第66話「甘い毒」
石畳を叩く靴音が、不快なリズムを刻んでいた。
ビアージョさんの工房からの帰り道。空からは白いものがチラつき始め、運河の水面を冷たく叩いている。
屋敷の門が見えてきたところで、ロレンツォ兄さんが足を止めた。
「…ちっ。臭うな」
兄さんの視線の先には、豪奢な黒塗りの馬車が、主人の帰りを待ち構えるように鎮座していた。
車体に輝くのは、泡と百合をあしらった紋章――「石鹸ギルド」のものだ。
その横には、仕立ての良い服を着た秘書官風の男が、彫像のように直立している。
僕たちに気づくと、男は恭しく、しかし口元だけで笑って一礼した。
「お待ちしておりました。マルチェッロ商会の皆様とお見受けします」
男の所作は洗練されているが、その目には隠しきれない侮蔑の色がある。
男は懐から、封蝋された一通の封筒を取り出し、まるで聖書でも扱うかのように両手で差し出した。
「当ギルドの理事会より、招待状をお持ちしました。ドージェより『技術顧問』の任を賜った貴商会に対し、是非ともご挨拶と、有意義な話し合いの場を設けたく」
兄さんは無言で封筒をひったくるように受け取ると、その場で封蝋を指で弾き飛ばした。
羊皮紙に走る優雅な筆記体を、蛇を睨むような目つきで追っていく。
「…懸念?」
兄さんが紙面から目を離さず、低く呟く。
男は表情一つ変えず、再び深々と頭を下げた。
「ええ。貴殿の新商品に関する『ある懸念』を払拭し、相互の利益を図るための会合でございます。心より、お待ちしております」
男は馬車に乗り込み、石畳を高く鳴らして去っていった。
残されたのは、鼻につくほど高級な香水の残り香だけだ。
屋敷の応接室に入り、兄さんはコートを脱ぎ捨てると、ドカッとソファに沈み込んだ。
「…成分が『酢と油』だとバレたな」
兄さんが羊皮紙をテーブルに放り投げる。
「えっ?もう?」
「ああ。向こうは『原価の安い酢を、魔法の水と偽って高く売っている詐欺だ』と脅してくる気だ。それをネタに、俺たちを思いのままに動かそうって腹だろう」
兄さんは暖炉の火を見つめ、不敵に口角を吊り上げた。
「だが、ただの脅しじゃねぇ。向こうはこう思ってるはずだ。『構造は単純だ。混ぜれば自分たちでも作れる』とな」
「…混ぜれば作れる?」
僕は思わず眉をひそめた。
確かに材料は単純だ。でも、水と油は本来混ざり合わない。それを繋ぎ止める「乳化」の手順がなければ、ただ分離するだけだ。
「それを知らないからこそ、強気なんだよ。…行くぞ、ルカ。無知な古狸どもに、現実を教えてやろうぜ」
◆◇◆◇◆
翌日。
石鹸ギルドの本部は、圧倒的な威圧感で僕たちを迎えた。
磨き上げられた大理石の床。壁には歴代のギルド長の肖像画。
通された会議室の最奥には、豪奢な椅子に座る三人の男たちが待ち構えていた。
中央に座るのが、好々爺の仮面を被ったギルド長。
右手に座るのが、怜悧な目をした商務理事。
そして左手に座るのが、職人上がりの技術理事だ。
「よく来たね、マルチェッロ商会の諸君」
ギルド長が、まるで孫を見るような穏やかな笑みを浮かべた。だが、その目は全く笑っていない。
兄さんは物怖じすることなく、上座の空いた席へどかりと腰を下ろした。僕はその斜め後ろに控える。
「単刀直入に言おう。君たちの商品『ヴィルゴ・ロサルム』についてだ」
技術理事が、僕たちの前に一枚の羊皮紙を滑らせた。そこには、成分分析の結果が記されている。
「調べさせてもらった。中身は『酢』と『油』、それにハーブの煮汁だね?」
技術理事は、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「呆れたものだ。我々の石鹸の数分の一の原価しかない『酢』を、金貨で売りつけるとは。…これは立派な『不当表示』ではないかね?」
僕は口を開きかけたが、兄さんが片手で制した。
「お客様は効果に満足して対価を支払っています。原価がどうあれ、満足度こそが商品の価値でしょう。あんたんとこの香油だって、原価を聞けば腰を抜かすような値段で売ってるじゃありませんか」
兄さんが涼しい顔で返す。
