第3話 崩壊する王国と偽物の末路
かつてないほど心地よい微睡みから目が覚めると、そこは天蓋付きの豪奢なベッドの上だった。
ふかふかの羽毛布団、肌触りの良いシルクのシーツ、そして部屋を満たす優雅なアロマの香り。
そこは、カイザー皇帝が用意してくれた帝国軍の飛空戦艦「ヴィーザル」の貴賓室だ。
国境で私を救出してくれた彼は、そのまま私をこの空の要塞へと招き入れ、冷え切った体を温めるための全てを提供してくれたのだ。
「……目が覚めたか、エリーゼ」
部屋の隅にある革張りのソファで書類を見ていたカイザー様が、私の気配に気づいて顔を上げた。
その表情は、国境で見せた冷酷な覇王の顔ではなく、割れ物に触れるような優しさを湛えている。
「陛下……。申し訳ありません、私、いつの間にか眠ってしまって……」
「謝る必要はない。君は長年、過酷な労働と魔力枯渇で限界を迎えていたんだ。むしろ、今まで倒れずにいたことが奇跡に近い。……医官の話では、あと半年あの生活を続けていれば、君の命は尽きていたそうだ」
カイザー様がベッドの縁に腰掛け、私の頬をそっと撫でる。
その言葉に、私は背筋が寒くなるのを感じた。
半年。
あと半年で、私は「聖女」という名の生贄として、誰にも感謝されることなく死んでいたのだ。
あの国のために。
あんな男たちのために。
「……助けていただき、本当にありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だ。君という至宝を手に入れられたのだからな。……さて、気分が良いようなら、少し見せたいものがある」
カイザー様はそう言うと、指をパチンと鳴らした。
すると、部屋の中空に巨大な魔法映像が展開された。
そこに映し出されていたのは、私がつい数時間前までいた場所――サンクティア王国の王宮大広間だった。
どうやら、彼が仕込んでいた偵察用の使い魔の視界を共有しているらしい。
映像の中の光景は、まさに「地獄絵図」と呼ぶに相応しいものだった。
***
「きゃああああああッ!!」
「な、なんだこれは!? 花が……料理が……!」
「窓が割れたぞ! 風が入ってくる! 臭い、なんだこの腐った卵のような臭いは!?」
王宮の大広間は、阿鼻叫喚の巷と化していた。
私が国境で「聖核」を抜き取り、結界の維持契約を破棄した瞬間、王国全土を覆っていた守護のドームは粉々に砕け散ったのだ。
映像越しでも、その惨状は手に取るようにわかった。
会場を彩っていた美しい薔薇の花々は、一瞬にして茶色く枯れ果て、花弁がボロボロと崩れ落ちている。
テーブルに並べられた最高級の料理――ローストビーフや果物の盛り合わせ――は、見るも無残に腐敗し、ドロドロの液体となって悪臭を放ち始めていた。
私が維持していた「鮮度保持」の加護が消えたため、時間の経過が一気に押し寄せたのだ。
「うぅ……気持ち悪い……」
「助けてくれ、息が苦しい……!」
着飾った貴族たちが、次々と喉を押さえて倒れ込んでいく。
結界によって遮断されていた外気の瘴気が、怒涛の勢いで王城内へ流れ込んでいるのだ。
彼らは知らなかっただろう。
自分たちが呼吸している空気が、どれほど私の魔力フィルターによって浄化された清潔なものだったかを。
彼らにとっての「当たり前」は、私の命そのものだったのだ。
「静まれ! 静まらんか!!」
壇上でフレデリック王太子が剣を抜き、喚き散らしている。
しかし、その顔は蒼白で、足はガクガクと震えていた。
彼の隣では、新聖女となったはずのミアが、床にへたり込んで泣きじゃくっている。
「どうなっているんだ!? なぜ急に空が暗くなった!? 衛兵! 誰か説明しろ!」
「で、殿下! 空をご覧ください! 太陽が……消えました!」
窓の外、王都の空は、毒々しい紫色と黒の雲に覆われ、昼間だというのに深夜のような暗闇に包まれていた。
時折、赤黒い稲妻が走り、不気味な雷鳴が轟く。
「ま、魔物だぁぁぁッ!!」
誰かの絶叫が響いた。
