第67話「分離する悪意」
石鹸ギルドの巨大な工房。
その床に、ガシャンッ!とガラスのフラスコが叩きつけられた。
「なぜだ!なぜ、同じものができん!?」
技術理事が、充血した目で叫んだ。
彼の周りには、無数の「失敗作」が屍のように並んでいる。
どれも、上層に黄色い油が浮き、下層に濁った酢が沈殿している。まるで、混ざることを拒絶しているようだ。
「成分は分かっているのだぞ!酢と油、それに香料…なぜ混ざらない!」
職人の一人が、震える声で口を開く。
「や、やはり、混ぜる手順に『魔法』のような秘訣があるのかと…。いくら撹拌しても、すぐに分離してしまいます」
「魔法だと?そんなわけがあるか!」
理事は作業台を蹴り上げた。
焦り。恐怖。
年末の商戦は待ってくれない。
ここでマルチェッロ商会の市場占有を奪わなければ、あれだけの大見えを切った自分の立場がない。
「…分析など待っていられるか」
追い詰められた理事の目に、理性を失った獣のような光が宿った。
「手っ取り早く『答え』を聞き出せばいいのだ。…おい、裏の連中を使え。あの商会の人間なら誰でもいい、捕らえて口を割らせろ!」
◆◇◆◇◆
夕暮れの市場。
マルチェッロ商会への営業停止処分を受け、街の人々は不安げな顔で行き交っている。
その人波の中を、アリアが買い物カゴを手に歩いていた。
そんな彼女の背中に、粘着質な視線が張り付いた。
「へへっ、あの女だ。一番弱そうで、口も軽そうだ。…しかも、極上の女だぜ…」
柄の悪い男たちが目配せをし、人混みに紛れてアリアさんの背後へ忍び寄る。
アリアは、ふと足を止め、小さく、深く溜息をついた。
彼女はくるりと方向を変え、賑やかな通りから外れた、運河沿いの薄暗い路地へと入っていく。
男たちは好機とばかりに後を追った。
袋小路。
ドブ川の臭いが漂う場所で、アリアはゆっくりと振り返った。
「あの…何かご用でしょうか?」
男たちが、下卑た笑みを浮かべて囲む。
リーダー格の男が、懐からナイフの柄をチラリと見せた。
「へへっ、姉ちゃん。ちょっと聞きたいことがあってな」
男が一歩踏み出す。
「あの店の例の製法について、詳しく教えてもらおうか。…痛い目にあいたくなかったら、大人しくついてきな」
アリアの視線が、ナイフと、男たちの顔を交互に見た。
そして、困ったように眉を下げる。
「…困りましたね」
「あ?」
「…私、機嫌が悪いんですよ?」
アリアさんが、買い物カゴをそっと、地面に置いた。
カゴの中のトマトが潰れないように、丁寧に。
そして、顔を上げた。
柔和な笑顔はそのままに、瞳の奥から温度だけが消失していた。
「これ以上、私の視界に『汚れ』を増やさないでいただけますか?」
その瞬間。
アリアが、優雅に、指揮者のように指を振った。
――ザパァンッ!!
突然、すぐ横の運河の水面が爆発した。
水しぶきが舞い上がる中、水そのものが意思を持った大蛇のように鎌首をもたげる。
「な、なんだコリャ!?」
男たちが腰を抜かす。
アリアさんは、冷え切った声で告げた。
「お掃除の時間ですわ」
ヒュンッ!
水の鞭が、鋭利な刃物のような音を立てて男たちを打ち据えた。
「がはっ!?」
「ま、魔法使い!?」
逃げようとする男の足首を、水の手が掴んで引きずり倒す。
さらに、リーダー格の男の顔面を、水の球体がすっぽりと包み込んだ。
「んぐっ!?ごぼっ!?」
陸にいながら溺れる恐怖。
男が手足をバタつかせ、酸素を求めて悶え苦しむ。
アリアは、無表情のまま、指先をくるくると回した。
「頑固な汚れには、しっかりと『洗い』が必要ですわね」
ゴウウウッ!
高速回転する水流の中で、男の目が白黒する。
それは戦闘ではない。一方的な「洗浄」作業だ。
数秒後、アリアさんが指を弾くと、水球が弾け、男は石畳に崩れ落ちて激しく咳き込んだ。
「ゲホッ…!は、はぁ…ッ!」
アリアさんが屈み込み、ハンカチを差し出す。
その笑顔は、背筋が凍るほど美しかった。
「さて。製法が知りたいのでしたっけ?…まだ『すすぎ』が足りないようでしたら、次は運河の底までご案内しますけれど?」
「ひぃっ…!た、助けてくれぇ!」
男たちは這うようにして逃げ出した。
アリアさんはニッコリと微笑み、カゴを拾い上げた。
「…ふぅ。これで少しはスッキリしました」
その足取りは、何事もなかったかのように軽かった。
◆◇◆◇◆
結局、製法を手に入れられなかったギルド側は、焦りのあまり暴挙に出た。
『女王の雫』(リンスかもしれないナニカ)を未完成品のまま販売強行したのだ。
そして、年が明け、一月。
花の都と呼ばれ始めたセレニアは、一変して「悪臭の都」へと逆戻りしていた。
買い出しに出た僕は、街がとんでもないことになっているのを目撃した。
「もう!なんなのよこれ!」
パン屋の前で、常連の奥さんが髪をかきむしっていた。
その髪は、妙な束感で固まり、テカテカと脂ぎっている。
「『女王の雫』?ふざけないでよ!これじゃ『サラダの雫』じゃない!」
「あら、奥さんも?奇遇ねぇ、私もよ」
隣の野菜売りの奥さんも、ものすごく酸っぱい顔をしている。
「うちの主人なんて、私の髪の匂いを嗅いで『近寄るな』って言ってきたのよ!もう最悪!夫婦の危機よ!」
街中が、なんとなく酸っぱい!
