第4話 完全なる「ざまぁ」と「極上の溺愛」
【サンクティア王国・王都廃墟】
かつて「大陸の宝石」と謳われた美しい王都は、今や見る影もなかった。
石畳は剥がれ、建物は半壊し、至る所から黒い煙が立ち上っている。
空は相変わらず鉛色の雲に覆われ、太陽の光が届くことはない。
街路には痩せこけた野良犬と、それ以上に目をギラつかせた飢えた人々が徘徊していた。
水がない。食料がない。希望がない。
あるのは、魔物の咆哮と、終わりのない絶望だけだ。
王城の地下牢。
かつては重罪人が押し込められる場所だったが、今は王族の避難所――いや、事実上の墓場となっていた。
湿った石壁に囲まれた独房の中で、ボロボロの服を纏った青年が膝を抱えて震えている。
元王太子、フレデリック・サンクティアその人である。
「水……水をくれ……」
彼は枯れ枝のような手で鉄格子を掴み、呻いた。
喉が張り付き、声が出ない。
最後にまともな水を飲んだのはいつだったか。
井戸は全て枯れ果て、わずかに残った備蓄水も腐敗して泥のようになっている。
「うるさいぞ、フレデリック! 貴様のせいでこうなったのだ!」
隣の独房から、しわがれた罵声が飛んでくる。
かつての国王だ。
威厳の欠片もなく、ただ息子を呪うだけの狂人となり果てていた。
民衆の暴動によって王城は制圧され、王族たちは命からがらこの地下へ逃げ込んだものの、出口は瓦礫で塞がれ、完全に孤立してしまったのだ。
「ち、違う……俺じゃない……。エリーゼだ、あの女が悪いんだ……」
フレデリックはブツブツと呟く。
現実逃避しかできない彼の耳に、ヒステリックな笑い声が聞こえてきた。
「あははは! 見て見て殿下、光よ! 光が出たの!」
向かいの独房で、髪を振り乱した女が自分の手を壁に打ち付けている。
元男爵令嬢、ミアだ。
彼女は「聖女の役目を果たせ」と民衆や兵士から過酷な暴行を受け、精神が崩壊していた。
血まみれの手を掲げ、幻覚の光を見ているのだ。
「これで魔物も消えるわ! 私、偉いでしょう? 褒めて、ねえ褒めてよぉ!」
「黙れ……! 貴様のせいだ、貴様があの時、聖女だなんて嘘をつかなければ!」
フレデリックが叫び返すが、ミアには届かない。
彼女は自分の世界に閉じこもり、永遠に訪れない救済を待ち続けている。
ドォォォォン……!
遠くで地響きがした。
地下牢の天井から砂がパラパラと落ちてくる。
魔物が城壁を突破し、いよいよこの地下区画に近づいている音だ。
「ひっ……! 来る、来るぞ!」
「嫌だ、死にたくない! 誰か、誰か助けてくれぇぇ!」
フレデリックは半狂乱になり、鉄格子をガンガンと揺らす。
だが、誰も来ない。
彼を守っていた騎士たちも、媚びを売っていた貴族たちも、我先にと逃げ出したか、魔物の餌食になった。
公爵家――エリーゼの実家も、民衆の怒りを買って屋敷ごと焼き討ちに遭い、一族郎党、消息不明だと聞く。
「エリーゼ……エリーゼェェッ!」
フレデリックはかつての婚約者の名を叫んだ。
もし、あの時。
彼女の手を離さなければ。
彼女の献身に気づいていれば。
今頃は、温かいスープを飲み、ふかふかのベッドで眠れていたはずなのに。
「ごめんなさい、許してくれ……戻ってきてくれぇぇ……!」
彼の懺悔は、近づいてくる魔物の唸り声とかき消され、虚しく闇に溶けていった。
それが、彼らに与えられた永遠の罰だった。
***
【バルディア帝国・帝都バルディオス】
一方、北の大国バルディア帝国は、かつてないほどの祝賀ムードに包まれていた。
雲一つない青空。
降り注ぐ太陽の光。
そして、街中を埋め尽くす色とりどりの花々。
帝城のバルコニーに立った私、エリーゼは、眼下に広がる光景に息を呑んだ。
帝都の大通りを埋め尽くす民衆が、一斉に歓声を上げ、手旗を振っている。
その熱気と笑顔の波が、地平線の彼方まで続いているようだった。
「緊張しているか? エリーゼ」
背後から、低く甘い声が掛かる。
振り返ると、正装に身を包んだカイザー様が立っていた。
漆黒の軍服に、金糸の刺繍が施されたマント。
その圧倒的な美貌とカリスマ性は、見る者すべてを平伏させる力がある。
だが、私に向けられる瞳だけは、とろけるように甘い。
「……少しだけ。こんなに多くの方々に祝福されるなんて、初めてですので」
私は正直に答えた。
サンクティア王国では、私は常に「影」だった。
表舞台に出ることは許されず、出たとしても嘲笑の的だった。
それが今、こうして「主役」として迎えられていることに、まだ実感が湧かないのだ。
「当然だろう。君はこの国に春を呼んだ女神なのだから」
カイザー様が私の腰を引き寄せ、耳元で囁く。
私がバルディア帝国に来てから三ヶ月。
私は持てる力の全てを使って、この国の環境改善に取り組んだ。
北国特有の厳しい寒さを和らげ、凍土を溶かし、穀物が育つ豊かな大地へと変えたのだ。
私の「聖核」は、ここでは制限なく、そして何より「感謝」と共に受け入れられた。
魔力を注げば注ぐほど、国民は喜び、カイザー様は私を褒め称えてくれた。
それが嬉しくて、私は毎日のように花を咲かせ、森を育てた。
