第10話 あなたは差異を愛していますか
呼び出しは、昼過ぎに来た。
名前を呼ばれたわけではない。
大部屋へ戻ったルゥ=イリスのところへ、若い女信徒が静かに来て、「中央棟の小会堂へ」とだけ告げたのだ。声は穏やかで、急かしもしない。けれど拒む余地もまた、最初から用意されていない声音だった。
大部屋には、その少し前から妙な緊張が漂っていた。誰も大きな声を出さない。寝台へ腰かけている者も、洗濯物を畳んでいる者も、何となく指先の動きが固い。外から見れば静かな共同生活のひとこまだ。だが、ルゥの耳にはその静けさの内側で、呼吸だけが細くなっていくのが分かった。
「先に行くね」
部屋の隅で布を縫っていた女が、小さくそう言って立ち上がる。
返事は二つ三つ。
どれも短い。
それからしばらくして、別の男が呼ばれた。
また少しして、老人が。
順番は整然としていて、混乱はない。
それなのに、呼ばれるたびに部屋の空気だけが少しずつ痩せていく。
ルゥは寝台の端に座り、手のひらを膝の上へ置いた。
指先は冷えていた。
さっき見た白い人影と、掲示板の文言と、噂めいた囁きが頭の中で重なっている。
審問官。
見られると動けなくなる。
目を合わせてはいけない。
馬鹿げた噂だと思いたかった。
だが、この施設では馬鹿げた噂ほど、案外、本質だけを削り出している気がする。
女信徒に促されて立ち上がる。
廊下へ出ると、足音が妙に大きく聞こえた。
自分のものだけではない。
前を行く信徒の足取り、遠くで扉が閉まる音、窓の外で荷車が石畳を噛む音。それらすべてが、午後の白い施設の中では少しずつ削ぎ落とされ、必要な分だけ残っているみたいだった。
中央棟の小会堂は、礼拝堂ほど広くない。
だが人を並ばせるには十分な空間がある。
既に十数人ほどが集められていた。信徒、保護対象、年配者、若い者、種族も混じっている。皆、壁際に沿って整然と並んでいるが、整然としていることそのものがもう怖い。誰も囁かず、誰も視線を正面に上げない。床を見るか、手元を見るか、あるいはぼんやりと虚空を見るか。とにかく、真正面を見ようとしない。
ルゥは部屋の空気を探った。
緊張。
恐れ。
祈るような諦め。
それに、ごく薄い、自己点検の癖。
ただ怖がっているだけではない。皆、自分の内側を先に整えようとしている。何を問われるか分からないまま、少しでも「よい答え」を持っていこうとしているような息づかいだった。
前列の端に、ミナの姿があった。
彼女は膝の前で両手を組み、目を伏せている。
顔色は白い。
だが取り乱してはいない。
ルゥと目が合うと、ほんのわずかにだけ表情が揺れた。あのとき、中庭の裏で見せた迷いが、一瞬だけ戻ってくる。だがそれもすぐに収まり、また「静かな参加者」の顔へ戻ってしまう。
小会堂の中央には椅子がひとつ、少し離れてもうひとつ置かれていた。
問う者と、答える者のための距離だとすぐに分かる。
そして、その奥の扉が開く。
誰も息を呑まなかった。
ただ全員の呼吸が、同時に浅くなった。
Noctavius-ノクタヴィウス-は、静かに入ってきた。
目立つような長身ではない。
威圧的な歩き方もしない。
見に纏う白衣は他の信徒たちと大きく違わないはずなのに、彼がまとう白だけが、どこか光を吸って見えた。髪はきちんと整えられ、伏せた目元には感情らしいものが見えにくい。怪物めいた派手さは何一つない。むしろ人間として、静かすぎる。
だから、怖い。
彼は部屋の中央まで来ると、まず集められた者たちを見渡さなかった。
視線を上げること自体を、節約しているみたいだった。
「順に、お話を聞かせてください」
声は低い。
よく通るが、大きくはない。
無理に人を従わせる声ではなく、人が自分から耳を澄ませてしまう声だ。
ルゥはその声を聞いた瞬間、昨日の噂の意味を少しだけ理解した。
目だけではない。
この男は、存在の仕方そのものが、人に「整えられる側」の姿勢を取らせる。
最初に呼ばれたのは、白髪の老人だった。
老人は椅子に座ると、明らかに緊張していた。
だがノクタヴィウスは責めるでもなく、穏やかな調子で問う。
「このところ、よく眠れていますか」
「は、はい……前よりは」
「それはよかった」
それから少し間を置く。
「最近、心が乱れた瞬間はありますか」
老人は戸惑った。
だが、問いはそこで終わらない。
「誰かを羨みましたか」
「手放せない怒りはありますか」
「まだ、自分だけが損をしていると思うことはありますか」
言葉は柔らかい。
だが答える側は少しずつ削られていく。
老人は最初、否定しようとした。だがノクタヴィウスは急かさず、ただ待つ。その待ち方がいちばん厄介だった。沈黙を埋めるのはいつだって、問われる側になる。
「……少しだけ」
やがて老人が言う。
「若い者を見て、羨ましく思うことは、あります」
「そうですか」
ノクタヴィウスは頷く。
責めない。
慰めもしない。
「それは、どんな時ですか」
そこから先は、まるで老人自身が自分をほどいていくみたいだった。若い頃の身体。働けていた日のこと。残された者への嫉み。自分ばかりが置いていかれる感覚。言葉にしてしまえば、どれも人間として自然なものだ。