「口の減らない小僧だ。…効果?一時的な誤魔化しだろう。酢の臭いを油で蓋をして、手触りを良く見せかけているだけだ」
技術理事が嘲笑する。
「まあまあ、そう責めるな」
商務理事がとりなすように割って入った。
「商品は確かに売れている。だが、素材が『酢』である以上、それが露見すれば『ドージェの技術顧問が安物を高く売りつけた』という悪評は避けられない。ドージェの顔に泥を塗ることになる」
商務理事は、まるで親身な相談相手のような顔で、身を乗り出した。
「そこで、君たちの泥を我々が被ろう。製法を買い取り、商品は『サポーネ・ディ・セレニア』の姉妹品として、我々のブランドで販売する。ギルドの信用があれば、誰も中身を疑わない」
甘い毒のような提案だった。
彼らが提示した契約書には、破格の契約金が記されている。
「条件は三つだ」
ギルド長が指を三本立てた。
「一つ、製法の完全譲渡。二つ、マルチェッロ商会は製造から手を引き、ギルドの『管理下』に入ること」
そして、三本目の指を僕に向けた。
「三つ。今後、新商品を開発する際は、必ずギルドの許可を得ること。市場の秩序を乱すような、勝手な発明は禁止する」
その言葉を聞いた瞬間、兄さんの目がすぅっと細くなった。
「…なるほど。金はやる、地位も守ってやる。その代わり首輪をつけて、一生飼い犬になれ、と?」
「人聞きが悪いな。『保護』と言ってくれたまえ」
ギルド長が笑みを深める。
「君たちにとっても悪い話ではあるまい?一生遊んで暮らせる金が手に入るのだ」
「お断りします」
兄さんは即答した。一瞬の迷いもなく、契約書をテーブルへ押し返す。
「俺たちはあんたらの下請けになるために、ドージェに認められたわけじゃねぇ。それに、ウチの技術者を安く見積もってもらっちゃ困る」
「強情だな。…後悔するぞ?」
技術理事が苛立ちを隠さずに机を叩いた。
「我々がその気になれば、明日からでも同じ商品を作れるのだぞ?酢と油を混ぜるだけだろう?我々の大規模な工房を使えば、おまえたちのような手作業とは比べ物にならない量が生産できる」
兄さんは鼻で笑い、肩越しに僕を振り返った。
「だ、そうだ。ルカ、専門家として教えてやれ。この古狸たちは、明日から同じものが作れるのか?」
僕は一歩前に出た。
彼らの言葉は、技術への冒涜だ。
「…無理です」
僕は理事たちを真っ直ぐに見据えて断言した。
「酢と油は、本来混ざり合いません。それを繋ぎ止めるには、素材の声を聞き、繊細な手順を踏む必要があります」
「はっ!たかが混ぜる作業に、御託を並べるな!」
「御託ではありません。あなた達が製法通りに混ぜたとしても、それはすぐに分離する、ただの酢と油になるだけでしょう」
「き、貴様…!我々の技術を愚弄するか!」
技術理事が顔を真っ赤にして立ち上がる。
兄さんが、ゆっくりと立ち上がり、僕を庇うように前に立った。
「だ、そうだ。技術理事殿。あんたらじゃあ、ウチの弟の代わりは務まらねぇってよ」
兄さんは、ギルド長を射抜くように睨みつけた。
「交渉決裂だ。俺たちは誰の許可も受けねぇし、誰の指図も受けねぇ。…帰らせてもらうぜ」
会議室に、重苦しい沈黙が流れる。
商務理事は深く溜息をつき、憐れむように首を振った。
「…残念だ。君たちを守ってやれるのは我々だけだったのに。愚かな選択だ」
「ならば仕方ない」
ギルド長が、氷のような声で宣告した。
「製法を渡さないなら、我々独自で開発するまで。材料が分かっている以上、時間の問題だ。…そして君たちには、市場から退場願おう」
「退場、だと?」
「ああ。詐欺師がのうのうと商売できるほど、セレニアは甘くないぞ」
ギルド長は手元のベルを鳴らし、扉を指差した。
「…去りたまえ。次は法廷か、あるいは路地裏で会うことになるだろう」
◆◇◆◇◆
「ルカ、これ。最後の箱詰め終わったよ」
アディが、完成した『ヴィルゴ・ロサルム』の瓶を渡してくる。
窓から差し込む昼下がりの日差しが、彼女の笑顔と、琥珀色の瓶をきらきらと照らしていた。
平和だ。
この笑顔を守るために、僕は頑張ってるんだと思う。
――バンッ!!