結果、かつて「氷の国」と呼ばれたバルディアは、今や大陸一の農業大国へと変貌を遂げつつある。
「さあ、行こう。私の皇后、そして我が国の守護聖女」
カイザー様が手を差し出す。
私はその大きな手に、自分の手を重ねた。
今日の私は、純白のドレスに身を包んでいる。
帝国最高峰の職人たちが、徹夜で仕上げた至高の一品だ。
ダイヤモンドと魔石が散りばめられ、歩くたびに光の粒子が舞うような魔法が施されている。
「はい、あなた」
私たちは並んでバルコニーの先端へと進み出た。
その瞬間、地鳴りのような歓声が帝都を揺らした。
「皇帝陛下万歳!!」
「聖皇后エリーゼ様万歳!!」
「我らの光! 我らの救世主!」
人々が涙を流しながら叫んでいる。
子供たちが花束を掲げている。
老人が手を合わせている。
その全ての感情が、「感謝」と「敬愛」だった。
石を投げられたあの日の記憶が、温かな光に上書きされていくのを感じる。
カイザー様が手を挙げ、静粛を促した。
一瞬にして広場が静まり返る。
彼の声が、拡声魔法に乗って響き渡った。
「帝国民よ! 本日、私はここに宣言する! このエリーゼ・フォン・アイゼンを、私の唯一無二の伴侶とし、バルディア帝国の皇后として迎えることを!」
ワァァァァッ!! と再び歓声が上がる。
カイザー様は私の方を向き、片膝をついた。
その手には、見たこともないほど巨大な青い宝石――「竜の涙」と呼ばれる国宝級の魔石をあしらったティアラが握られていた。
「エリーゼ。君がくれた光に比べれば、この宝石など石ころに過ぎないが……受け取ってくれるか?」
「……はい。喜んで」
カイザー様がゆっくりと私の頭にティアラを載せる。
ずしりとした重み。
それは、責任の重さではなく、愛の重さだ。
彼は立ち上がると、そのまま私の唇に、情熱的なキスをした。
民衆の前だというのに、ためらいなど一切ない。
長い、長い口づけ。
広場からは、悲鳴にも似た歓声と、冷やかしの口笛が飛び交う。
「……んっ、陛下、みんな見てます……!」
「見せつけてやるんだ。君は私のものだと、世界中に知らしめるために」
カイザー様は悪戯っぽく笑い、私の腰を抱きしめたまま離そうとしない。
その腕の強さが、私に絶対的な安心感を与えてくれる。
「愛している、エリーゼ。君が死ぬその瞬間まで、いや、魂になっても、私は君を離さない」
「私も……私も愛しています、カイザー様」
私は彼の胸に顔を埋めた。
幸せだ。
本当に、心の底から。
かつて流した涙も、痛みも、全てはこの瞬間のためにあったのだと思えるほどに。
その夜。
盛大なパレードと舞踏会を終えた私たちは、王宮の最上階にある私室のテラスで、二人きりの時間を過ごしていた。
夜空には満天の星。
そして、眼下には光り輝く帝都の夜景が広がっている。
魔法灯の明かりが、まるで地上の天の川のようだ。
「……南の空は、暗いな」
カイザー様がグラスを片手に、ぽつりと呟いた。
その視線の先、はるか南の地平線は、黒い雲に覆われ、不気味な稲妻が走っている。
サンクティア王国の方角だ。
あそこにはもう、光はない。
私が去ったあの日から、あの国は外界との接触を断たれ、緩慢な死を迎えている。
「風の噂では、王都は壊滅し、生き残った人々は散り散りになったそうだ。フレデリックや、あの偽聖女の消息も不明……おそらく、瓦礫の下だろう」
カイザー様は淡々と告げる。
その言葉に、私は何の感情も抱かなかった。
同情も、憐憫も、もはや湧いてこない。
ただ、遠い国の出来事のような、無関心だけがあった。
「そうですか。……自業自得、ですね」
「ああ。愚か者の末路だ」
カイザー様は私の方を向き、南の空を背にして立った。
まるで、私の視界から不吉なものを遮るように。
「過去は死んだ。ここにあるのは未来だけだ」
彼は私の手を取り、指先に口づけを落とす。
「君の力で、この国はさらに発展するだろう。だが、無理はするなよ。君が疲れた顔をしていたら、私は国政など放り出して君を看病するからな」
「ふふ、それは困ります。名君である陛下には、しっかり働いていただかないと」
「なら、君が癒してくれ。……一生かけて」
甘い空気が流れる。
私は彼の首に腕を回し、爪先立ちになった。
「ええ、約束します。私の全ての力と、全ての愛を捧げます」
二人の影が重なる。
月明かりの下、私たちは何度も愛を確かめ合った。
冷たい風が吹くはずの北の大地で、ここだけは春のように温かい。
私の胸の中で輝く「聖核」も、心なしか嬉しそうに脈動している気がした。
私はもう、痛みに耐えるだけの聖女ではない。
愛され、愛し、そして自らの意志で世界を照らす「聖皇后」なのだ。
窓ガラスに映る私の顔は、かつて見たことがないほど、幸せに満ちていた。
これからの人生、きっと様々な困難があるだろう。
けれど、この最強のパートナーと一緒なら、どんな壁も乗り越えていける。
「……幸せになりましょう、カイザー様」
「ああ。世界で一番、幸せになろう」
私たちは微笑み合い、そして未来へと歩き出した。
南の空の闇など、もう二度と振り返ることはない。
私の前には、どこまでも続く、輝かしい光の道だけが広がっているのだから。




