第1話 断罪の宴と愚者たちの嘲笑
王宮の大広間を埋め尽くすシャンデリアの輝きが、私の網膜を焼き尽くさんばかりに煌めいている。
グラスが触れ合う軽やかな音、着飾った貴族たちのさざめき、そして楽団が奏でる優雅なワルツ。
それらすべてが、今の私、エリーゼ・フォン・アイゼンにとっては、耳障りな雑音でしかなかった。
建国記念パーティー。
この国、サンクティア王国において最も重要とされるこの祝宴は、本来であれば国を挙げての祝いの場であるはずだ。
しかし、会場の片隅で壁の花となっている私の体は、鉛のように重かった。
(……魔力供給率、低下。補填のために、生命力を変換します)
脳内で響く無機質な自己診断の声。
私はドレスの下で、誰にも気づかれないように奥歯を噛み締めた。
血管の中を、熱した針が流れているような激痛が走る。
私の魔力回路は、今この瞬間も、王都全体、いや、王国全土を覆う「神聖結界」を維持するために悲鳴を上げ続けているのだ。
魔獣の侵入を防ぎ、作物を実らせ、疫病を遠ざける絶対の守り。
王家や教会は、それを「歴代の聖女たちの祈りの賜物」だとか「王家の威光」だとか宣伝しているけれど、実態は違う。
たった一人。
この私、エリーゼという生体端末が、自身の寿命と引き換えに維持しているシステムに過ぎない。
呼吸をするたびに、肺が焼けるようだ。
指先が冷たくなり、視界の端が白く霞む。
それでも私は、背筋をピンと伸ばし、公爵令嬢としての仮面を崩さずに立ち続けていた。
ここで倒れるわけにはいかない。
私が意識を失えば、その瞬間に結界に揺らぎが生じ、国境付近の村々が魔物の餌食になってしまうからだ。
「あら、見て。エリーゼ様よ」
「またあのように陰気な顔をして……」
「フレデリック殿下の婚約者だというのに、愛想のひとつも振りまかないなんて」
「噂では、祈りの時間すらサボって部屋に引きこもっているとか」
「無能な『お飾り聖女』とはよく言ったものですわね」
扇子で口元を隠した貴婦人たちの嘲笑が、さざ波のように伝わってくる。
彼女たちが身につけている宝石も、ドレスも、口にしている最高級のワインも、すべて私が維持している平和と豊穣の上に成り立っているというのに。
いいえ、期待してはいけない。
私が幼い頃から、この扱いは変わらないのだから。
地味で、無口で、愛想がない公爵令嬢。
それが私の評価だ。
誰も、私が必死に痛みに耐えていることなど知らない。知ろうともしない。
私の父であるアイゼン公爵でさえ、「役立たずの娘だ、王家との縁が切れたら修道院へ入れる」と公言して憚らないのだから。
その時だった。
突如として、楽団の演奏がピタリと止まった。
大広間の入り口にある巨大な扉が、大仰な音を立てて開かれる。
「フレデリック王太子殿下の、ご入場!」
衛兵の高らかな宣言と共に現れたのは、きらびやかな正装に身を包んだ私の婚約者、フレデリック様だった。
金髪碧眼、絵に描いたような王子様。
その見目麗しい容姿に、会場中の令嬢たちがため息を漏らす。
だが、私の視線は彼ではなく、その腕にしっかりと抱きついている小柄な少女に向けられていた。
ふわふわとしたピンクブロンドの髪、大きな垂れ目、小動物のような愛くるしい仕草。
男爵令嬢、ミア・キャンベル。
最近、王宮に出入りするようになった彼女は、そのあざといまでの愛らしさと、微弱ながらも光魔法が使えるという珍しさで、瞬く間にフレデリック様の寵愛を一身に受けるようになっていた。
(……まさか)
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
婚約者である私を差し置いて、公式の場に愛人を伴って現れるなど、前代未聞だ。
いや、フレデリック様の浅はかさを考えれば、あり得ないことではない。
彼はいつだって、自分の感情が最優先で、国の体面や私の立場など考慮したことがないのだから。
フレデリック様は、会場の中央、一段高くなった壇上へと上がると、勝ち誇ったような顔で私を指差した。
「エリーゼ・フォン・アイゼン! 前へ出ろ!」
広間にどよめきが走る。
私は痛む体を引きずりながら、ゆっくりと群衆をかき分けて壇上の前へと進み出た。
カーテシーを行い、頭を下げる。
「……お呼びでしょうか、殿下」
「白々しい挨拶は不要だ! 皆、聞け!」
フレデリック様のよく通る声が、大広間に響き渡る。
彼は隣に寄り添うミアの腰を抱き寄せながら、憎々しげに私を見下ろした。
「私、フレデリック・サンクティアは、今この時をもって、エリーゼ・フォン・アイゼンとの婚約を破棄する!」