突然、鼓膜を劈くような破壊音が、その空気を引き裂いた。
ビクッとして振り返ると、入り口の扉が蝶番ごとはじけ飛ぶ勢いで蹴り開けられていた。
土足で踏み込んでくる、赤いマントの集団。
「市場監察官の権限において通達する!」
店内の空気が凍りつく怒号。
お客さんたちが悲鳴を上げて壁際へ逃げるのが、スローモーションのように見えた。
「マルチェッロ商会に対し、石鹸ギルドより正式な告発を受理した!容疑は『品質管理不備による健康被害』だ!」
は…?
健康被害?
この人は何を言ってるんだろう。
頭が真っ白になる。
理解が追いつかない。
「直ちに全商品を没収し、店舗を封鎖する!やれ!」
号令と共に、衛兵たちがドカドカと押し寄せてきた。
彼らは、僕たちが一本一本、指紋がつかないように丁寧に磨き上げた瓶を、汚れた革手袋で鷲掴みにし、麻袋へと放り込んでいく。
ガシャン、ゴトッ。
瓶同士がぶつかり、割れる音がした。
床に広がる液体の染み。部屋中に広がる、僕たちの努力の香り。
「あっ…!」
アディの声。
「やめて!乱暴にしないで!」
彼女がカウンターを飛び出し、衛兵の腕にしがみついた。
「それは、ルカが…みんなが一生懸命作ったものなの!私たちの大事な商品なのよ!」
「ええい、邪魔だ小娘!」
大柄な衛兵が、鬱陶しそうに丸太のような腕を振り上げた。
その裏拳が、アディの顔面を捉えようとした――その瞬間。
ヒュンッ。
風を斬る音だけが響いた。
「あ?」
衛兵が目を見開いた時には、アディはもうそこにはいなかった。
膝を柔らかく使い、水流のように身体を低く沈めて躱していたのだ。
アディは、衛兵の懐に入り込んだまま、冷ややかな目で見上げている。
その瞳は、腐った魚を見る目と同じだ。
「…遅い」
アディがボソリと呟いた。
手は出さない。だが、その気になればいつでも顎を砕ける距離。
圧倒的な「生物としての格」の違い。
衛兵の顔が、屈辱で真っ赤に茹で上がった。
武装した大人が、丸腰の少女に、指一本触れられずに翻弄されたのだ。
「こ、この…薄汚い野蛮人がッ!!」
衛兵は八つ当たりのように、近くにあった商品棚を睨みつけた。
「ええい鬱陶しい!こんなゴミ、邪魔なんだよッ!!」
衛兵は叫びざま、槍の柄で棚を力任せに薙ぎ払った。
ガシャアァァン!!
