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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第3章 審問

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第10話 あなたは差異を愛していますか

 呼び出しは、昼過ぎに来た。


 名前を呼ばれたわけではない。

 大部屋へ戻ったルゥ=イリスのところへ、若い女信徒が静かに来て、「中央棟の小会堂へ」とだけ告げたのだ。声は穏やかで、急かしもしない。けれど拒む余地もまた、最初から用意されていない声音だった。


 大部屋には、その少し前から妙な緊張が漂っていた。誰も大きな声を出さない。寝台へ腰かけている者も、洗濯物を畳んでいる者も、何となく指先の動きが固い。外から見れば静かな共同生活のひとこまだ。だが、ルゥの耳にはその静けさの内側で、呼吸だけが細くなっていくのが分かった。


「先に行くね」


 部屋の隅で布を縫っていた女が、小さくそう言って立ち上がる。

 返事は二つ三つ。

 どれも短い。


 それからしばらくして、別の男が呼ばれた。

 また少しして、老人が。

 順番は整然としていて、混乱はない。

 それなのに、呼ばれるたびに部屋の空気だけが少しずつ痩せていく。


 ルゥは寝台の端に座り、手のひらを膝の上へ置いた。

 指先は冷えていた。

 さっき見た白い人影と、掲示板の文言と、噂めいた囁きが頭の中で重なっている。


 審問官。

 見られると動けなくなる。

 目を合わせてはいけない。


 馬鹿げた噂だと思いたかった。

 だが、この施設では馬鹿げた噂ほど、案外、本質だけを削り出している気がする。


 女信徒に促されて立ち上がる。

 廊下へ出ると、足音が妙に大きく聞こえた。

 自分のものだけではない。

 前を行く信徒の足取り、遠くで扉が閉まる音、窓の外で荷車が石畳を噛む音。それらすべてが、午後の白い施設の中では少しずつ削ぎ落とされ、必要な分だけ残っているみたいだった。


 中央棟の小会堂は、礼拝堂ほど広くない。

 だが人を並ばせるには十分な空間がある。


 既に十数人ほどが集められていた。信徒、保護対象、年配者、若い者、種族も混じっている。皆、壁際に沿って整然と並んでいるが、整然としていることそのものがもう怖い。誰も囁かず、誰も視線を正面に上げない。床を見るか、手元を見るか、あるいはぼんやりと虚空を見るか。とにかく、真正面を見ようとしない。


 ルゥは部屋の空気を探った。


 緊張。

 恐れ。

 祈るような諦め。

 それに、ごく薄い、自己点検の癖。


 ただ怖がっているだけではない。皆、自分の内側を先に整えようとしている。何を問われるか分からないまま、少しでも「よい答え」を持っていこうとしているような息づかいだった。


 前列の端に、ミナの姿があった。


 彼女は膝の前で両手を組み、目を伏せている。

 顔色は白い。

 だが取り乱してはいない。


 ルゥと目が合うと、ほんのわずかにだけ表情が揺れた。あのとき、中庭の裏で見せた迷いが、一瞬だけ戻ってくる。だがそれもすぐに収まり、また「静かな参加者」の顔へ戻ってしまう。


 小会堂の中央には椅子がひとつ、少し離れてもうひとつ置かれていた。

 問う者と、答える者のための距離だとすぐに分かる。


 そして、その奥の扉が開く。


 誰も息を呑まなかった。

 ただ全員の呼吸が、同時に浅くなった。


 Noctavius-ノクタヴィウス-は、静かに入ってきた。


 目立つような長身ではない。

 威圧的な歩き方もしない。

 見に纏う白衣は他の信徒たちと大きく違わないはずなのに、彼がまとう白だけが、どこか光を吸って見えた。髪はきちんと整えられ、伏せた目元には感情らしいものが見えにくい。怪物めいた派手さは何一つない。むしろ人間として、静かすぎる。


 だから、怖い。


 彼は部屋の中央まで来ると、まず集められた者たちを見渡さなかった。

 視線を上げること自体を、節約しているみたいだった。


「順に、お話を聞かせてください」


 声は低い。

 よく通るが、大きくはない。

 無理に人を従わせる声ではなく、人が自分から耳を澄ませてしまう声だ。


 ルゥはその声を聞いた瞬間、昨日の噂の意味を少しだけ理解した。

 目だけではない。

 この男は、存在の仕方そのものが、人に「整えられる側」の姿勢を取らせる。


 最初に呼ばれたのは、白髪の老人だった。


 老人は椅子に座ると、明らかに緊張していた。

 だがノクタヴィウスは責めるでもなく、穏やかな調子で問う。


「このところ、よく眠れていますか」


「は、はい……前よりは」


「それはよかった」


 それから少し間を置く。


「最近、心が乱れた瞬間はありますか」


 老人は戸惑った。

 だが、問いはそこで終わらない。


「誰かを羨みましたか」

「手放せない怒りはありますか」

「まだ、自分だけが損をしていると思うことはありますか」


 言葉は柔らかい。

 だが答える側は少しずつ削られていく。


 老人は最初、否定しようとした。だがノクタヴィウスは急かさず、ただ待つ。その待ち方がいちばん厄介だった。沈黙を埋めるのはいつだって、問われる側になる。


「……少しだけ」


 やがて老人が言う。


「若い者を見て、羨ましく思うことは、あります」


「そうですか」


 ノクタヴィウスは頷く。

 責めない。

 慰めもしない。


「それは、どんな時ですか」


 そこから先は、まるで老人自身が自分をほどいていくみたいだった。若い頃の身体。働けていた日のこと。残された者への嫉み。自分ばかりが置いていかれる感覚。言葉にしてしまえば、どれも人間として自然なものだ。