会場が静まり返る。
驚きというよりは、誰もが「やはり」といった顔をしていた。
あるいは、これから始まる見世物に期待するような、残酷な好奇の目が私に突き刺さる。
私は表情を変えず、静かに問い返した。
「……理由は、何でしょうか。王家と公爵家の婚姻は、先代国王陛下の遺言によるもの。正当な理由なく破棄することは認められません」
「理由だと? 貴様、よくもぬけぬけと……! その腐った性根が理由だ!」
フレデリック様は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「貴様は、私の愛するミアに対し、陰湿な嫌がらせを繰り返しただろう! 教科書を隠す、階段から突き落とそうとする、あまつさえ、彼女が大切にしていた母親の形見のドレスを切り裂いた! これが公爵令嬢の、聖女候補のすることか!」
「……身に覚えがございません」
私は即答した。
本当に、身に覚えがないのだ。
そもそも私は、日々の公務と結界維持のための瞑想で手一杯で、男爵令嬢ごときに構っている時間など一秒たりともない。
「嘘をおっしゃらないでください、エリーゼ様……!」
震えるような声が響いた。
ミアが、涙をいっぱいに溜めた瞳で私を見つめている。
その演技力の高さには、感心すら覚えるほどだ。
「私、怖かったです……。エリーゼ様にお茶会へ呼び出された時、『身の程知らずの泥棒猫』って罵られて、熱い紅茶をかけられて……。でも、殿下のご迷惑になりたくなくて、ずっと黙っていました。でも、もう我慢できません……!」
ミアは両手で顔を覆い、しゃくりあげる。
フレデリック様が慌てて彼女を抱きしめ、背中をさする。
「ああ、可哀想なミア! もう大丈夫だ、私がついている。こんな毒婦に、君は傷つけられていたのだな」
「殿下ぁ……うぅ……」
会場からは「なんて酷い」「信じられない」「やはりあの女は魔女だ」という非難の声が上がり始めた。
集団心理とは恐ろしいものだ。
証拠など何一つ提示されていないのに、彼らは「美しい王子と可憐な少女」の言葉を無条件に信じ、「陰気な女」を悪と決めつけている。
「……証拠は、ございますか?」
私が淡々と尋ねると、フレデリック様は鼻で笑った。
「証拠だと? 被害者の涙より確かな証拠があるか! それに、目撃者も多数いる! おい、証言しろ!」
彼が合図をすると、ミアの取り巻きである令嬢たちが数名、進み出てきた。
彼女たちは口々に、いかに私がいじめを行っていたかを証言し始めた。
全て嘘だ。
彼女たちとは挨拶すら交わした記憶がない。
おそらく、ミアに取り入ることで王太子派閥での地位を確立したいのだろう。
実に浅ましい。
「それに、貴様には聖女としての資質もない!」
フレデリック様は決定的な言葉を口にした。
「国を守る結界が、最近弱まっているとの報告を受けている! 貴様が祈りをサボり、嫉妬に狂っていじめに興じている証拠だ! 対して、ミアを見ろ!」
フレデリック様が促すと、ミアはおずおずと右手を掲げた。
すると、彼女の手のひらから、ぼんやりとした淡い光が浮かび上がった。
蛍の光のような、頼りない輝き。
初級のヒール程度しか使えない、微弱な魔力だ。
「おお……!」
「なんと清らかな光だ!」
「これぞ、真の聖女様の輝き!」
会場中がどよめき、感嘆の声を上げる。
馬鹿げている。
あんな豆電球のような光で、一体何ができるというのか。
私が今、この身を削って放出し続けている魔力は、あの光の数億倍の密度だ。
ただ、私が効率化のために可視化していないだけで、彼らには「見えない力」よりも「見える安っぽい奇跡」の方が尊いらしい。
「見たか、この神々しい光を! ミアこそが、唯一神に愛された真の聖女なのだ! 偽物の貴様など、この国には不要だ!」
偽物。
不要。
その言葉が、胸に突き刺さる。
生まれた時から、来る日も来る日も、痛みに耐えて祈り続けてきた。
遊びたい盛りも、恋に憧れる年頃も、すべてを犠牲にして、この国のために尽くしてきた。
その対価が、これなのか。
「……アイゼン公爵! 娘の不始末、どう落とし前をつけるつもりだ!」
フレデリック様の矛先は、群衆の中にいた私の父に向けられた。
父は顔面蒼白で飛び出してくると、私の目の前に立った。
ああ、お父様。
せめて貴方だけは、私がどれだけ苦しんでいるか、理解してくれていると信じたかった。
しかし、父の瞳に宿っていたのは、私への心配ではなく、自身の保身と、娘への激しい憎悪だけだった。
パァンッ!!
