愚父の慟哭〜「役立たずの娘は勘当だ」と追放した翌日、家の資産(聖女の加護)がすべて消滅し、暴徒に屋敷を焼かれるまで〜
「アイゼン公爵、此度の婚約破棄、まことに英断でございましたな」
「あのような陰気な娘よりも、愛らしいミア様の方が王太子妃にふさわしい」
「さすがは公爵、王家への忠誠心は見事なものです」
王宮の大広間、シャンデリアの輝きの下で、私は貴族たちからの賞賛を浴びていた。
手にしたグラスには最高級の赤ワイン。
口の中に広がる芳醇な香りと共に、私は優越感に浸っていた。
私、ゲオルグ・フォン・アイゼンは、このサンクティア王国きっての名門公爵家の当主である。
我が家は代々、王家を支える柱石として栄えてきた。
その誇り高き血筋に泥を塗る存在。
それが、私の娘、エリーゼだった。
地味で、無口で、愛想がない。
「聖女」として結界を維持しているというが、そんなものは目に見えない。
見えるのは、いつも顔色が悪く、パーティーの隅で壁の花となっている、みっともない姿だけだ。
あれを見るたびに、私は苛立ちを覚えていた。
なぜ、もっと華やかに振る舞えないのか。
なぜ、王太子殿下を喜ばせられないのか。
私の教育が悪いかのように陰口を叩かれるのが、我慢ならなかったのだ。
それに引き換え、男爵令嬢のミア・キャンベルはどうだ。
愛くるしい笑顔、殿下に甘える仕草、そして周囲を明るくする「光」。
あれこそが、公爵家の娘に……いや、未来の王妃にふさわしい器だ。
エリーゼなどという欠陥品は、早々に処分して、ミアを養女に迎えるなりして取り込んだ方が、我が家の繁栄につながる。
だから、今日の断罪劇は、私にとっても願ってもない好機だった。
「エリーゼ・フォン・アイゼン! 貴様との婚約を破棄する!」
フレデリック王太子殿下の高らかな宣言。
私は心の中で喝采を送った。
よくぞ言ってくださった。
これで、あのお荷物を堂々と切り捨てることができる。
娘が壇上に引きずり出される。
いじめの冤罪? 証拠?
そんなものはどうでもいい。
殿下が「黒」と言えば黒なのだ。
政治とはそういうものだ。
私は群衆をかき分け、娘の前に立った。
エリーゼが私を見上げる。
その瞳に、すがるような光があるかと思ったが、そこにあったのは驚くほど冷ややかな、ガラス玉のような無感情だった。
それがまた、私の癇に障った。
親に向かって、なんだその目は。
可愛げのない女だ。
パァンッ!!
私は渾身の力で、娘の頬を張り飛ばした。
掌に走る痺れが、心地よい高揚感をもたらす。
周囲の貴族たちが息を呑む気配がした。
これだ。
これこそが、「公爵家は王家の敵ではない」と証明する、最高のパフォーマンスだ。
「この……恥さらしがぁぁッ!!」
私は唾を飛ばして怒鳴りつけた。
「王太子殿下に、そして未来の聖女たるミア様に何という無礼を! 貴様のような性悪女は、我が公爵家の面汚しだ! 今ここで勘当する!」
地面に這いつくばるふりをして、殿下に恭順の意を示す。
完璧だ。
これで我が家の安泰は約束された。
エリーゼは追放され、野垂れ死ぬだろう。
だが、それがどうした?
家の繁栄のためなら、娘の一人や二人、安い生贄だ。
エリーゼは最後に「後悔なさいませんね?」などと負け惜しみを言っていたが、私は鼻で笑ってやった。
後悔?