 だが、この場ではその自然さが、告白として積み上がっていく。


 次に呼ばれた若い女は、もっと早く崩れた。


「差異は、まだあなたを苦しめていますか」


 ノクタヴィウスがそう訊いた途端、女は唇を噛んだ。

 耳に痛みの残る治療跡が見える。

 彼女は昨日あたり献耳を受けた者かもしれない。


「……苦しめて、いました」


 過去形に言い直すところが、ひどく痛々しかった。


「今は」


「今は、少しだけ……静かです」


 その答えに、小会堂の後ろにいた数人が目を伏せる。

 聞きたくないのか。

 あるいは、同じことを言う番が自分にも来ると分かっているのか。


 ルゥは壁際に立ったまま、拳を握った。


 ここで行われているのは拷問ではない。

 糾弾でもない。

 むしろ人間の弱さへ、きちんと名前を与えてやる行為に見える。


 だから恐ろしい。


 やがてノクタヴィウスは、ふと別の問いを口にした。


「あなたは差異を愛していますか」


 小会堂の空気が、そこで一度だけ止まった気がした。


 愛していますか。


 善悪ではない。

 必要かどうかでもない。

 ただ、愛しているかと問う。


 答えた女は、すぐには言葉を出せなかった。

 指先が震え、喉が詰まり、それでもなんとか声を押し出す。


「……分かりません」


 その答えに、ノクタヴィウスは頷いた。


「分からない、でもいいのです」


 言いながらも、その声の奥には「いずれ答えは定まる」という確信がある。

 問うこと自体が、すでに答えの形を決めている。


 ルゥはそこではじめて、この審問が「何をしたか」を確認する場ではないと理解した。

 これは、人の内側を少しずつ白い方へ寄せる場だ。

 差異をどう思っているか。

 何をまだ手放せないか。

 どの痛みを、自分の輪郭として持ち続けようとしているか。

 それを測り、その上で整えるための入口なのだ。


 ノクタヴィウスの視線は、必要な時にしか上がらない。

 だからこそ皆、勝手に正面を避ける。

 見られたら何かが起こると知っているのか、あるいはそういう噂を信じているのか。どちらにしても、ここでは「見ないこと」が礼儀であり、防衛であり、もう半ば制度になっている。


 ミナの番が来た。


 呼ばれた瞬間、彼女の肩がほんの少しだけ震えた。

 それでも、立ち上がる足取りは乱れない。

 中央の椅子へ座る。

 膝の上で組んだ手が白くなるほど力が入っている。


「眠れていますか」


「はい」


「怖い夢は減りましたか」


「……少しだけ」


「それはよかった」


 ノクタヴィウスの問いは穏やかだ。

 だが穏やかであることが、ミナを救ってはいない。


「まだ手放せていないものはありますか」


 ミナは少し黙った。


「怖さが、まだ」


「何が怖いですか」


「……人の目が」


 小さな声だった。

 だが嘘はなかった。


 ノクタヴィウスは、そこで少しだけ顔を上げた。

 ほんの少しだけ。


 ルゥはその瞬間、周囲の空気が変わるのを感じた。

 目が合ったわけではない。

 合っていないのに、身体の内側が一拍遅れるような嫌な感覚がある。

 まるで部屋の中の全員が、一緒に呼吸を止めたみたいだった。


「では、あなたはまだ差異に傷ついているのですね」


 ミナは頷く。


「はい」


「それでも、差異を愛せますか」


 問いは静かだ。

 だが、この場で最も残酷な形をしていた。


 ミナは答えられなかった。

 答えられないまま、下を向く。

 それを責める声はない。

 責めない代わりに、答えの出せなさそのものが、この場の白さへ回収されていく。


 ルゥは息が詰まった。


 愛せるか。

 この世界の差異を。

 人を傷つけ、追い出し、怯えさせる輪郭を。

 愛していると簡単に言えるのは、傷の少ない側の人間だけかもしれない。


 なのに、ここでは愛せないことが、そのまま「薄めるべきもの」の証拠になっていく。


 ミナが席を立って戻ってくる。

 顔色は白い。

 だが泣いてはいない。

 泣けないのかもしれない。


 ルゥがほんの一瞬だけ視線を向けると、ミナもそれに気づいた。

 何かを言いたそうに見えて、何も言わない。

 小会堂では、そういう言葉さえ自分から抑えてしまうらしかった。


 しばらくして、若い女信徒が壁際へ来る。

 そして穏やかに告げた。


「ルゥさん」


 背中が冷える。


「次に、お願いします」


 周囲のざわめきはない。

 だが何人かの呼吸が、わずかに浅くなった。

 自分の番を見送る安心なのか、他人が剥がされる予感への痛みなのか、そこまでは分からない。


 ルゥは一歩前へ出た。


 小会堂の中央へ近づくほど、部屋の白さが別の意味を持ち始める。白い布、白い壁、白い衣。どれも責めるためではなく、混じりものを減らすための色に見えた。


 ノクタヴィウスはまだ視線を上げない。

 そのことがかえって恐ろしい。


 椅子に座る。

 背もたれは硬い。

 足裏が床へつく感覚だけが、妙にはっきりしていた。


「ルゥさん」


 ノクタヴィウスが名を呼ぶ。


 その瞬間、ルゥは気づいた。

 自分の名を、彼の声で呼ばれるだけで、輪郭が少し軋む。


「何を手放せずにいますか」


 最初の問いは、それだった。


 準備していたはずの言葉が、喉の手前で一瞬つかえる。


 まだだ。

 まだ何も見抜かれるわけにはいかない。

 そう思った時にはもう、指先だけが先に冬に触れたみたいに冷えていた。

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