割れた窓から、蝙蝠に似た翼を持つ小型の魔獣「ガーゴイル」の群れが、雪崩のように侵入してきたのだ。
ガーゴイルたちは、飢えた獣のように貴族たちに襲いかかる。
「ひぃぃッ! 来るな! 私は伯爵だぞ!」
「いやぁぁ! ドレスが、私のドレスが!」
ガーゴイルの爪が、貴婦人のドレスを引き裂き、宝石を奪い取る。
衛兵たちが応戦するが、彼らの剣は魔獣の硬い皮膚に弾かれ、まるで歯が立たない。
これまで王都の衛兵たちが魔獣と戦う機会など皆無だったため、実戦経験が圧倒的に不足しているのだ。
彼らが「平和ボケ」していられたのも、すべて私の結界のおかげだったというのに。
「くそっ、くそっ! なんでこんなことに! おいミア! 何をしている、聖女の力を使え!」
フレデリック様が、ミアの肩を乱暴に揺さぶった。
「お前は真の聖女だろう!? その光で魔獣を追い払え! 結界を張り直せ!」
「む、無理ですぅ……! こんなの聞いてない……っ! 私、怖い、帰りたいぃぃ!」
ミアは恐怖で錯乱し、フレデリック様にしがみつくばかりだ。
彼女の手のひらからは、先ほど見せた蛍のような光すら出ていない。
恐怖と混乱で魔力回路が閉じているのか、それとも最初からその程度の力しかなかったのか。
「ええい、役立たずめ! 離せ!」
フレデリック様はミアを突き飛ばした。
ミアは無様に転がり、テーブルの残骸に突っ込む。
「きゃっ! ……ひどい、殿下……あんなに愛してるって言ったのに……」
「黙れ! 今そんなことを言っている場合か! このままでは全滅だぞ!」
その時、大広間の扉が乱暴に開かれ、王国の宰相と魔導師長が転がり込んできた。
二人とも服は乱れ、顔色は土気色だ。
「殿下! 大変です! 王都の井戸水がすべて泥水に変わりました!」
「城下の神殿に安置されていた『聖女像』が真っ二つに割れ、そこから黒い霧が噴き出しております!」
「通信魔道具もすべてダウンしました! 国内の貴族領とも連絡が取れません!」
次々ともたらされる凶報に、フレデリック様は剣を取り落とした。
カラン、と乾いた音が、彼らの終わりの始まりを告げる鐘のように響く。
「な……なんだと……? 水が……?」
「はい。どうやら、水源の浄化システムが完全に停止した模様です。このままでは、三日と持ちません……!」
宰相が悲痛な叫びを上げる。
水がなければ人は生きられない。
疫病も蔓延するだろう。
サンクティア王国は今、国家としての機能を完全に喪失したのだ。
「まさか……。あの女……エリーゼが……?」
フレデリック様が、ようやく思い当たったように呟く。
そう、気づくのが遅すぎる。
私が去り際に言った言葉。「後悔なさいませんね?」の意味を、彼はようやく理解し始めたようだ。
「……通信だ! エリーゼに連絡を取れ!」
フレデリック様が叫ぶ。
「魔導師長! 予備の緊急用回線があるはずだ! 奴はまだ国境付近にいるはずだ! 今すぐ繋げ!」
「は、はい! ただちに!」
魔導師長が震える手で、巨大な水晶玉を取り出した。
これは王家と聖女を繋ぐホットライン。
私が常に持ち歩いていた通信機の親機にあたるものだ。
***
ヴィーザルの貴賓室で、私の懐に入っていた通信機がブブブ、と震え始めた。
カイザー様が、面白そうに眉を上げる。
「来たな。どうする? 無視してもいいが」
「いいえ。……きちんと引導を渡して差し上げるのも、元婚約者の務めですわ」
私は通信機を取り出し、魔力を流して起動させた。
同時に、カイザー様が指を動かし、水晶玉の映像を空中に大きく投影する。
これで、向こうからもこちらの様子が見えるはずだ。
『お、おい! 繋がったか!? エリーゼか!?』
空中に浮かび上がった映像の向こうで、フレデリック様が水晶玉に必死にしがみついているのが見えた。
背景では、貴族たちが逃げ惑い、ガーゴイルが飛び回っている。
対して、こちらは優雅な貴賓室。
カイザー様が私の肩を抱き、私が最高級の紅茶を一口啜る。
そのあまりの落差に、フレデリック様は一瞬言葉を失ったようだ。