するわけがない。
ゴミを捨てて清々することはあっても、後悔などあり得ないのだ。
娘が衛兵に引きずられていくのを、私は冷たいワインで乾杯しながら見送った。
さようなら、私の汚点。
これからは、新しい聖女ミア様の後見人として、更なる権力を手に入れるとしよう。
***
エリーゼを追放してから三日が過ぎた。
その間、私は忙しくも充実した日々を送っていた。
ミア様に贈るための宝石の手配、新しいドレスの発注、そして王太子殿下との親睦会。
公爵家の資産は潤沢だ。
エリーゼにかけていた無駄な経費が浮いた分、ミア様への投資に回せる。
「公爵様、薔薇園の管理費ですが……」
「ああ、適当にやっておけ。金ならある」
執事の言葉も上の空で聞き流す。
王都は今日も平和だ。
空は青く、水は清らかで、食卓には美食が並ぶ。
これが当たり前だと思っていた。
「聖女」がいなくなっても何も変わらないじゃないか。
やはり、エリーゼの力など大したものではなかったのだ。
そして、運命の午後が訪れた。
私は王宮のテラスで、殿下やミア様と共にティータイムを楽しんでいた。
テーブルには、領地から取り寄せた最高級の葡萄と、熟成されたチーズ。
グラスに注がれたヴィンテージワインは、ルビーのように美しく輝いている。
「アイゼン公爵、このワインは絶品だな」
「はっ、恐悦至極に存じます。我が領地の自慢の一品でして」
殿下の言葉に、私は深々と頭を下げる。
最高の気分だ。
これこそが、私が求めていた栄光の景色。
その時だった。
「ん……? なんだ、この味は……」
殿下が顔をしかめた。
私も自分のグラスに口をつける。
瞬間、強烈な酸味と、腐敗したような臭気が口いっぱいに広がった。
「ぶっ!! な、なんだこれは!?」
私は思わずワインを吐き出した。
これはワインではない。
まるで、何十年も放置して腐らせた酢……いや、汚水のような味だ。
「公爵! 腐ったワインを飲ませるとは何事だ!」
「も、申し訳ございません! すぐに取り替えさせます!」
私は慌てて給仕を呼ぼうとしたが、目の前の光景に言葉を失った。
テーブルの上にあった瑞々しい葡萄が、見る見るうちに茶色く変色し、萎びていく。
チーズには青カビが生え、ドロドロに溶け出している。
生クリームのケーキは崩れ落ち、悪臭を放ち始めた。
「きゃああああッ! 虫! 虫が湧いてるわ!」
ミア様が悲鳴を上げて飛びのいた。
腐った果物から、無数のコバエが一斉に湧き出したのだ。
「な、何が起きている……?」
混乱する私の耳に、パリーンッという硬質な音が響いた。
それは空から降ってきた。
見上げると、王都の空を覆っていた見えないドームが、ガラスのように砕け散るのが見えた。
その裂け目から、毒々しい紫色の雲が流れ込んでくる。
「結界が……壊れた?」
呆然と呟く私の目の前で、美しい王都の風景が一変した。
庭園の花々は一瞬で枯れ果て、噴水の水は濁った泥水に変わる。
そして、黒い雲の中から、コウモリのような翼を持つ異形の怪物たちが舞い降りてきた。
ガーゴイルだ。
「魔物だ! 魔物の襲撃だ!」
「衛兵! 衛兵は何をしている!」
優雅なティータイムは、瞬時にして戦場へと変わった。
ガーゴイルが貴族たちに襲いかかる。
悲鳴、怒号、そして肉が裂ける音。
「ひぃッ! く、来るな! 私は公爵だぞ!」
一匹のガーゴイルが、私の目の前に着地した。
石のような皮膚、赤い目。
その爪が振り上げられる。
「アイゼン公爵! 助けて!」
ミア様が私を盾にするように背中に隠れた。
ふざけるな。
お前は聖女だろう?
お前が守るべきだろう!
「ミア様! 光を! 聖女の力で追い払ってください!」
「無理ですぅ! 怖いぃぃ!」
泣き叫ぶだけの小娘。
その時、私は初めて気づいた。
こいつは、何もできない。
ただの飾りだ。
では、今までこの国を守っていたのは?
この豊かな水と、腐らない食料を維持していたのは?
エリーゼ。
あの日、殴り飛ばした娘の顔が脳裏をよぎる。
『後悔なさいませんね?』
あの言葉の意味が、今になって氷のように心臓に突き刺さった。
「宰相! 状況はどうなっている!」
殿下の叫び声に、泥だらけの宰相が答える。
「水が枯れました! 結界が消滅し、領地の作物も全滅です! 国が……国が死にます!」
死ぬ。
この国が?
アイゼン公爵家が?