乾いた音が響き渡り、私の頬が熱くなる。
殴られたのだと理解するのに、数秒かかった。
口の中が切れたのか、鉄の味が広がる。
「この……恥さらしがぁぁッ!!」
父の絶叫が鼓膜を打つ。
「王太子殿下に、そして未来の聖女たるミア様に何という無礼を! 貴様のような性悪女は、我が公爵家の面汚しだ! 今ここで勘当する!」
父は地面に平伏し、フレデリック様に頭を擦り付けた。
「殿下! この愚かな娘とは、今をもって縁を切ります! どうか、どうか我が家への慈悲を……!」
「ふん、まあよかろう。公爵家の忠誠心は疑っていない。悪いのは、この女一人だ」
フレデリック様は満足げに頷き、そして私に最後通告を突きつけた。
「エリーゼ・フォン・アイゼン。貴様を聖女の座から降ろし、国外追放刑に処す! 二度とこの国の土を踏むことは許さん! 即刻、出て行け!」
「いやぁっ! エリーゼ様、怖い顔……っ」
「大丈夫だよミア。もうあの女は君を傷つけられない」
抱き合う二人。
罵声を浴びせる貴族たち。
私を見捨てた父。
……ああ、そうか。
私の中で、何かが音を立てて切れた。
それは怒りでも、悲しみでもない。
ただ、急速に冷えていく「諦め」と「無関心」だった。
私は今まで、何を守ろうとしていたのだろう。
こんな愚かな男のために?
こんな浅ましい父のために?
こんな、真実を見る目も持たない節穴だらけの国民のために?
馬鹿馬鹿しい。
本当に、心の底から馬鹿馬鹿しい。
私はゆっくりと顔を上げた。
殴られた頬が赤く腫れ上がっているだろうが、そんなことはどうでもいい。
私はまっすぐにフレデリック様を見つめた。
その瞳には、もはや敬意も愛情もなく、ただ汚物を見るような冷徹な光だけが宿っていたはずだ。
フレデリック様が一瞬、気圧されたように後ずさる。
「……承知いたしました」
私の声は、驚くほど静かで、会場の隅々まで染み渡った。
「その命令、謹んでお受けいたします。私は今日この瞬間をもって、聖女の任を降ります。……後悔なさいませんね?」
「はっ! 後悔などするものか! 貴様がいなくなって清々するわ! さっさと消え失せろ!」
「……そうですか」
私は一度だけ目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、体内で暴れまわる魔力の奔流を、わずかに「制御」する手を緩めた。
(警告。結界維持プロトコルの強制停止準備を開始します)
(カウントダウン……3……2……1……)
これでもう、私はこの国に義理立てする必要はない。
守るべきものは何もない。
「それでは、さようなら。皆様、どうかお幸せに」
私は優雅にカーテシーをした。
それは、これから滅びゆくこの国への、最後の手向けの挨拶だった。
衛兵たちが乱暴に私の腕を掴み、引きずっていく。
背後からは、まだ嘲笑と罵声が続いていた。
フレデリック様とミアの笑い声も聞こえる。
笑っていればいい。
今のうちに、精一杯、その愚かな勝利の美酒に酔いしれていればいいわ。
そのグラスの中身が、猛毒に変わっていることにも気づかずに。
重い扉が閉ざされ、大広間の光が遮断された瞬間。
私は薄暗い廊下で、口の端を吊り上げた。
さあ、精算の時間だ。
私が長年貸し付けてきた「神の加護」という名の莫大なツケを、利子をつけて返してもらおうか。
代償は、あなたたちの国そのものだけれど。
衛兵に突き飛ばされるようにして馬車へ押し込まれながら、私は夜空を見上げた。
皮肉なことに、今夜は月がとても綺麗だった。
この美しい月夜も、明日には瘴気に塗れた闇夜に変わる。
私の心は、かつてないほどに晴れやかだった。
自由だ。
ようやく私は、あの地獄のような献身の日々から解放されたのだ。
馬車が動き出す。
車輪の音が、私にとっては新たな人生へのファンファーレのように聞こえた。
さあ、行こう。
この国が地獄へと堕ちていく様を、特等席で眺めるために。
そして、私を待っているはずの、まだ見ぬ「彼」のもとへ。




