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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第2章 救われたものたち

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第7話 削られた静けさ

 その日から、ルゥ=イリスは治療を受けた者たちの声ばかり聞くようになった。


 聞かなければいいのに、聞かずにはいられなかった。


 朝の食堂。洗い場。廊下。休息所の前。中庭の水場。白い施設の中では、人は静かに暮らしている。咳をする者もいれば、悪夢にうなされる子どももいるし、誰かの名前を呼んで泣く者もいる。完全な平穏ではない。それでも全体としては、外の世界よりずっと角が少なかった。


 少なすぎる、とルゥは思う。


 食後、彼女は寝具の交換を手伝わされていた。中庭に面した棟の休息室を回り、汚れた布を下げ、新しい敷布を運ぶ。部屋ごとに寝ている人間の気配は違う。熱のある者。痩せすぎて骨の軋む者。疲れ切って眠りの底へ沈んでいる者。そういう生の雑多さはちゃんとある。だが、その雑多さの上から、施設全体が一枚の白い布をかけているような感覚が消えない。


 窓辺の寝台では、昨日見かけた火傷跡のある青年が、穏やかな顔で眠っていた。昼間なら少しでも物音があれば起きそうな浅い眠りだったのに、今は驚くほど静かだ。呼吸も規則的で、眉間の皺もない。


「この人、前よりよく眠れるようになったんだよ」


 寝具を抱えたミナが、少し嬉しそうに囁いた。


「前は夜になると、何度も飛び起きてたから」


 ルゥは返事をしなかった。


 よく眠れることは、たぶん本当に救いだ。

 夜に眠れない人間が、朝をいくつ失うのかをルゥは知っている。

 母もそうだった。


 だが、寝台の上の青年の顔は、静かすぎた。

 痛みが引いただけの静けさではなく、痛みと一緒に別の何かまで遠のいてしまったような、平らな落ち着き方をしている。


 ルゥは布を広げながら、その寝息を聞いた。


 浅くない。

 だが深すぎるわけでもない。

 ただ、反響が少ない。


 人の眠りの音には、ふつうもっと揺れがある。夢を見るたび、過去の痛みに触れるたび、呼吸はわずかに乱れ、喉の奥で小さなひっかかりが起きる。けれどこの青年の眠りには、その凹凸が少なかった。なめらかで、穏やかで、そしてどこか削られている。


 ルゥは寝台の縁を掴む指先に、知らず力が入っているのを感じた。


 別の部屋へ移ると、そこには老女が起き上がっていた。


「今日はいい天気ですねえ」


 老女が言う。


 窓の外は曇っている。雨こそ降っていないが、いい天気と呼ぶには無理がある。だが老女の声に、冗談っぽさはなかった。ただ穏やかだった。


「ええ」


 ミナが微笑む。


「寒くないですか」


「大丈夫ですよ。ここは静かでねえ」


 その「静か」の言い方に、ルゥはひどく嫌なものを感じた。

 静か。

 確かにそうだ。

 けれどそれは、音が少ないからではない。

 人の中のざわめきまで薄められているからではないのか。


 部屋を出たあと、ルゥは思わず言った。


「みんな、あんな感じなの」


「どんな」


「……静かすぎる」


 ミナは少しだけ考えた。


「前より落ち着いた人は多いかも」


「落ち着いた、で済むの」


 ルゥの声が少し尖った。

 ミナは驚いた顔をしたが、怒りはしなかった。


「怖いものが減るなら、いいことじゃない?」


 その返答があまりにまっすぐで、ルゥは一瞬詰まる。


「全部が全部、怖いままでいなきゃいけないわけじゃないでしょう」


「でも」


「でも?」


 ミナは優しく問うた。

 責めるのではなく、本当に続きを待つ声だった。


 ルゥは口を閉じた。


 でも、その先の言葉はまだ整っていない。

 静かになることと、削られることの違い。

 やすらぐことと、薄くなることの違い。

 それを、今のミナにどう言えばいいのか分からなかった。


 午後になり、ルゥは医療棟の倉庫へ薬草を運ぶ役を言いつけられた。


 そこは施設の中でも少し空気が違う場所だった。壁に沿って棚が並び、乾燥させた草束、粉末薬、包帯、術具の箱がきちんと仕分けられている。白い施設の中では珍しく、薬の匂いが濃い。苦み、青臭さ、わずかな甘さ。それらに金属のにおいが混じる。