馬鹿な。あり得ない。
私は慌てて、魔導師長が持ってきた通信用の水晶玉にしがみついた。
エリーゼだ。
あいつに連絡を取れ。
あいつは私の娘だ。
父親が命令すれば、必ず戻ってくる。
今までもそうだった。
どんなに冷遇しても、文句一つ言わずに従っていたではないか。
水晶玉が光り、映像が浮かび上がる。
そこには、我が家のサロンよりも遥かに豪華な部屋で、優雅に紅茶を嗜む娘の姿があった。
隣には、北の魔導皇帝カイザー。
その二人の姿は、あまりにも美しく、そして残酷なほどに幸せそうだった。
「お父様が悪かった! 一時の気の迷いだったんだ! お前は自慢の娘だ!」
私は必死に叫んだ。
プライドなどかなぐり捨てた。
今この瞬間も、背後ではガーゴイルの咆哮が聞こえている。
死にたくない。
失いたくない。
「だから戻ってきてくれ! 公爵家の資産をすべてお前に譲ってもいい!」
そうだ、金だ。
あいつは金に困っているはずだ。
地位も名誉も、私が与えてやればいい。
だが、エリーゼは微笑んだ。
その笑顔は、かつて私に向けたことのない、慈悲深く、それでいて絶対的な拒絶を含んだものだった。
「……あら、お父様。確か数時間前に『勘当だ、縁を切る』とおっしゃいましたよね?」
心臓が止まるかと思った。
「公爵家の家訓に『一度吐いた唾は飲み込むな』というものがありましたわよね? 私、その教えを忠実に守っておりますの」
言葉が出ない。
それは私が、幼い頃の彼女に口酸っぱく教えた言葉だ。
『貴族たるもの、一度決めたことを覆すな』
『甘えを捨てるのがアイゼン家の流儀だ』
その教育が、今、私自身の首を絞める鎖となって返ってきた。
「他人である貴方様の末路など、興味もございません」
通信が切れる。
私の希望も、そこで途絶えた。
他人。
そう、私は自ら、唯一の救いである娘を「他人」にしたのだ。
その後のことは、悪夢としか言いようがない。
王宮から命からがら逃げ出した私は、公爵邸へと向かった。
屋敷には私兵がいる。
備蓄もある。
あそこに籠れば、なんとか生き延びられるはずだ。
だが、屋敷の前に着いた時、私は絶望した。
そこには、松明と農具を持った暴徒の群れが押し寄せていたのだ。
市民たちだ。
水と食料を失い、恐怖に駆られた彼らは、怒りの矛先を貴族に向けた。
「アイゼン公爵だ! こいつが聖女様を追い出したんだ!」
「俺たちの水を返せ! 娘を返せ!」
「殺せ! 売国奴を焼き殺せ!」
屋敷からは火の手が上がっていた。
代々受け継いできた美術品が、家具が、すべて炎に包まれている。
使用人たちはとっくに逃げ出したか、暴徒に加担しているのだろう。
「ま、待て! 私は公爵だぞ! 話を聞け!」
私は叫んだが、飛んできた石が私の額を割った。
血が目に入る。
痛い。熱い。
馬車から引きずり下ろされ、自慢のシルクの服が引き裂かれる。
「やめろ! これは高いんだぞ!」
「うるせぇ! 俺たちは三日も水を飲んでねぇんだよ!」
殴られる。蹴られる。
泥水をかけられる。
これが、栄光あるアイゼン公爵の姿か?
王家の柱石と呼ばれた男の末路か?
「エリーゼ……助けてくれ……」
薄れゆく意識の中で、私は娘の名前を呼んだ。
だが、その声が彼女に届くことはない。
彼女は今頃、温かいスープを飲み、愛する人と笑っているのだろう。
私が与えなかった「愛」を、他国で手に入れて。
私は地面に這いつくばり、燃え盛る我が家を見上げた。
炎の中に、幼い頃のエリーゼの姿が見えた気がした。
まだ「聖女」と呼ばれる前、無邪気に私に花冠を作ってくれた、小さな娘。
『お父様、大好き』
そう言って笑っていた、あの子。
いつからだ。
いつから私は、あの子を「娘」ではなく「便利な道具」としてしか見なくなったのだ。
欲に目が眩み、権力に溺れ、本当の宝石を石ころだと勘違いして捨ててしまった。
後悔。
そう、これが後悔だ。
エリーゼは正しかった。
私は今、魂が焼き切れるほどの後悔をしている。
だが、もう遅い。
すべては手遅れだ。
「……あ……水……」
喉が焼けるように渇く。
目の前にある水たまりに、私は顔を突っ込んだ。
泥と血の味がする。
それでも、飲まずにはいられなかった。
かつて腐ったワインを飲ませたと激怒した私が、今は泥水を啜っている。
なんという皮肉だろう。
視界が暗くなる。
遠くで、ガーゴイルの羽音が聞こえる。
ああ、終わる。
私の人生、私の家、私の誇り。
すべてが、灰になって消えていく。
もし、生まれ変われるなら。
次は、ただの父親として、お前の頭を撫でてやりたかった。
……いや、それも叶わぬ夢か。
地獄に落ちる私と、天上の楽園にいるお前とでは、行き先が違いすぎるのだから。




