第16話 まだ間に合う
翌日は、朝から妙に明るかった。
天気のことではない。空は相変わらず白く曇っていて、陽射しは薄い。けれど施設の中を行き交う人々の声だけが、いつもより少しだけ上を向いている。祝福の前日だからだと、ルゥ=イリスには分かった。
白い廊下を歩く足音。
布を運ぶ音。
食堂から流れてくる木椀の乾いた触れ合い。
どれも整っている。
整っているのに、その奥には、明日に向けた高揚みたいなものが薄く混じっていた。
献耳は、この施設では悲劇ではない。
少なくとも表向きは。
それは節目であり、前進であり、恐れを減らすための祝福だ。
だから、祝う。
それがたまらなく気持ち悪かった。
朝の祈りを終えたあと、ミナは白衣の女信徒に肩へ手を置かれていた。
「今日は無理をしないでね」
「はい」
「気分が悪くなったら、すぐ言うのよ」
「はい」
交わされる言葉はどれもやさしい。
体調を気遣い、緊張を和らげ、明日を怖がりすぎなくていいように声を整える。
母親にでも向けるみたいな声音だ。
ミナはその一つひとつに、きちんと頷いていた。
ルゥは廊下の端で、それを見ているふりをしないよう気をつけた。じっと見れば不自然だ。見ていないふりをしすぎても、それはそれで不自然になる。だから、白い壁の模様に視線をやりながら、耳だけを向けていた。
ミナの返事の奥には、昨日の夜ほど露骨な怖さはない。
押し込めているのだ。
整えられた返事の下へ。
それは前夜に「考える」と言った少女の声ではなく、共同体の中で祝福される側の声になりかけていた。
ルゥは唇の内側を噛んだ。
時間がない。
夜のうちに、ルゥは門の位置と見張りの巡回を確かめていた。完全な計画ではない。計画と呼べるほどのものですらない。だが、何もないよりはましだった。
施設の外門は夜になると半ば閉じられる。完全に封じるわけではなく、搬入や急患のために開け閉めできるようになっているらしい。だが見張りがつく。正面からは無理だ。中庭の裏手、洗い場のさらに奥にある搬出路の方がまだ可能性がある。洗濯物や医療廃材を運ぶための小門で、人の出入りは少ない。夜の見回りも正門ほど厳しくない。
問題は、そこまでミナを連れて行けるかどうかだった。
昼のあいだ、ルゥは何度か話しかける隙を探した。
だが施設は、明日の準備でいつも以上に人の手が多い。
祝福衣の最終調整。
処置前の食事管理。
相談室への呼び出し。
寝台の準備。
誰かが必ずミナの近くにいる。
昼食のあと、ようやく中庭の井戸端で二人きりになる瞬間があった。
ミナは桶に布を沈め、ぎこちない手つきで洗っている。今日は何をしていても、動きが半拍だけ遅い。怖さを隠せていないわけではない。むしろ逆で、隠すことへ神経を使いすぎて、動作の方が遅れている。
「ミナ」
ルゥが低く呼ぶと、ミナは肩を震わせた。
「……なに」
「今夜」
それだけで、ミナの手が止まる。
白い布が水の中でゆっくり沈んだ。
「行けるか」
ミナは答えない。
答えないかわりに、桶の水面だけを見つめる。
風が吹き、井戸の鎖がかすかに鳴る。
中庭の向こうでは、子どもが走って、すぐに誰かにたしなめられていた。
「昨日、考えるって言った」
ルゥは続ける。
「考えた」
ミナは、やっと小さく頷いた。
「……考えたよ」
「で」
その先を急かすつもりはなかった。
でも、時間がない以上、ゆっくり待ってもいられない。
ミナは布を絞る。
指先に力が入りすぎて、水が細く跳ねた。
「怖い」
昨日と同じ言葉。
けれど、今日は少しだけ違う。
「ここにいるのも、外に行くのも、どっちも怖い」
その答えは、あまりにも正直だった。
ルゥは何も返せなかった。
それが本当だと分かるからだ。
ここにいれば、明日、耳を落とされる。
外へ出れば、人の目がある。宿があるとは限らない。仕事もない。追手も来るかもしれない。
どちらも怖い。
どちらかだけが明確な救いに見えるわけではない。
「でも」
ミナの声が続く。
「昨日のまま、何も言わないで明日になるのは、もっと嫌かもしれない」
ルゥはそこで初めて、呼吸をひとつ取り戻した。
「じゃあ」
「でも、行けるかな」
ミナは顔を上げた。
目が揺れている。
逃げたい目でもあるし、もう無理だと諦めかけている目でもある。
「途中で誰かに見つかったら」
「見つかる前に行く」
「門、閉まってたら」
「裏に小門がある」
「その先は」
その問いに、ルゥはほんの一拍だけ詰まった。
その先は何もない。
少なくとも、今すぐ確実に差し出せる寝床も食卓もない。
だが、ここで嘘をつく気にもなれなかった。
「……分からない」
正直に言う。
「でも、明日の地下よりはましだ」
ミナは目を伏せた。
その言葉を、心のどこかで待っていたようにも見えた。
少なくとも、「大丈夫」とは違う。
何も保証しない。
