第2話 神の降臨と絶縁宣言
ガタン、と車輪が大きな石に乗り上げ、私の体は硬い木の床に打ち付けられた。
囚人護送用の馬車にはクッションなどという贅沢品は存在しない。
窓には鉄格子が嵌められ、そこから吹き込む隙間風が、薄いドレス一枚の肌を容赦なく冷やしていく。
王都を出発してから三日三晩。
食事らしい食事も与えられず、ただひたすらに国境へと馬車は走り続けていた。
「おい、魔女。生きてるか?」
御者台から下品な声が掛かる。
護衛の騎士たちだ。彼らは王太子の腰巾着で、私を虐げることを一種の娯楽のように楽しんでいた。
「……ええ、生きていますわ」
「ちっ、しぶとい女だ。さっさとくたばれば手間が省けるのによ」
下卑た笑い声が風に乗って聞こえる。
私は何も答えず、ただじっと膝を抱えていた。
空腹も寒さも、今の私にはどうでもよかった。
むしろ、王都から離れれば離れるほど、体が軽くなっていくのを感じていたからだ。
まるで、重い鎖が一本ずつ外れていくような感覚。
私が維持していた「神聖結界」の中心点から距離を取ることで、私の魔力回路にかかっていた負荷が物理的に軽減されているのだ。
(ああ、なんて清々しいのでしょう)
皮肉なものだ。
追放されるというのに、私の体調はここ数年で一番良い。
呼吸ができる。
肺に空気が満ちる。
指先の感覚が戻ってくる。
それがどれほど幸せなことか、あのお城でぬくぬくと暮らしている彼らには一生理解できないだろう。
やがて、馬車が停止した。
重い扉が乱暴に開け放たれる。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの荒野だった。
草木一本生えない赤茶けた大地。
乾いた風が砂煙を巻き上げ、遠くで魔獣の遠吠えが聞こえる。
ここが、サンクティア王国と、北方の軍事大国バルディア帝国との国境地帯、「嘆きの荒野」だ。
「降りろ」
騎士の一人が私の腕を掴み、地面へと放り出した。
受け身を取る間もなく、私は砂利の上に倒れ込む。
手のひらを擦りむき、血が滲んだ。
「ここがお前の墓場だ、元公爵令嬢」
「運が良ければ帝国のパトロールに拾われるかもしれんが、まあ、その前にオークの餌だろうな」
「フレデリック殿下とミア様の邪魔をした報いだ。地獄で後悔するんだな」
彼らは私に背を向け、馬車へと戻っていく。
水筒の一本も、毛布の一枚も置いていかない。
完全な見殺しだ。
遠ざかる馬車の車輪が砂を巻き上げる。
彼らは一度も振り返ることなく、来た道を戻っていった。
自分たちが今、世界最強の「守護」を捨てて帰っていくのだということにも気づかずに。
周囲には静寂だけが残された。
寒風が吹き荒れる荒野の真ん中で、私はゆっくりと立ち上がった。
ドレスは汚れ、破れている。
髪もボサボサだ。
けれど、私の背筋はかつてないほどに伸びていた。
「……終わった」
私は空を見上げた。
雲一つない、冷たい冬の空。
その時、私の胸の奥底で、ずっと封印してきた「扉」がノックされた。
『……愛し子よ』
頭の中に直接響く、荘厳でありながら、どこか慈愛に満ちた声。
それは、私が物心ついた時から唯一対話を許されてきた存在。
この世界の理を司る唯一神、「アルウス」の声だった。
『よくぞ耐えた。人の身でありながら、我が力をその身に宿し、愚かな者たちのために寿命を削り続けた献身。……契約の期間は満了した』
その言葉と共に、私の体から目もくらむような黄金の光が溢れ出した。
足元の荒野が震える。
枯れ果てていた大地から、一斉に新芽が芽吹き、私の周囲だけが春のような温かさに包まれる。
それは私の魔力ではない。
神の意志そのものだ。
「アルウス様……。見ておられましたか?」
『全てを見ていた。彼らの傲慢も、怠惰も、そしてお前への非道な仕打ちも。……もはや、あの地に加護を与える理由はなくなった』
神の声には、静かな怒りが含まれていた。
神は慈悲深いが、同時に対価には厳しい。
恩を仇で返す者たちに、いつまでも恵みを与え続けるほど甘くはないのだ。
『エリーゼよ。お前の体内に埋め込まれた「聖核」を解き放て。それはお前の魂の一部であり、あの国に貸し出していた力の源泉だ』
私は頷き、胸に手を当てた。
聖核。
それは、王国の水源を満たし、作物を育て、疫病を防ぐための莫大なエネルギーの塊。
歴代の聖女たちは、これを体内に宿すことで「人柱」となり、国を支えてきた。
だが、それは本来、神が認めた「管理権限者」だけが扱えるシステムキーのようなものだ。
「……返還」
私が静かに唱えると、胸の中心から眩い光の球体が浮かび上がった。
テニスボールほどの大きさのその光は、脈動するように輝いている。