 人の気配は少ない。

 そのぶん、小さな音がよく聞こえる。


 棚の奥で、誰かが紙束を落とした。


 ルゥがそちらを向くと、白衣の若い男が慌ててしゃがみ込んでいた。痩せていて、目の下に隈がある。年は二十代半ばだろうか。医療助手に見えた。昨日の地下にいた者たちほど儀式めいた白ではなく、実務だけで擦り減っている人間の白衣だ。


「すみません」


 男は書類を拾い集めながら言う。

 ルゥに謝っているのか、自分の不手際に言っているのか分からない声だった。


「……別に」


 ルゥは薬草束を棚へ置く。

 その時、男の指先が少し震えているのが見えた。


 震えだけではない。

 呼吸が浅い。

 目が、少しだけ出入口の方を気にしている。


 怯えている。


 ルゥの耳が、意識する前にその不安を拾っていた。


「手伝いましょうか」


 口から出た言葉に、自分で少し驚いた。

 男も一瞬だけ驚いた顔をする。


「あ、いえ……」


 断ろうとして、それから諦めたように紙束を一部差し出す。


「ありがとうございます」


 紙は軽い。

 だが、内容までは見えないよう、すぐ紐でまとめられている。


 男はルゥの手元を見ず、紙を受け取りながら低く言った。


「……ここ、慣れましたか」


 世間話にしては唐突だった。

 ルゥは少しだけ目を細める。


「まだ」


「そうですか」


 男は頷く。

 それから、ほんの少しだけ声を落とした。


「慣れない方が、いいのかもしれません」


 ルゥは動きを止めた。


 倉庫の外では、誰かが器具を運ぶ音がする。

 遠くの廊下で祈りの声が一節だけ上がる。

 白い施設はいつも通りに動いている。


 なのに、この狭い倉庫の中だけ、空気が少し変わった。


「どういう意味ですか」


 ルゥが訊くと、男はすぐには答えなかった。

 唇を引き結び、棚の向こう側を一度だけ見る。

 誰かが来る気配を探るように。


「元のまま救うとは限らないんです」


 やっと出た声は、擦り切れた布の端みたいに頼りなかった。


 ルゥの喉がひどく冷える。


「……何を」


「しっ」


 男はほとんど反射で口元へ指を当てた。

 その動きがあまりに早くて、前から何度もそうしてきたのだと分かる。


「大きな声で言わないでください」


 大きな声など出していない。

 それでも男は本気で怯えていた。


 ルゥは一歩だけ近づく。

 男の目が泳ぐ。


「何を知ってるんですか」


「私は、別に……」


「じゃあ、今のは何です」


 言葉が強くなる。

 男は紙束を胸に抱え直し、苦しそうに目を伏せた。


「ここは、人を楽にします」


 その言い方が、ひどく嫌だった。


「でも……」


 そこで男の声が途切れる。


 倉庫の外で足音がした。

 ふたり分。

 ルゥの耳が先に気づき、男は一拍遅れて顔色を変えた。


 次の瞬間、倉庫の入口へ別の白衣の女が姿を見せる。


「どうしました?」


 明るい声だった。

 普通の、気遣う調子。


 男はびくりと肩を揺らし、紙束を持ち直す。


「いえ、書類を落としてしまって……」


「そう。気をつけてくださいね」


 女はにこりと笑い、ルゥの方へも軽く会釈した。


「ルゥさん、運搬ありがとうございます。終わったら次は中庭の洗い場へ」


「……分かりました」


 女はそれ以上何も言わず去っていく。

 足音が遠ざかる。

 けれど倉庫の空気は元に戻らなかった。


 男はもう何も言わない。

 いや、言えないのだ。


 ルゥがもう一度口を開こうとした時、男はほとんど懇願するような目で首を振った。


「今日はもう……」


 その声の奥にあるものを、ルゥは嫌というほど聞き取ってしまった。


 疲労。

 諦め。

 恐怖。

 そして、自分が口を滑らせたことへの後悔。


 これ以上追えば、壊れる。


 少なくとも今はそう判断できた。


 ルゥは無言のまま倉庫を出た。


 外の廊下は相変わらず白く、静かで、清潔だった。遠くで誰かが笑っている。子どもの足音が短く走り、すぐに大人にたしなめられる。どこにでもありそうな施設の日常だ。日常であることが、かえって怖い。