『……な……なんだその格好は……。どこにいるんだ……?』
「ごきげんよう、フレデリック殿下。ずいぶんと賑やかそうですわね」
私はカップをソーサーに置き、穏やかに微笑んだ。
あくまで優雅に。
聖女らしく、慈悲深く。
ただし、その瞳には一切の感情を込めずに。
「こちらはバルディア帝国の飛空戦艦の中です。カイザー陛下のご厚意で、とても快適に過ごさせていただいております」
『バ、バルディアだと!? 貴様、敵国に寝返ったのか! 売国奴め!』
「人聞きが悪いですわね。私は貴方に追放された身。どこの国へ行こうと自由でしょう?」
私が小首を傾げると、隣でカイザー様が低く笑った。
その威圧感のある笑い声が、通信機を通じて王宮に響き渡る。
『くっ……! そ、そんなことはどうでもいい! 今すぐ戻ってこい!』
フレデリック様は、焦りからか命令口調に戻った。
『王宮が大変なんだ! 結界が消えて、魔物が入ってきた! 水も腐った! お前が何か細工をしたんだろう!? すぐに元に戻せ!』
「あら、心外ですわ。私は何も『細工』などしておりません」
私は淡々と事実を告げる。
「ただ、私が私有財産として提供していた『神の力』を、すべて回収しただけです。私が聖女をクビになった以上、無償で国を守ってあげる義理はありませんから」
『なっ……!? 回収だと!? あれは国のものだろう!』
「いいえ。あれは私の寿命と引き換えに生成していたものです。契約書にも『聖女の解任と共に、一切の加護は失効する』と明記されていたはずですが……読んでいらっしゃらなかったのですか?」
読んでいないだろう。
彼は難しい書類仕事が大嫌いで、いつも私や宰相に丸投げしていたのだから。
フレデリック様の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
『だ、だが、こんなことになるとは……! おい、わかった、悪かった! 謝る!』
プライドの高い彼が、なりふり構わず叫び出した。
背後でガーゴイルに襲われた貴族の悲鳴が上がり、彼の焦燥感を煽る。
『婚約破棄は取り消す! 追放もなしだ! すぐに戻ってきて結界を張れ! そうすれば、お前を正妃にしてやる! ミアは側室に降格だ! それで文句はないだろう!』
私は呆れて溜息をついた。
この期に及んで、まだ自分が上の立場にいると思っているのだろうか。
「正妃にしてやる」?
それが私にとってご褒美になるとでも?
「……お断りします」
私の拒絶の言葉に、フレデリック様が凍りつく。
『は……? 断る……? 王妃になれるんだぞ!? お前はずっと俺を愛していたじゃないか!』
「愛? ……ふふ、勘違いなさらないでください」
私は、今まで誰にも見せたことのない、冷え切った瞳で彼を見据えた。
画面越しの彼が、ひっ、と息を呑むのがわかる。
「私が尽くしていたのは、この国の『民』と『土地』であって、貴方個人ではありません。貴方のような、外面だけで中身のない、傲慢で愚かな男性……正直、虫酸が走るほど嫌いでしたわ」
『な……ん……だと……』
「それに、王妃? そんな激務と責任ばかり押し付けられる地位、誰が欲しがるのですか? 私はもう、過労死寸前の生活には戻りたくありません」
私は隣に座るカイザー様に視線を向けた。
彼は満足そうに頷き、私の手を握ってくれる。
「今の私は、カイザー陛下に愛され、大切にされています。陛下は私に『働け』とはおっしゃいません。『ただ笑っていてくれればいい』と言ってくださいます。……どちらが女性として幸せか、比べるまでもありませんわ」
『そ、そんな……嘘だ……』
フレデリック様が膝から崩れ落ちるのが見えた。
絶望。
後悔。
しかし、まだ足りない。
私の十年間の苦しみは、そんなものでは到底償えない。
『ま、待ってくれ! エリーゼ!』
今度は、後ろに控えていた父、アイゼン公爵が水晶玉の前に割り込んできた。
頬にはガーゴイルに引っ掻かれたのか、血が滲んでいる。