盛大な破壊音。
棚に乗っていた『ヴィルゴ・ロサルム』の瓶が次々と床に落ち、無惨に砕け散った。
琥珀色の液体が床に広がり、芳醇な薔薇の香りが立ち込める。
「――あ」
アディの時間が止まった。
彼女の足元に、割れた瓶の破片が飛んでくる。
それは、ルカが寝る間も惜しんで調合し、みんなで指がふやけるまで磨き上げた「宝物」だ。
アディの肩が、小刻みに震え始めた。
「…ゴミって、言った?」
アディの声は低く、地を這うようだった。
「ルカが作ったこれを…みんなで作った宝物を…ゴミって言った?」
彼女がゆっくりと顔を上げた。
その目を見て、衛兵がヒッと息を呑んだ。
アディは泣いていた。
ボロボロと大粒の涙を流している。
だが、その表情に悲壮感は微塵もない。
あるのは、純度100%の怒りだけだ。
「――沈めてやる」
アディが床を蹴った。
速い。さっきの回避とは比較にならない、本気の踏み込み。
彼女の手が、衛兵の喉笛へと伸びる。
「アディッ!触っちゃダメだ!!」
僕は叫び、横からアディの胴にタックルした。
「放してルカ!こいつの腕をもいで、詫びさせなきゃ気が済まない!」
「ダメだ!汚い!」
僕は叫んだ。
「え?」
アディの動きが一瞬止まる。
「そいつは僕たちの商品を『ゴミ』扱いして壊したんだぞ!?そんな腐った根性の奴を素手で触ったら、アディの手まで汚れてしまう!」
僕は衛兵を指差し、心底軽蔑した目で言い放った。
「見て!あの品性のかけらもない顔!あんな『腐敗物』にアディが触れる価値なんてないよ!」
「な、なんだと…き、貴様ら…!」
衛兵が口をパクパクさせている。
殺すと言われるより、「汚い」「腐敗物」扱いされたことに、訳もわからず動揺しているようだ。
アディは、僕の言葉にキョトンとして、それから――ふっと怒りを霧散させた。
「…そっか」
アディは衛兵を睨み据えたまま、涙を拭いもせずに鼻を鳴らした。
「そうだね、ルカの言う通りだ。…腐った魚に触ったら、晩ごはんが不味くなる」
彼女は、まるで汚泥でも見るような目で衛兵を一瞥した。
その蔑みの視線は、暴力よりも鋭く衛兵のプライドを抉ったらしい。
衛兵たちは顔色を青ざめさせ、得体の知れない二人の子供に恐れをなして、逃げるように出口へ殺到した。
バタン!
扉が閉まり、静寂が戻る。
残されたのは、華やかな香りと、割れたガラスの海。
「…ルカ」
アディが、割れた瓶の残骸を見つめて、悔しそうに唇を噛んだ。
その目から、また涙が溢れてくる。今度は、純粋な悔し涙だ。
「ごめんね…。守れなかった。ルカの発明、こんなになっちゃった」
僕は首を横に振り、彼女の肩を抱いた。
そして、ロレンツォ兄さんを見た。
兄さんはカウンターに寄りかかり、眼鏡の奥で氷のような光を宿していた。
「…『腐敗物』か。言い得て妙だな、ルカ」
「事実だよ、兄さん」
僕は割れた瓶を拾い上げ、指先で弄んだ。
怒りで視界が赤く染まるような感覚はない。
代わりに、頭の中が冷たく、クリアになっていく。
「腐ったものを放置しておけば、周りまで腐らせてしまう」
僕の言葉に、兄さんがニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「戦争だ。…石鹸ギルド(あいつら)に、マルチェッロ家を敵に回したうかつさを、骨の髄まで教えてやる」
(第66話「甘い毒」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「宣戦布告は受けた!石鹸ギルドが本気で潰しに来るなら、こっちも本気で迎え撃つ!でもね、相手は自滅するかもしれないよ?。水と油は、そう簡単には混ざらないんだよ。…ギルドの技術者たちよ、僕の『素材との対話』を甘く見ないでくれ!」
「次回、『分離する悪意』。混ざらないものは、分かれていく」




