第7話「顔料」
朝の光が差し込む物置小屋(研究所)で、ルカは、床に這いつくばって雑巾がけをしていた。
「…落ちない」
ルカがゴシゴシと板床を擦るが、そこについた「赤いシミ」は一向に消える気配がない。
それは数日前、最初の実験で暴発した珊瑚の粉末がこびりついた跡だった。
「ごめんねルカ。私が水拭きした時、もっと強く擦ればよかったかな?」
箒を持ったアディが申し訳なさそうに言うが、ルカは首を横に振った。
「ううん、違うよアディ。これは汚れが残ってるんじゃない。…染まってるんだ」
ルカは雑巾を置き、眼鏡を押し上げた。
その目に、研究者特有の鋭い光が宿る。
「おかしいと思わない?普通の珊瑚の粉なら、水で洗えば色は薄くなるし、数日経てば酸化して黒ずむはずだ。でも、この赤色は…」
ルカは指でシミをなぞった。鮮烈な真紅。
まるで塗りたての血のように、あるいは燃える夕陽のように、その輝きを失っていない。
「…退色していない。紫外線にも、空気中の酸素にも反応していないんだ」
ルカの脳内で、化学式が高速で組み上がる。
『粉砕』でナノレベルまで微細化された粒子が、爆発時の『圧縮』の余波で、偶発的に極めて安定した結晶構造をとったとしたら?
「…これは、失敗なんかじゃない」
ルカはガバッと立ち上がった。
「アディ!あの時の『失敗した粉』、まだ残ってる!?」
「えっ?うん、掃除した時に壺に集めておいたけど…」
「ナイスだアディ!君は最高の助手だよ!」
ルカは壺を取り寄せると、中の赤い粉末を皿に開けた。
そして、棚から亜麻仁油の瓶を取り出す。
「見ててね。この粉末と油を、僕の計算した比率で混ぜ合わせる…!」
ルカはヘラを使い、慎重に粉と油を練り合わせた。
ザラザラとした粉末が油を吸い、次第にねっとりとしたペースト状に変わっていく。
その色は、混ぜれば混ぜるほど深みを増し、吸い込まれるような赤になった。
「できた…!」
「わあ…きれい!ルビーを溶かしたみたい!」
アディが感嘆の声を上げる。
そこへ、朝の進捗確認にやってきたロレンツォが顔を出した。
「よう、天才さんとお転婆さん。お守りの試作品は進んで…ああん?何だその赤い泥は」
ロレンツォは皿を覗き込み、眉をひそめた。
「泥じゃないよ兄さん!『顔料』だ!」
「顔料?」
「そう。絶対に色褪せない、最高級の赤色顔料だよ!」
ルカは木の端材にその赤をひと塗りしてみせた。
滑らかな伸び、隠蔽力の高さ、そして何よりその圧倒的な発色。
薄暗い小屋の中でも、そこだけ発光しているかのような存在感がある。
「…ほう」
ロレンツォの目の色が、瞬時に「商人の目」に変わった。
彼は端材を手に取り、様々な角度から光を当てて確認する。
「悪くねぇ…いや、上等だ。貴族の奥様方が使う紅よりも鮮やかだし、教会画に使われる『聖なる赤』に近い」
「でしょ!?これなら売れるかな?」
「売れるどころの話じゃねぇな」
ロレンツォはニヤリと笑った。
「画家どもは、鮮やかな赤を出すために猛毒の水銀や、バカ高い宝石を砕いて使ってる。だが、これは毒もなけりゃ値段も安い。…へっ、お前のおかげで、ウチの商会は『赤』を独占できるかもしれねぇぜ」
ロレンツォはポンとルカの肩を叩いた。
「よし。ルカ、アディちゃん。お前ら、ちっと街へ出て『市場調査』をしてこい」
「市場調査?」
「ああ。フィオラーレ通りにある画材屋『パレット・ドーロ』だ。そこにこの顔料を見せて、反応を見てこい。…ただし!」
ロレンツォは人差し指を立てた。
「製法は秘密だぞ。『海の民の秘伝』で通せ。いいな?」
「「了解!」」
こうして、ルカとアディは意気揚々と街へ繰り出した。
水の都セレニアの画材屋「パレット・ドーロ」。
店に入ると、テレピン油と乾いた紙の匂いが鼻をくすぐった。
店主の老人は、最初こそ子供の冷やかしだと思って相手にしなかったが、ルカが差し出した「赤」を見た瞬間、老眼鏡をずり落とした。
「な、なんじゃこれは…!」
老店主は震える手で、顔料が塗られた紙を見つめた。
「シナバー(辰砂)よりも深く、カーマイン(洋紅)よりも鮮やか…。こんな赤は見たことがない!坊主、これはどこで手に入れた!?」
「えっと、…海の民の秘伝です!」
「海の民…!彼らは色さえも支配するというのか…!」
老店主の驚愕ぶりは、ルカの予想以上だった。
彼は興奮気味に「いくらでも買う!」と息巻いたが、ルカは「今日は見本を持ってきただけです」と丁重に断り、別の話題を切り出した。
「あの、おじさん。実はもう一つ聞きたいことがあって」
「ん?なんだ、この赤を売ってくれるなら何でも答えるぞ」
「この街で、一番腕のいい『金属加工の職人』さんを知りませんか?実は、とても硬い素材を加工したくて…」
ルカの言葉に、老店主は「ふむ」と顎髭を撫でた。
「硬い素材か…。それなら、あいつしかおらんだろうな」
「あいつ?」
「ああ。職人街の奥に住む、ビアージョという男だ」
(やっぱり…)
その名前が出た瞬間、店の奥にいた他の客たちも、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「やめておけ坊主。あいつは腕こそ国一番だが、性格は最悪だ」
「そうだそうだ。先月も貴族の依頼を『こんなナマクラ鉄で剣が打てるか!』って断ったらしいぞ」
「気に入らない客には塩を撒くような男さ」
散々な言われようだ。だが、ルカは逆に目を輝かせた。
素材にこだわり、妥協を許さない職人。
それはつまり、ルカの作る「ありえない素材」の価値を、正しく理解できる唯一の人間かもしれない。
「…ありがとう、おじさん!」
ルカは礼を言うと、アディの手を引いて店を飛び出した。
「行くよアディ!職人街だ!」
「うん!いよいよだね、ルカ!」
二人は石畳の路地を駆け抜けた。
ポケットの中には、昨夜精製した「純鉄のインゴット」と、成功作の「赤い宝石(焼結コラル)」。
そして胸には、どんな偏屈な職人も驚かせてやるという、科学者としての自信があった。
運河の向こう、黒い煙突から煙を上げる職人街が近づいてくる。
そこで待つ「出会い」が、マルチェッロ商会の運命を大きく変えることを、二人はまだ知らなかった。
(第7話「顔料」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「ついに来たぞ職人街!すごい熱気とハンマーの音!ここなら僕の素材を加工できる人がきっといるはず。…って、ええっ!?門前払いってどういうこと!?『子供の遊び場じゃねぇ、帰んな!』だって?くそぅ、こうなったら実力行使だ!おじさんが捨てたその失敗作、僕が有効活用してやる!」
「次回、『職人』。頑固親父と科学オタク、勝つのはどっちだ!?」




