第65話「職人の矜持」
十二月も半ばを過ぎ、セレニアの街は本格的な冬の寒さに包まれていた。
運河を渡る風は肌を刺すように冷たいが、街は「降誕祭」を控えた活気に満ちている。
そんな喧騒から切り離された、重厚な石造りの建物――「石鹸ギルド」の本部。
その最上階にある会議室は、静謐な空気に支配されていた。
磨き上げられた黒檀の円卓を囲むのは、セレニアの経済を一端を担う重鎮たちだ。
彼らは商人であると同時に、代々続く名家の一員でもあり、その振る舞いは貴族そのものだった。
「…さて、議題となっているマルチェッロ商会の『ヴィルゴ・ロサルム』だが」
口火を切ったのは、商務理事を務める男だった。
彼はロレンツォと同類のような、鋭い商人の目をしている。
「現物を入手し、我が家の娘たちに試させた。…悔しいが、悪くない。いや、極めて優秀だ。我らの石鹸の欠点である『洗い上がりのゴワつき』を、見事に消してみせた」
円卓に低いどよめきが走る。
商務理事は、テーブルの中央に置かれた小瓶――ルカの商品を指先で弾いた。
「我がギルドの『薔薇の香油』の売上が落ちているのは事実だ。だが、これは脅威ではない。『商機』だ」
「商機、だと?」
「そうだ。この技術を我々の石鹸とセットで売れば、さらなる高値で売れる。マルチェッロ家を我々の傘下に招き入れ、技術を独占すべきだ」
その言葉に、反対側からドン、と机を叩く音が響いた。
技術理事を務める、白髪の老人が立ち上がる。
彼は職人気質の頑固者として知られる「強硬派」の筆頭だ。
「馬鹿を言うな!成分分析の結果を見たか?主成分は『酢』だぞ?古くなったワインや果実酢を混ぜ合わせただけの代物だ!」
老人は顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
「そんな粗悪品、我らが『サポーネ・ディ・セレニア』の横に並べてみろ。ブランドに傷がつく!それに、新参者が我々の許可なく、神聖な『洗浄市場』に土足で踏み込んだのが許せん。徹底的な躾が必要だ!」
「製法は?」
「はぁ!?」
「製法は?と、聞いている」
「…知らんわ!」
「…話にならんな。今は利益を優先すべき時だ」
「何だと!誇りを失った商人が!」
穏健派と強硬派。
議論が熱を帯び始めたその時、上座に座っていた初老の男が、静かにワイングラスを置いた。
ギルド長だ。
その小さな動作一つで、会議室は凍りついたように静まり返った。
「…双方の言い分、もっともだ」
ギルド長は、感情の読めない深海のような瞳で、ルカの商品を見つめた。
「確かに、酢ごときに法外な値をつけ、我々の香油市場を荒らした罪は重い。だが、その『酢』に金貨を払わせる手腕と技術は、評価に値する」
彼はゆっくりと環視した。
「まずは『取り込み』だ。彼らをこの円卓へ招待しよう」
「招待、ですか?」
「ああ。我々の傘下に入り、技術を差し出すならば良し。富と名誉を分け与えてやろう」
ギルド長は薄く笑った。
それは、獲物を前にした猛獣の笑みではなく、盤面を支配するチェスプレイヤーの冷徹な笑みだった。
「だが、もし我々の軍門に降ることを拒むならば…その時は、技術理事の言う通りだ。物理的な『排除』もやむなし。…セレニアの秩序を守るためにな」
◆◇◆◇◆
その頃。
僕とロレンツォ兄さん、そしてランさんは、ビアージョさんの工房を訪ねていた。
外は小雪が舞っていたが、工房の中は炉の熱気で汗ばむほどだ。
「へっ、今月も随分と稼いだようだな。金貨の重みが違う」
ビアージョさんは、兄さんが渡した顧問料の袋を放り上げ、ニヤリと笑った。
相変わらず頑固そうな顔をしているけれど、以前より少しだけ血色が良くなった気がする。
「ああ、おかげさんでな。…だが、今日来たのは支払いだけじゃねぇ。ルカが、また妙な図面を引いたんだ」
「ほう?今度はなんだ?新しい魔剣か?」
ビアージョさんが興味深そうに僕を見る。
僕は興奮を抑えきれずに、羊皮紙を作業台に広げた。
「違うよ、ビアージョさん。もっと凄いものだ!これを見て!」
そこに描かれているのは、巨大な塔のような炉――「高炉」と、そこから出た鉄を叩いて不純物を抜く「精錬炉」の設計図だ。
「これを作れば、一度に大量の鉱石を溶かして、連続して鉄を取り出せるんだ!僕の錬金術で作る『純鉄』ほどじゃないけど、今のやり方よりずっと純度の高い鉄が、山のように作れるよ!」
僕は目を輝かせて説明を続けた。
「そうすれば、ビアージョさんの仕事も楽になるし、農具も武器も、もっと安く大量に作れるようになる。セレニアの鉄不足なんて、一発で解決だ!」
これは、産業革命の先駆けとなる技術だ。
これがあれば、ビアージョさんのような熟練の職人が、朝から晩まで鞴を踏んで汗を流す必要もなくなる。
きっと喜んでくれる。
そう信じていた。
――ドガンッ!!