風が吹くたびに、酢の酸化臭と、安っぽいバラの香料が混ざった「なんとも言えない匂い」が漂ってくる。
僕は思わず鼻をつまんだ。
これは…ひどすぎる。
広場のギルド販売所では、コントのような惨劇が繰り広げられていた。
「金返せー!髪がベタベタで櫛が通らないんだよ!」
「お、お客様!それは『保湿成分』でございまして…!」
「保湿しすぎてカビ生えそうなんだよ!どう落とすんだこれ!」
「あ、洗えば落ちますが、洗うと石鹸で髪がキシキシに…」
「堂々巡りじゃねぇかよ!」
民衆の怒りは爆発寸前だが、みんな髪がベタベタなので、怒れば怒るほど髪が揺れて酢の匂いが広がり、さらに機嫌が悪くなるという悪循環。
街全体が巨大なサラダボウルになってしまったみたいだ。
僕は一つため息をついて、その『女王の雫』を一本購入し、屋敷に戻った。
リビングで、ロレンツォ兄さんが待ち構えていた。
「おかえり、ルカ。街はいい感じに『発酵』してたか?」
「もう熟成されすぎて腐りかけだよ、兄さん。…これを見てよ」
僕は買ってきた瓶をテーブルに置き、激しく振ってみせた。
白く濁った液体。
だが、テーブルに置いた瞬間――スンッ、と上下に分離した。
「うわぁ…」
僕は眼鏡をずり上げ、まじまじと観察した。
「分離まで一秒もかからないよ!混ざろうとする意思(乳化)がゼロだ!これじゃあ分子レベルで喧嘩してるだけじゃないか!」
「だろ?振ってる時間より、戻る時間の方が早い。これじゃ、ただ頭から油を被るだけだ」
兄さんが蓋を開け、鼻を近づけて「うへぇ」と顔をしかめた。
「しかも臭せぇ。酢の酸っぱい臭いを消そうとして、バラの香料を無茶苦茶に入れてやがる。…例えるなら、『バラの花束を漬け込んだピクルス』だな」
「ピ、ピクルス…!」
僕は頭を抱えた。
「これは冒涜だよ…!素材の声を聞かずに無理やり混ぜるから、こんな『悲劇のドレッシング』が生まれるんだ!こんなの、発明じゃあない!」
「違いねぇ。…だが、おかげで舞台は整ったぜ」
兄さんがニヤリと笑い、一枚の封筒を差し出した。
ドージェ主催、新年祝賀パーティーの招待状だ。
「本来なら、営業停止中の俺たちは参加資格停止なんだが…どうやらドージェの奥方が『あの香りの職人を呼んで!私の髪をなんとかして!』と癇癪を起こしたらしい。特別許可が出た」
兄さんの目が、獲物を見つけた猛禽類のように鋭く光る。
「会場には、髪がベタついた不機嫌な貴婦人たちと、言い訳で脂汗をかいたギルドの連中が集まってる。そこへ、俺たちが『本物』を持って登場するんだ」
兄さんは、まるで舞台の演出家のように両手を広げた。
「想像してみろ、ルカ。酢の匂いが充満する会場に、ウチの艶やかな女性陣が『極上のバラの香り』をまとって登場する瞬間を。…これ以上ない、最高の見せ場だろ?」
「…うん!」
僕も自然と拳を握りしめていた。
陰湿な復讐なんていらない。
ただ、僕たちの信じる「本物」が、いかに素晴らしいかを証明すればいいんだ。
「やろう、兄さん!ギルドの人たちが恥ずかしくて穴に入りたくなるくらいの差を見せつけてやろう!」
僕たちはニヤリと笑い合った。
準備は整った。
あとは、華やかな舞台で、盛大に仕返ししてやるだけだ!
(第67話「分離する悪意」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!街中が酢臭い!石鹸ギルドの『女王の雫』、完全に失敗作じゃん!みんな怒ってるし、ギルドの人たち真っ青!でもね、ここからが兄さんの真骨頂なんだって。新年のパーティーで、何か仕掛けるみたい。どんな『お仕置き』が待ってるのかな?」
「次回、『真実の在処』。偽物が暴かれる時、本物が輝く」




