愚王の独白〜「真の聖女は君だ」と選んだ愛らしい恋人が、ただの無能だと気づいた時には、すべてが手遅れでした〜
シャンデリアの光が、私の未来を祝福するように輝いている。
王宮の大広間を満たす喝采と、羨望の眼差し。
その中心に立っているのは、この国、サンクティア王国の次期国王である私、フレデリック・サンクティアだ。
「フレデリック殿下、なんと凛々しい……」
「隣のミア様もお可愛らしいこと」
「まさにお似合いのカップルですわ」
貴族たちの囁きが心地よい音楽のように鼓膜を震わせる。
私は満足感に浸りながら、隣に寄り添う愛しい恋人、ミアの腰を抱き寄せた。
小柄で華奢な体、ふわふわとしたピンクブロンドの髪、そして私を崇拝する潤んだ瞳。
これだ。
これこそが、王太子の隣にふさわしい「華」というものだ。
それに比べて、今まで私の婚約者の座に居座っていたあの女はどうだ。
エリーゼ・フォン・アイゼン。
公爵家の娘というだけで、愛想もなく、地味で、いつも何かに耐えるような顔をして……。
見ているだけで気分が滅入る女だった。
「聖女」などと呼ばれているが、実際には部屋に引きこもって祈るふりをしているだけの、能無しの人形。
そんな女に、私がどれほど我慢を強いられてきたか。
今日、私はその呪縛から解放される。
建国記念パーティーという最高の舞台で、不要なゴミを捨て、本物の宝石を手に入れるのだ。
「エリーゼ・フォン・アイゼン! 前へ出ろ!」
私の声が広間に響き渡る。
群衆が割れ、その先からエリーゼがゆっくりと歩み出てきた。
顔色は悪く、化粧っ気もない。
ドレスも流行遅れのシンプルなものだ。
やはり、この場にふさわしくない。
「……お呼びでしょうか、殿下」
抑揚のない声。
その瞳には、私への愛情も敬意も見当たらない。
それがさらに私の神経を逆撫でする。
貴様は私の婚約者だろう?
なぜ、私に媚びない? なぜ、私を求めない?
その高慢な態度が気に入らないのだ。
「貴様との婚約を破棄する! 理由はその腐った性根だ! ミアをいじめた罪、万死に値する!」
私が突きつけた断罪に、会場が沸く。
証拠など、ミアの涙だけで十分だ。
誰もが私の言葉を信じ、エリーゼを蔑んでいる。
いい気味だ。
公爵令嬢という高い地位から引きずり下ろされ、泥にまみれるがいい。
「……承知いたしました」
だが、エリーゼの反応は私の予想を裏切るものだった。
泣き叫び、私の足にすがりついて許しを請うと思っていたのに。
彼女は、まるで興味がないと言わんばかりの冷めた目で私を見つめ、あっさりと受け入れたのだ。
「後悔なさいませんね?」
その言葉だけを残して、彼女は去っていった。
負け惜しみだ。
惨めな敗北者の、精一杯の虚勢に違いない。
私は鼻で笑い、彼女の背中を見送った。
「せいぜい、荒野で野垂れ死ぬがいい!」
私の怒声に、ミアが「きゃっ、殿下、素敵……」としなだれかかってくる。 私は勝利の美酒に酔いしれた。 これで邪魔者は消えた。 明日からは、ミアと共に愛に満ちた王国を築くのだ。 そう、信じて疑わなかった。
それから、三日が過ぎた。 あの陰気な女がいなくなった王宮は、驚くほど静かで快適だった。 誰も私に「公務をしてください」などと口うるさく言わない。 私はミアと甘い時間を過ごし、これからの輝かしい治世に思いを馳せていた。
しかし。 終わりの時は、唐突に訪れた。
午後のティータイムを楽しんでいた時だ。
「きゃあああああッ!!」
悲鳴が上がったのは、窓際の席だった。 何事かと視線を向けると、そこにあった美しい花瓶の薔薇が、一瞬にして茶色く変色し、ボロボロと崩れ落ちていた。 それだけではない。 テーブルに並べられた豪勢なケーキから、鼻をつくような腐臭が漂い始めたのだ。
「な、なんだ!? 何が起きている!?」 「くさい! 料理が……腐っているぞ!」
侍女たちが口を押さえて逃げ惑う。 新鮮だったはずの果物はドロドロに溶け、クリームには瞬く間にカビが生えていく。 まるで、時間だけが急激に進んだかのような惨状だ。
「殿下! 空を! 空をご覧ください!」
近衛騎士の叫び声に、私は窓の外を見上げた。 心臓が止まるかと思った。 つい先ほどまで晴れ渡っていた青空が、どす黒い紫色の雲に覆い尽くされている。 太陽が消え、昼間だというのに夜のような闇が世界を包み込んだ。 そして、遠くの空で、ガラスが割れるような甲高い音が響き渡った。
パリーンッ!!