それを両手で包み込んだ瞬間、私の体内に莫大な力が還流した。
今まで「出力」に回されていた全エネルギーが、私の「強化」へと転換される。
すり傷が瞬時に塞がり、肌に血色が戻り、やせ細っていた手足に力がみなぎる。
髪は艶を取り戻し、瞳は宝石のように輝きを増した。
これが、私の本来の姿。
そして、私の手の中にあるこの光が消えれば……。
私は王国の方向を振り返った。
まだ肉眼では見えないが、私の「聖視」の能力でははっきりと感じ取れる。
王都の地下水脈が、急速に水位を下げ始めている。
結界のドームに亀裂が入り、ガラスが割れるように崩壊していく様が。
『行け、愛し子よ。お前を正当に評価し、守り抜く者のもとへ。新たな契約者は、すでに来ている』
神の声が消えると同時に、地鳴りのような音が響いてきた。
魔獣の群れではない。
もっと規律の取れた、重厚な響き。
そして空を覆う巨大な影。
私は顔を上げた。
北の空から、数体の巨大な飛竜が降下してくるのが見えた。
鋼鉄の鱗を持つ黒い飛竜。
それに騎乗するのは、漆黒の鎧に身を包んだ騎士たち。
その先頭を行く、一際巨大な古代竜の背に乗った人物に、私は目を奪われた。
着地と同時に巻き起こる突風。
砂埃の中から現れたのは、夜の闇を溶かして固めたような黒髪と、凍てつく氷河のようなアイスブルーの瞳を持つ青年だった。
身長は高く、威圧感は王太子の比ではない。
纏っている空気が違う。
彼が歩くだけで、周囲の空間が緊張し、ひれ伏すような錯覚を覚える。
北の大国、バルディア帝国の若き皇帝。
カイザー・ドラグノフ。
「氷の魔導皇帝」と恐れられ、その冷酷さと武力で大陸北半分を平定した覇王だ。
彼は私の目の前まで来ると、その鋭い視線で私を頭の先から足の先まで観察した。
私は逃げなかった。
ただ静かに、彼の瞳を見つめ返した。
数秒の沈黙の後、カイザー皇帝は、信じられない行動に出た。
彼は私の前に片膝をつき、恭しく頭を垂れたのだ。
背後に控える屈強な竜騎士たちも、一斉にそれに倣う。
「……遅くなってすまない。エリーゼ嬢」
その声は、噂に聞く冷酷な響きではなく、驚くほど低く、甘く、そして震えていた。
「もっと早く迎えに来たかったが、国境警備の結界が邪魔で入れなかった。……君がそれを解除するのを、ずっと待っていた」
彼は顔を上げ、私の手を取った。
冷たい革の手袋越しでも、その手の温もりが伝わってくる。
「あなたは……敵国の皇帝陛下です。なぜ、追放された私などに頭を下げるのですか?」
「敵国? 違うな。私が敵対していたのは、君を利用し尽くそうとしていたサンクティア王国というシステムそのものだ。君自身ではない」
カイザー皇帝は立ち上がると、汚れた私のドレスの裾を払い、そっと肩に自身のマントを掛けてくれた。
分厚い毛皮のマントは温かく、彼の残り香がした。
凛とした冬の匂い。
「三年前の夜会を覚えているか? 君はバルコニーで、枯れかけた花にひっそりと魔力を分け与えていた。誰も見ていない場所で、誰にも賞賛されない善行を行っていた君を、私は見ていた」
ああ、覚えている。
あれは外交パーティーの夜だった。
煌びやかな会場に馴染めず、外の空気を吸いに出た時、枯れかけた薔薇を見つけたのだ。
まさか、あの瞬間を見られていたなんて。
「あの日から、私は君が欲しくてたまらなかった。だが、君は『聖女』という鎖に縛られていた。私が手を出せば戦争になり、君が悲しむだろうと我慢していたんだ」
カイザー皇帝の瞳が、熱を帯びて揺れる。
「だが、奴らは君を捨てた。自ら至宝をドブに捨てたのだ。……ならば、私が拾っても文句はあるまい?」
「……私は、もう聖女ではありません。ただの、国を追われた女です」
「構わん。聖女だろうが、魔女だろうが、君が君であることに変わりはない。……我が国へ来い、エリーゼ。君の能力を正当に評価し、君が望むだけの報酬と、安寧と、そして愛を捧げよう」
あまりにも真っ直ぐなプロポーズに、私は言葉を失った。
フレデリック様からは一度だって、こんな風に求められたことはなかった。
いつも「聖女なのだから当然だ」「もっと働け」と言われるばかりで。
「……私の力は、強大すぎます。使い方を誤れば、あなたの国をも滅ぼすかもしれません」
「ハッ! 私を誰だと思っている?」
カイザー皇帝は不敵に笑った。
それは少年のような、しかし絶対的な自信に満ちた笑みだった。
「私は魔導皇帝だ。神の力ごとき、制御してみせる。それに、君が暴走するというなら、私が全力で止めてやる。……君一人を支えきれずに何が皇帝か」
その言葉が、私の心の最後の氷を溶かした。
ああ、この人は強い。
