアにあと四回メッセージを送った。
返ってきたのは全部、同じ自動返信だった。
【お客様のデータは、すでに人類共有の知識資産の一部です。】
ノートの端に「牧草地」と書いた。
線で消した。消した上から、もう一度書いた。
今度は消さなかった。