 元のまま救うとは限らない。


 男の言葉が、何度も耳の内側で反響する。


 夕方、ルゥは中庭の井戸端で布を洗っていた。冷たい水に手を浸し、汚れを落とす単純作業だ。日が傾き、白い壁に長い影が落ちている。乾いた風が布の端を揺らし、どこかから夕餉の匂いが流れてくる。


 そこへ、ミナが遅れてやってきた。


 相談室から戻ったらしい。顔色は変わらない。いや、変わらないことが妙に気になった。緊張していたはずなのに、今はもう何もなかったみたいな顔をしている。


「終わったの」


 ルゥが何気ないふりで訊くと、ミナは桶の前へしゃがみ込んだ。


「うん」


「何か言われた?」


「いろいろ」


「いろいろって」


 ミナは布を水に沈め、少しだけ考える。


「最近ちゃんと眠れてるかとか、嫌な夢を見るかとか、痛いところはないかとか。あと、怖いことは減ったかって」


 その言い方は自然だった。

 作り話には聞こえない。


「で」


「……ちょっとだけ、減った、って言った」


 夕方の風が、井戸端を通り抜ける。


 ルゥは濡れた布を絞る。水が指の隙間から落ち、石畳にしみを作った。


「本当」


 ミナは答えるまでに少しだけ間を置いた。


「本当だよ」


 その声には嘘がなかった。

 だからこそ、ルゥは苦しくなる。


 怖いものが減る。

 眠れるようになる。

 人として扱われる。

 名前を呼ばれる。

 同じ椀を使っていいと言われる。


 その全部が本物で、その先に地下がある。


 どうやって憎めばいいのか、分からなくなるほど厄介だ。


 中庭の向こうで、鐘が一度だけ鳴った。夕食の合図だろう。施設の中を人が動き始める。白衣の影が行き交い、子どもたちの小さな声が重なり、どこかでまた短い祈りが唱えられる。


 Cael の御名のもとに。


 いまだに姿を見せない神の名は、こうして日々の中へ薄く混ざっている。

 だからこそ不気味だ。


 ルゥが桶の中の最後の布を絞っていると、医療棟の方からひとりの白衣が足早に横切るのが見えた。昼間の医療助手だった。彼は一瞬だけ井戸端の方を見たが、ルゥと目が合う前にすぐ視線をそらし、そのまま建物の奥へ消える。


 嫌な予感がした。


 夜になっても、その予感は消えなかった。


 消灯前、廊下の空気はいつもより静かだった。静かすぎた、と言った方が近い。白い施設はもともと整っているが、今夜はその整いがどこか硬い。誰かが声を潜めると、その周囲まで一緒に浅く息をするような、そんな張りつめ方だ。


 寝台へ入る前、ルゥはすれ違った信徒へ何気なく訊いた。


「昼間、倉庫にいた助手の人、まだ働いてるんですか」


 年若い信徒は、きょとんとした顔をした。


「助手?」


「白衣の……痩せてる人」


 信徒は少しだけ首を傾げた。


「誰のことです?」


 その響きに、違和感が走る。


 知らない、ではない。

 最初からそんな人物はいなかったような響き。


 別の者にもそれとなく聞いたが、返ってくるのは似たような反応ばかりだった。曖昧に笑うか、話題をそらすか、そもそも最初から名前が浮かばない顔をするか。


 嘘だ、とルゥは思った。

 だが、嘘をつく時のひっかかりもまた薄い。

 まるで、思い出すのをやめることに慣れているみたいに。


 大部屋へ戻る頃には、ルゥの背中に冷たい汗が張りついていた。


 寝台に腰を下ろし、暗くなった天井を見上げる。周囲ではもう誰かが眠り始めている。浅い寝息。布擦れ。夜の施設の音は少ない。少ないが、その少なさ自体が今夜は恐ろしく思えた。


 元のまま救うとは限らない。

 そして、疑問を口にした人間は、もういないことにされる。


 そう考えた瞬間、昨日見た地下室と、今日の倉庫と、白い施設全体が一本の線でつながった。


 ここは、人を楽にする。

 そして、その楽さのために、人の輪郭を少しずつ削っていく。


 ルゥは毛布の上で拳を握った。

 爪が手のひらへ食い込む。

 それでも、痛みはまだ自分のものだ。


 誰にも聞こえないように息を吐き、ルゥは目を閉じた。


 明日、もっと奥を見なければならない。

 そうしなければ、ここで何が起きているのか、きっと白さの中へ埋もれてしまう。


 そして、その白さは人を埋める時でさえ、やさしい顔をしている。


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