そして、私を「道具」ではなく、対等な「人間」として、いやそれ以上の存在として見てくれている。
私は彼の手を握り返した。
「……契約成立です、陛下。貴方が私を裏切らない限り、私は貴方のものです」
「誓おう。私の命に代えても、君を守り抜くと」
カイザー皇帝は満足げに頷くと、私を軽々と抱き上げた。
いわゆる「お姫様抱っこ」というやつだ。
騎士たちが「おお……!」「陛下が女性を……!」「明日は雪か?」などとざわめいている。
「陛下、降ろしてください。自分で歩けます」
「断る。君の足は傷だらけだ。それに、これからは私の傍を離れることは許さん」
独占欲を隠そうともしない彼の態度に、私は呆れつつも、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼はそのまま、私を抱えて巨大な古代竜の背へと飛び乗った。
「さて、出発する前に……一つ、やり残したことがあるな?」
カイザー皇帝は、南の空――サンクティア王国の方向を顎でしゃくった。
「あちらの愚か者たちに、別れの挨拶くらいはしてやるべきだろう。君の声は、私の拡声魔術で全土に届く。……思いの丈をぶちまけてやれ」
彼は私の背中に手を当て、魔力を流し込んできた。
私自身の聖なる力と、彼の強大な氷の魔力が混ざり合う。
不思議な感覚だ。
反発することなく、二つの力は溶け合い、増幅されていく。
私は深呼吸をした。
眼下には、見渡す限りの荒野。
その向こうには、私を捨てた祖国がある。
今はまだ平和に見えるかもしれないが、私が聖核を抜いた影響は確実に出始めているはずだ。
私は口を開いた。
その声は、魔術によって増幅され、風に乗り、王国の隅々まで――王城の大広間から、スラム街の路地裏まで――響き渡る。
『サンクティア王国の皆様、ごきげんよう。元聖女のエリーゼです』
私の声は、冷静だった。
怒鳴ることも、泣くこともない。
ただ事務的な報告のように、淡々と事実を告げる。
『先ほど、フレデリック王太子殿下の命により、私は国外追放となりました。それに伴い、私が個人資産として運用しておりました「神聖結界」および「豊穣の加護」の契約を、即時解除させていただきます』
私の言葉に合わせて、私は手に持った聖核の輝きを一層強めた。
上空に、巨大な魔法陣が展開される。
それは王国全土を覆っていた結界の制御パネルだ。
私はその中心にある「接続」の文字を、指先で弾き飛ばした。
パリンッ、という硬質な音が、世界のどこかで響いた気がした。
『ミア様が真の聖女とのことですので、後は彼女にお任せいたします。……ああ、申し遅れましたが、私が回収した魔力は、水源の維持機能も含んでおります。お水のご利用は計画的に』
意地悪な一言を添えることも忘れない。
いや、これは親切心だ。
明日から井戸水の一滴すら貴重になるのだから。
『それでは、さようなら。二度と、私に関わらないでください』
宣言と共に、私は魔法陣を消滅させた。
その瞬間、遠く南の空が、どす黒く変色した。
美しい青空が、まるで腐った果実のように濁り、紫色の雷雲が渦を巻き始める。
結界という「蓋」がなくなり、周囲の瘴気が一気に流れ込んだのだ。
「……見事だ」
カイザー皇帝が耳元で囁く。
「これで、あの国は終わりだ。魔物の侵入を防ぐ壁も、作物を育てる力も失った。……君を捨てた代償は、高くついたな」
「ええ。……でも、少しも心が痛みません」
私は正直に答えた。
かつては、民が苦しむ姿を想像するだけで胸が痛んだ。
けれど今は、彼らが私に向けた嘲笑と石礫の記憶が、その同情心を完全に塗り潰している。
彼らは選んだのだ。
私ではなく、甘い言葉と偽りの聖女を。
ならば、その選択の結果を受け入れるのは当然の義務だ。
「行くぞ! バルディア帝国へ帰還する!」
カイザー皇帝の号令と共に、古代竜が力強く羽ばたいた。
強烈なGがかかり、私たちは大空へと舞い上がる。
眼下に見える景色がみるみる小さくなっていく。
風が冷たい。
けれど、私を抱きしめる腕は熱いほどに温かい。
私はカイザー皇帝の胸に顔を埋め、初めて安堵の息を吐いた。
さようなら、サンクティア王国。
私の地獄だった場所。
そして、こんにちは、私の新しい世界。
古代竜は北へ向かって加速する。
背後では、王国の空が完全な闇に包まれ、最初の落雷が王城の尖塔を直撃するのが見えた。
それはまるで、神が下した断罪の槌のように、鮮烈で、そして残酷なほどに美しかった。
(ざまぁみろ)
私は心の中で小さく呟き、そしてカイザー皇帝の首に腕を回した。
もう、後ろは振り返らない。
私を待っているのは、この人と共に歩む、光り輝く未来だけなのだから。