だが、この場ではその自然さが、告白として積み上がっていく。
次に呼ばれた若い女は、もっと早く崩れた。
「差異は、まだあなたを苦しめていますか」
ノクタヴィウスがそう訊いた途端、女は唇を噛んだ。
耳に痛みの残る治療跡が見える。
彼女は昨日あたり献耳を受けた者かもしれない。
「……苦しめて、いました」
過去形に言い直すところが、ひどく痛々しかった。
「今は」
「今は、少しだけ……静かです」
その答えに、小会堂の後ろにいた数人が目を伏せる。
聞きたくないのか。
あるいは、同じことを言う番が自分にも来ると分かっているのか。
ルゥは壁際に立ったまま、拳を握った。
ここで行われているのは拷問ではない。
糾弾でもない。
むしろ人間の弱さへ、きちんと名前を与えてやる行為に見える。
だから恐ろしい。
やがてノクタヴィウスは、ふと別の問いを口にした。
「あなたは差異を愛していますか」
小会堂の空気が、そこで一度だけ止まった気がした。
愛していますか。
善悪ではない。
必要かどうかでもない。
ただ、愛しているかと問う。
答えた女は、すぐには言葉を出せなかった。
指先が震え、喉が詰まり、それでもなんとか声を押し出す。
「……分かりません」
その答えに、ノクタヴィウスは頷いた。
「分からない、でもいいのです」
言いながらも、その声の奥には「いずれ答えは定まる」という確信がある。
問うこと自体が、すでに答えの形を決めている。
ルゥはそこではじめて、この審問が「何をしたか」を確認する場ではないと理解した。
これは、人の内側を少しずつ白い方へ寄せる場だ。
差異をどう思っているか。
何をまだ手放せないか。
どの痛みを、自分の輪郭として持ち続けようとしているか。
それを測り、その上で整えるための入口なのだ。
ノクタヴィウスの視線は、必要な時にしか上がらない。
だからこそ皆、勝手に正面を避ける。
見られたら何かが起こると知っているのか、あるいはそういう噂を信じているのか。どちらにしても、ここでは「見ないこと」が礼儀であり、防衛であり、もう半ば制度になっている。
ミナの番が来た。
呼ばれた瞬間、彼女の肩がほんの少しだけ震えた。
それでも、立ち上がる足取りは乱れない。
中央の椅子へ座る。
膝の上で組んだ手が白くなるほど力が入っている。
「眠れていますか」
「はい」
「怖い夢は減りましたか」
「……少しだけ」
「それはよかった」
ノクタヴィウスの問いは穏やかだ。
だが穏やかであることが、ミナを救ってはいない。
「まだ手放せていないものはありますか」
ミナは少し黙った。
「怖さが、まだ」
「何が怖いですか」
「……人の目が」
小さな声だった。
だが嘘はなかった。
ノクタヴィウスは、そこで少しだけ顔を上げた。
ほんの少しだけ。
ルゥはその瞬間、周囲の空気が変わるのを感じた。
目が合ったわけではない。
合っていないのに、身体の内側が一拍遅れるような嫌な感覚がある。
まるで部屋の中の全員が、一緒に呼吸を止めたみたいだった。
「では、あなたはまだ差異に傷ついているのですね」
ミナは頷く。
「はい」
「それでも、差異を愛せますか」
問いは静かだ。
だが、この場で最も残酷な形をしていた。
ミナは答えられなかった。
答えられないまま、下を向く。
それを責める声はない。
責めない代わりに、答えの出せなさそのものが、この場の白さへ回収されていく。
ルゥは息が詰まった。
愛せるか。
この世界の差異を。
人を傷つけ、追い出し、怯えさせる輪郭を。
愛していると簡単に言えるのは、傷の少ない側の人間だけかもしれない。
なのに、ここでは愛せないことが、そのまま「薄めるべきもの」の証拠になっていく。
ミナが席を立って戻ってくる。
顔色は白い。
だが泣いてはいない。
泣けないのかもしれない。
ルゥがほんの一瞬だけ視線を向けると、ミナもそれに気づいた。
何かを言いたそうに見えて、何も言わない。
小会堂では、そういう言葉さえ自分から抑えてしまうらしかった。
しばらくして、若い女信徒が壁際へ来る。
そして穏やかに告げた。
「ルゥさん」
背中が冷える。
「次に、お願いします」
周囲のざわめきはない。
だが何人かの呼吸が、わずかに浅くなった。
自分の番を見送る安心なのか、他人が剥がされる予感への痛みなのか、そこまでは分からない。
ルゥは一歩前へ出た。
小会堂の中央へ近づくほど、部屋の白さが別の意味を持ち始める。白い布、白い壁、白い衣。どれも責めるためではなく、混じりものを減らすための色に見えた。
ノクタヴィウスはまだ視線を上げない。
そのことがかえって恐ろしい。
椅子に座る。
背もたれは硬い。
足裏が床へつく感覚だけが、妙にはっきりしていた。
「ルゥさん」
ノクタヴィウスが名を呼ぶ。
その瞬間、ルゥは気づいた。
自分の名を、彼の声で呼ばれるだけで、輪郭が少し軋む。
「何を手放せずにいますか」
最初の問いは、それだった。
準備していたはずの言葉が、喉の手前で一瞬つかえる。
まだだ。
まだ何も見抜かれるわけにはいかない。
そう思った時にはもう、指先だけが先に冬に触れたみたいに冷えていた。