『私が悪かった! 一時の気の迷いだったんだ! お前は自慢の娘だ! だから戻ってきてくれ! 公爵家の資産をすべてお前に譲ってもいい!』
「……あら、お父様。確か数時間前に『勘当だ、縁を切る』とおっしゃいましたよね?」
私はにっこりと笑いかけた。
「公爵家の家訓に『一度吐いた唾は飲み込むな』というものがありましたわよね? 私、その教えを忠実に守っておりますの。……他人である貴方様の末路など、興味もございません」
父の顔が絶望に歪む。
私は通信機に手をかざし、切断の準備に入った。
『いやだ! 嫌だぁぁぁ! エリーゼ、見捨てないでくれぇぇ!』
『私たちが悪かった! 何でもするから! 靴でも舐めるからぁぁ!』
画面の向こうで、かつての婚約者と実の父が、醜く泣き叫び、這いつくばっている。
周囲の貴族たちも、「聖女様、お慈悲を!」「助けてくれ!」と口々に叫んでいる。
かつて私を「陰気な女」「無能」と嘲笑った口で。
私は、彼らに向かって最後の言葉を贈った。
「そういえば、ミア様が真の聖女なのでしたわね? 彼女の『神々しい光』があれば、ガーゴイルの一匹や二匹、簡単に浄化できるはずですわ」
私は画面の隅で震えているミアに、冷ややかな視線を送った。
「頑張ってくださいませ、新聖女様。貴女が望んで奪い取った場所ですもの。責任を持って、その命が尽きるまで国を支えてくださいね? ……もっとも、その微弱な魔力では、王都の街灯一つ灯すのが限界でしょうけれど」
『ひっ……! いや、いやぁぁぁ!』
ミアが発狂したように頭を抱えて叫ぶ。
「それでは、ごきげんよう。……永遠に」
私は指先で通信機のスイッチを切った。
ブツン、という音と共に、王宮の映像が消える。
最後に聞こえたのは、フレデリック様の「エリーゼェェェェッ!!」という、断末魔のような絶叫だった。
部屋に静寂が戻る。
私は深く息を吐き出し、ソファの背もたれに体を預けた。
胸のつかえが、完全に取れた気がした。
罪悪感など微塵もない。
あるのは、長年積もった埃を払い落としたような、清々しい爽快感だけだ。
「……見事な手際だ」
カイザー様が感嘆の声を漏らし、私に温かいミルクティーを差し出してくれた。
「もっと迷うかと思っていたが、君は私が思っていた以上に潔いな」
「彼らは私を殺そうとしたのです。情けをかける理由がありません」
「ふっ、その通りだ。敵には容赦なく、味方には慈悲を。君はやはり、私の后にふさわしい」
カイザー様は楽しそうに笑い、私の髪に口づけを落とした。
「さて、ショーは終わりだ。これ以上あの国を見ても気分が悪くなるだけだろう。……行くぞ、エリーゼ。我が帝都が、新しい女主人を待ちわびている」
私は頷き、彼の手を取った。
窓の外を見る。
眼下に広がる雲海を抜け、飛空戦艦は北へと進んでいく。
サンクティア王国は、もう遠く彼方の黒い点となっていた。
あの黒い雲の下で、今まさに何が起きているのか。
水はなく、食料は腐り、魔物が蔓延る閉鎖空間。
助けは来ない。
隣国である帝国は国境を封鎖するだろうし、他の国々も「聖女の怒りを買った呪われた国」として関わりを避けるだろう。
彼らはこれから、長く苦しい地獄を味わうことになる。
互いに責任を押し付け合い、憎しみ合いながら、ゆっくりと滅んでいくのだ。
それは、彼らが私に与えた苦痛の総量に比べれば、まだ生ぬるいかもしれないけれど。
「はい、あなた」
私はカイザー様に向き直り、心からの笑顔を向けた。
「連れて行ってください。私の、本当の居場所へ」
戦艦が速度を上げる。
エンジン音が力強く響き、私たちは未来へと加速していく。
背後の闇は、もう二度と私を捕らえることはできない。
完全なる決別。
そして、私自身の人生の、本当の始まりだった。
(さようなら、愚かな人たち。どうぞ、その絶望の底で、私がいた日々のありがたみを噛み締めながら朽ち果ててください)
心の中で最後の別れを告げ、私はカイザー様の温かい腕の中に身を委ねた。