それは、国境の方角から聞こえた気がした。 王国の誰もが聞いたことのない音だったが、本能的に理解できた。 守りが、砕けたのだと。
「け、結界が……消えた……?」
呆然と呟く私の耳に、不気味な羽音が聞こえてきた。
窓ガラスが次々と破られる。
侵入してきたのは、石像のような皮膚を持つ醜悪な怪物――ガーゴイルの群れだった。
「魔物だぁぁぁッ!!」
「いやぁぁ! 来ないで!」
大広間は阿鼻叫喚の地獄と化した。
着飾った貴婦人たちがドレスを引き裂かれ、宝石を奪われる。
勇敢であるはずの騎士たちが、恐怖で腰を抜かしている。
どういうことだ。
この国は「神聖結界」に守られているはずだ。
歴代の聖女たちが祈りで維持している、絶対の盾があるはずだ。
「……そうだ、聖女だ! ミア!」
私はハッとして、腕の中の恋人を見た。
彼女は「真の聖女」だ。
エリーゼのような偽物とは違う、神に選ばれた存在のはずだ。
「ミア! 聖女の力を使え! 結界を張り直して魔物を追い払うんだ!」
私は彼女の肩を揺さぶった。
しかし、ミアの反応は鈍い。
顔面は蒼白で、ガタガタと震えている。
「む、無理ですぅ……。あんな怖い魔物、見たことない……」
「何を言っている! お前は聖女だろう!? 光を出せ! 神に祈れ!」
「だ、だって……私、ただ癒しの光が出せるだけで……結界なんて張り方知らないもん……っ!」
ミアの言葉に、私は耳を疑った。
知らない?
聖女が、結界の張り方を知らないだと?
「う、嘘だろう……? お前、エリーゼより強い魔力を持っていると言ったじゃないか!」
「言いましたけどぉ! でも、あんなの、ただのハッタリで……! 殿下が喜んでくれるから……!」
ハッタリ。
その言葉が、私の頭の中で反響する。
じゃあ、なんだ。
あの蛍のような弱々しい光は、本当にただの「光るだけ」だったのか?
国を守る力など、最初からなかったのか?
「ふざけるな! 私はお前を王妃にするために、エリーゼを追放したんだぞ!」
「ひどいっ! 殿下が勝手にやったんじゃないですかぁ! 私、帰る! お家帰るぅ!」
ミアが泣き叫び、私を突き飛ばそうとする。
その醜い姿を見て、私は初めて理解した。
私は、ダイヤモンドをドブに捨てて、ただのガラス玉を拾ったのだと。
「殿下ーッ! 大変です!」
宰相が転がり込んできた。
その報告は、私をさらなる絶望へと突き落とした。
「王都の井戸水が枯れました! 貯水槽の水もすべて腐敗し、泥水に変わっております! それに、地方の農作物も全滅との報告が……!」
「な、なんだと……? 水が……?」
「はい! おそらく、水源の浄化システムと豊穣の加護が、同時に停止したのかと!」
水がない。食料がない。守りがない。
それはつまり、国の死を意味する。
「まさか……。あの女……エリーゼが……?」
私の脳裏に、去り際の彼女の冷たい瞳が蘇る。
『後悔なさいませんね?』
あれは、負け惜しみなどではなかった。
事実上の「死刑宣告」だったのだ。
彼女一人が、この国のライフラインのすべてを握っていたというのか。
祈るだけの無能だと思っていた女が、実は私の命綱を握っていたというのか。
「つ、通信だ! エリーゼに連絡を取れ! 今すぐにだ!」
私は叫んだ。
プライドなどどうでもいい。
このままでは私が死ぬ。
王である私が、喉の渇きに苦しんで死ぬなどあってはならない。
魔導師長が震える手で水晶玉を持ってきた。
繋がった映像の向こう側。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
優雅な調度品に囲まれ、湯気の立つ紅茶を口にするエリーゼ。
そして、その隣で彼女の肩を抱く、北の魔導皇帝カイザー。
二人はまるで、劇場の特等席で喜劇を鑑賞するかのように、こちらを見ていた。
「ごきげんよう、フレデリック殿下。ずいぶんと賑やかそうですわね」
エリーゼの声は、どこまでも落ち着いていた。
私は必死に取り繕った。
まだ間に合うはずだ。
私は王太子だ。命令すれば、彼女は戻ってくるはずだ。
彼女は私を愛していたのだから。
「こ、婚約破棄は取り消す! 戻ってこい! 正妃にしてやる!」
だが、返ってきたのは、氷のように冷徹な拒絶だった。
「お断りします」
「私が尽くしていたのは、この国の『民』と『土地』であって、貴方個人ではありません」
「貴方のような、外面だけで中身のない、傲慢で愚かな男性……正直、虫酸が走るほど嫌いでしたわ」