怖さも消さない。
ただ、明日の地下ではない方を選ぶと言っているだけだ。
それが、少しだけミナの中へ届いた気がした。
「いつ」
「消灯のあと」
「どこ」
「中庭の裏。洗い場のさらに奥」
ミナは頷きかけて、止まる。
「……わたし、遅れたら」
「待たない」
ルゥは即答した。
自分でも驚くほど冷たく聞こえた。
だが、それ以外の言い方では駄目だと思った。
「待てない。来るなら来い」
ミナはその言葉に少しだけ目を見開き、それから――ほんのわずかに、楽になったような顔をした。
「うん」
たぶん、それでよかった。
優しすぎる言葉は、また彼女を迷わせる。
来てもいい、来なくてもいい、どちらでも――そういう余白は、今のミナには多すぎる。
来るなら来い。
そのくらいでちょうどいい。
午後は長かった。
施設の時間がいつもよりゆっくり流れているように感じる。ルゥは奉仕の間じゅう、時計の代わりに光の角度ばかり見ていた。白い廊下の窓へ差す明るさ。中庭の影の伸び方。灯りを入れる準備に入る信徒の動き。夕餉が近づくほど、胸の内側の鼓動が落ち着かなくなる。
ミナはそのあいだ、ほとんどルゥを見なかった。
目が合えば迷うからかもしれない。
あるいは、もう決めたことを揺らさないためかもしれない。
遠くから見る限り、彼女はいつも通りに働き、いつも通りに返事をし、明日献耳を受ける者として静かに祝福されていた。
その「いつも通り」が、いちばん怖い。
夕餉の席で、年配の女信徒がミナの椀へ少しだけ多く粥をよそった。
「明日のためにも、ちゃんと食べて」
「はい」
ミナは従う。
匙を持つ手は少しだけ震えていたが、他の者が気づくほどではない。
食後、礼拝がある。
Cael の名が唱えられる。
白い祭壇の空席が灯りを受ける。
人々は祈り、静けさの方へ身体を傾けていく。
そのあいだ中、ルゥはひどく気が立っていた。
見られるな。
揺れるな。
何一つ顔に出すな。
自分へ向けてそう命じ続ける。
礼拝の終わり際、後方の扉の近くにまた白い影が立った。
耳ありだ、とすぐ分かる。
誰も見ない。
だが皆が知っている。
その存在が、今夜の逃走に一層現実味を与えた。
上の者が耳を残し、下の者が差し出す。
その構造のまま、明日になればミナは地下へ行く。
消灯が告げられた時、ルゥの手のひらは汗ばんでいた。
大部屋へ戻り、寝台へ入る。
誰もが静かに横になる。
夜の施設は呼吸を細くしていく。
だが今夜は、ルゥの耳には静かすぎた。
見回りの足音の間隔。
廊下を行き来する白衣の数。
どこかで子どもが咳き込み、すぐにあやされる声。
全部を数えながら、消灯後の時間を待つ。
長い。
だが、やがて大部屋の呼吸が本当に眠りへ沈んだ頃、ルゥはそっと目を開けた。
起き上がる。
毛布の擦れる音を最小限にする。
隣の寝台の者は動かない。
ミナの方を見る。
暗がりの中で、彼女ももう起きていた。
目が合う。
今度は逸らさない。
怖がっている。
でも、来るつもりの目だ。
ルゥは何も言わず、先に立ち上がった。
大部屋の扉を音もなく開ける。
廊下は暗い。
壁際の魔導灯が小さく灯っているだけだ。
ミナも続いて出てくる。
裸足ではない。
柔らかい室内履き。
衣擦れは小さい。
ふたりは言葉を交わさず、中庭の方へ向かった。
白い廊下は夜になると昼よりさらに長く感じる。
曲がり角の一つひとつが遠い。
見回りの足音がどこから来るのか、ルゥの耳は必死で探っていた。
今のところ近くにはいない。
だが油断はできない。
中庭へ出る扉を開ける。
夜気が流れ込んだ。
冷たい。
けれど、外の匂いがした。土と湿り気と、壁の向こうにある街の、遠い生活の匂い。
ミナが小さく息を呑む。
それが恐怖なのか、安堵なのか、ルゥにはまだ分からない。
洗い場の脇を通り、裏手の搬出路へ向かう。
白い布が夜風に揺れている。
木箱。井戸。石塀。
見慣れた中庭の風景が、今夜だけは全部、門までの道しるべに見えた。
あと少しだ、とルゥは思った。
まだ間に合う。
その時だった。
足音がした。
近い。
しかも一人ではない。
ルゥは反射的にミナの腕を引き、洗い場の陰へ押し込む。
次の瞬間、廊下側の扉が開き、白衣の信徒がふたり、中庭へ出てきた。夜の見回りにしては声が低すぎる。いや、違う。誰かを探している声だ。
「ミナさん?」
「まだ大部屋に?」
「確認を」
ルゥの心臓が跳ねる。
早すぎる。
消灯からそれほど経っていない。
最初から警戒されていたのか。
あるいは、明日の祝福を受ける者が大部屋にいるか、毎夜確認しているのか。
ミナの腕が、ルゥの手の中でかすかに震えた。
信徒の足音が近づく。
洗い場の陰までは、あと数歩だ。
ルゥは唇を引き結んだ。
まだ終わっていない。
だが、もう簡単ではないことだけは、はっきり分かった。