突然、作業台が大きく揺れた。
ビアージョさんが、手にした金槌を力任せに叩きつけたのだ。
「…小僧」
低い、地鳴りのような声だった。
「おまえは、鍛冶師を殺すつもりか…?」
「え…?」
僕は言葉を失った。
ビアージョさんの顔は、怒りで赤黒く染まっている。
いや、それは怒りだけではない。
何か、もっと深い絶望のような色が混じっていた。
「殺すなんて、そんな…。僕は、ビアージョさんの助けになればと思って…」
「助けだと?」
ビアージョさんが僕の胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「いいか、よく聞け。鍛冶師ってぇのはな、ただ鉄を叩くのが仕事じゃねぇんだ」
その瞳が、炉の炎を反射して揺れている。
「土の匂いを嗅ぎ、いかにして良い鉄を含んだ石を見つけて選ぶか…そこからが『鍛冶』なんだ。石と対話し、火と語らい、不純物をどう取り除くか、その駆け引きこそが俺たちの魂なんだよ」
「でも、これなら不純物は熱で溶けて…」
「それが気に入らねぇんだよ!」
ビアージョさんが叫んだ。
「石の選別もせず、クズも泥もなにもかも一緒くたに炉にぶち込んで、ドロドロに溶かして固める…。そんなもんで出来上がった鉄はな、おれらの言う『鉄』じゃあねぇんだよ。『死んだ鉄』だ」
ビアージョさんは乱暴に僕を離し、設計図を指差した。
「確かにな、ここからずっと北の方じゃ、そのやり方で成功しているのは知っとる。高品質な鉄が量産されとるのもな。…だがな、そのおかげで、向こうの『高名』だった鍛冶師たちは、みんな国を捨てて逃げちまった」
「え…?」
「なぜだかわかるか?腕の良い鍛冶師ほど、自分の足元を崩された気分になるんだよ。『お前の目も、火加減の技も、もう不要だ』『ただ炉の番をしていればいい』と、時代に烙印を押された気分になっちまうのさ」
ビアージョさんの声が、急に老け込んだように掠れた。
「俺たちから『選ぶ目』と『火との対話』を奪ったら、あとは何が残る?…ただの作業員だ」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。
僕は「効率」と「品質」のことしか考えていなかった。
その技術が、職人たちの「誇り」や「生き甲斐」を奪うことになるなんて、想像もしなかった。
「…そうじゃないんだ!違うんだよ、ビアージョさん!」
僕は必死に言葉を探した。
「僕はただ、ビアージョさんの負担を減らして、もっと凄い武器を作ってほしくて…!ビアージョさんの技術を否定するつもりなんて、これっぽっちもなくて…!」
「…まさかな」
ビアージョさんは、僕から目を逸らし、愛用の金槌を愛おしそうに撫でた。
「おまえさんから引導を渡されるとは思わんかったよ」
その横顔は、怒りよりも深い悲しみに満ちていた。
工房に、重苦しい沈黙が流れる。
ランは気まずそうに視線を彷徨わせ、ロレンツォ兄さんも腕を組んだまま口を閉ざしている。
僕の善意は、彼にとっての猛毒だったのだ。
その時。
工房の扉が勢いよく開き、冷たい風と共に、息を切らせたニーナさんが飛び込んできた。
「若旦那様、ルカ様!」
いつもの冷静な彼女が、珍しく焦った声を上げている。
「至急お戻りください!屋敷に、お客様がお見えです!」
「客?」
兄さんが眉をひそめる。
「はい。…石鹸ギルドの使い、と名乗っています」
その名を聞いた瞬間、兄さんの目が鋭く光った。
僕たちの間にある重苦しい空気が、別の種類の緊張感へと変わる。
ロレンツォ兄さんが立ち上がり、短く言った。
「…爺さん、すまねぇ。また来る」
僕は何か言いたげにビアージョさんを見たが、兄さんに背中を押され、逃げるように工房を後にした。
バタン、と扉が閉まる。
一人残されたビアージョは、薄暗い工房の中で、手元のハンマーをじっと見つめていた。
炉の炎が爆ぜる音だけが、沈黙の中に響いていた。
(第65話「職人の矜持」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!ビアージョさんとルカが大喧嘩!?って思ったら、もっと怖いことが起きてるよ!石鹸ギルドから使者が来て、なんか交渉したいって。でも兄さんの顔が、すっごく冷たい…。これ、戦争になるんじゃ…?」
「次回、『甘い毒』。笑顔の裏に、牙が潜む」