嫌い。
虫酸が走る。
その言葉が、鋭利な刃物となって私の心臓を抉る。
彼女は我慢していただけだったのだ。
私の隣にいることを、ずっと苦痛に感じていたのだ。
そして今、彼女は自分を正当に評価し、愛してくれる本物の王――カイザー皇帝の腕の中にいる。
「……幸せになりましょう、カイザー様」
彼女が見せた笑顔。
それは、十年以上婚約者だった私ですら、一度も見たことのない、心からの幸福に満ちた笑顔だった。
美しい。
皮肉にも、私の手が届かない場所に行って初めて、彼女がどれほど美しい女性だったかを知った。
「エリーゼェェェェッ!!」
通信が切れる瞬間、私は無様に絶叫した。
だが、その声が彼女に届くことは二度となかった。
その後、王都はどうなったか。
語るも無残な崩壊だった。
水と食料を巡って、民衆が暴徒化した。
彼らはもはや、王家の権威など恐れなかった。
飢えと渇きは、人を獣に変える。
「王家が聖女を追放したせいだ!」「偽聖女を殺せ!」という怒号と共に、何万という民衆が王城になだれ込んできたのだ。
近衛兵たちは真っ先に逃げ出した。
父上である国王陛下は、玉座にしがみついて喚き散らしていたが、暴徒に引きずり下ろされ、蹴り飛ばされた。
私は……私は、ただ震えていた。
ミアを盾にして逃げようとしたが、すぐに取り押さえられた。
「これが俺たちの王子様かよ」
「聖女様を追い出した馬鹿な男だ」
「俺たちの水を返せ! 家族を返せ!」
石が飛んでくる。唾を吐きかけられる。
かつて私を崇めていた民たちが、今は殺意に満ちた目で私を見ている。
痛い。怖い。やめてくれ。
私は王だぞ。選ばれた人間だぞ。
どうして私がこんな目に遭わなければならないんだ。
そして、現在。
私は王城の地下深くに幽閉されている。
かつては反逆者を閉じ込めていた、光の届かない石牢だ。
ここには窓がない。
時間の感覚もない。
あるのは、腐った藁の臭いと、絶望だけだ。
「水……水を……」
喉が張り付いて、声が出ない。
唇はひび割れ、舌は乾いたスポンジのようだ。
最後に泥水を啜ってから、何日が経っただろうか。
腹の虫も、もう鳴かなくなった。
隣の牢からは、父上のうめき声が聞こえる。
「わしは王だ……誰か……肉を……ワインを……」
かつての威厳は見る影もない。ただの老いぼれた亡者だ。
向かいの牢には、ミアがいる。
彼女は完全に壊れてしまった。
「見て、光よ! 綺麗でしょう? 褒めて殿下!」
何もない暗闇に向かって、血まみれの手を振っている。
その声を聞くたびに、私は自分の愚かさを突きつけられるようで、耳を塞ぎたくなる。
もし。
もし、あのパーティーの日。
私がエリーゼの手を取り、「いつもありがとう」と言えていたら。
彼女を壇上に上げるのではなく、静かなバルコニーで労いの言葉をかけていたら。
今頃、私は玉座に座り、彼女が淹れた温かい紅茶を飲んでいたのだろうか。
彼女は隣で、あの穏やかな声で、国の未来について語ってくれただろうか。
「……あ……」
暗闇の中に、幻覚が見えた。
白く輝くドレスを着たエリーゼが、私に微笑みかけている。
その手には、冷たい水の入ったグラスがある。
「エリーゼ……すまない……私が悪かった……」
私は這いつくばり、鉄格子の隙間から手を伸ばした。
だが、その手は空を切るだけだ。
幻覚のエリーゼは、悲しげに首を振り、そして背を向けて歩き出していく。
その先には、私よりも背が高く、私よりも強い、あの黒衣の皇帝が待っている。
「行くな……行かないでくれ……私を一人にしないでくれ……」
涙が枯れた瞳から、乾いた嗚咽が漏れる。
彼女はもう、二度と振り返らない。
彼女がいるのは、光あふれる地上の楽園。
私がいるのは、汚物と狂気に満ちた地下の地獄。
その距離は、永遠に埋まることはない。
ドォン……ドォン……。
遠くで重い音がする。
城が崩れている音か、それとも魔物が近づいている足音か。
どちらでもいい。
どうせ、私の運命は決まっている。
飢え死にするか、魔物に食われるか。
かつて「太陽」を自称した男の末路としては、あまりにも惨めで、滑稽な結末だ。
「……エリーゼ……」
薄れゆく意識の中で、私は最後に彼女の名前を呼んだ。
それは愛の言葉ではなく、失ったもののあまりの大きさを知った、愚者の懺悔だった。
暗闇が、私を飲み込んでいく。
さようなら、私の栄光。
さようなら、私の王国。
そして、永遠にさようなら、私の女神。




