第64話「香る街」
コンペティションの熱気が嘘のように、セレニアには冷たい冬の風が吹き始めていた。
マルチェッロ家の玄関前には、旅装束に身を包んだ両親の姿があった。
「それじゃあ、ロレンツォ、ルカ。あとは頼んだぞ」
父ジョヴァンニが、どこか晴れ晴れとした顔で言った。
コンペティションでの実質的勝利、借金の帳消し、そして商会の復活。
肩の荷を下ろした父は、以前よりも若々しく見える。
「あなたたち、無理はしちゃダメよ。ちゃんと食べて、ちゃんと寝るのよ」
母イザベッラが、僕とロレンツォ兄さんの頬に交互にキスをした。
今回の旅は、二人の「第二のハネムーン」を兼ねた長期旅行だ。
海が荒れる冬の間は内陸の聖地や温泉地を巡り、海が穏やかになる翌年三月の「マーレ・アペルトゥム(開かれた海)」の時期に船で帰ってくる予定だ。その頃にはアレッサンドロ兄さんも帰ってくるから、同じあたりになるかもね。
母さんの後ろには、完璧な旅装束を纏ったメイド長のマリアさんが控えていた。
当然のことだが、マリアさんも同行する。
彼女がいなければ、父さんと母さんの生活は三日で破綻するだろう。
「マリアさん」
僕は彼女に向き直った。
「父さんと母さん、二人をお願いね」
「はい、お任せください、ルカ様。旦那様と奥様の旅路が快適なものとなりますよう、誠心誠意お仕えいたします」
マリアさんが深々と頭を下げる。
留守中の家政は、マリアさんから指名されたヴァレリアさんが指揮を執ることになる。
「ヴァレリア、留守を頼みましたよ」
「はい」
ヴァレリアさんが綺麗なお辞儀で応える。
少し気合が入りすぎている気もするけれど、頼もしい。
「行ってらっしゃい!」
僕たちが手を振ると、馬車は石畳を鳴らして走り出した。
小さくなっていく馬車を見送りながら、ロレンツォ兄さんが大きく息を吐いた。
「さて、これでもう、やるしかなくなったな」
「うん。…忙しくなるね」
「ああ。特に、あの『水』の販売戦略だ。…行くぞ」
◆◇◆◇◆
僕たちが客間のテーブルに向かい合って座っていた。
議題は、新商品『ヴィルゴ・ロサルム(リンス)』と『ラクリマ・エーテラ(柔軟剤)』の価格設定についてだ。
「いいか、ルカ。お前の提案したこの価格表だが…本気か?」
兄さんが羊皮紙を指差して唸った。
そこには、三つのランク分けが記されている。
【ヴィルゴ・ロサルム(リンス)】
『Nobile(ノービレ/貴族)』:金貨10枚
容器:特注クリスタッロ小瓶
材料:最高級白ワインビネガー、ローズウォーター、アーモンドオイル
『Cittadino(チッタディーノ/市民)』:大銀貨5枚
容器:ガラス瓶(回収・再利用可)
材料:良質なリンゴ酢、ラベンダー精油、上質なオリーブオイル
『Popolo(ポポロ/民衆)』:大銀貨1枚
容器:なし(壺での量り売り)
材料:穀物酢、ローズマリー等のドライハーブ抽出液、オリーブオイル
【ラクリマ・エーテラ(柔軟剤)】
『Nobile』:金貨1枚
『Cittadino』:小銀貨10枚
『Popolo』:小銀貨2枚
「一番高いリンスが金貨10枚(小銀貨千枚)。一番安い柔軟剤が小銀貨2枚。…その差、五百倍だぞ」
兄さんが呆れたように天を仰いだ。
「特にこの『Popolo』だ。小銀貨2枚なんて、利益が出るのか?容器代もかからないとはいえ、ハーブだってタダじゃないぞ」
「そこは工夫してるよ」
僕は補足説明を加えた。
「『Popolo』に使うハーブは、上位ランクの『Nobile』や『Cittadino』を作るときに使ったハーブの茎や、香りが少し落ちた残り葉を再利用するんだ。酢に漬け込めば十分香りは出るし、成分も抽出できる」
「…なるほど。廃材利用か。それなら原価は酢と油の代金だけだな」
「そう。庶民にとっては、安くても『ハーブの香りがする』ってことが重要なんだ。ただの酢じゃ、惨めな気持ちになるでしょ?」
兄さんはしばらく腕を組んで考え込み、やがてニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「…えげつねぇ。だが、最高だ」
兄さんが指を鳴らす。
「貴族からは『見栄』の代金として金貨を巻き上げ、その利益で庶民には『生活の質』を格安で提供する。…上からは名誉を搾り取り、下には幸福をばら撒く。完璧な商売だ」
兄さんは満足げに頷いたが、僕はふと気になっていたことを口にした。
「ねえ兄さん。販売するのはいいけど、石鹸ギルドへの挨拶はどうするの?提携を持ちかけるって話だったよね?」
「ああ、その話か」
兄さんは冷静に答えた。
「挨拶はする。だが、今じゃねぇ」
「え?でも、黙って売り出したら怒らせちゃうんじゃ…」
「逆だ、ルカ。何の実績もない新参者が『提携しましょう』なんて行っても、門前払いされるのがオチだ。最悪、アイディアだけ盗まれて潰される」
兄さんの目が鋭く光った。
「まずは市場に商品を流し、『石鹸と一緒に使うと最高だ』という事実を客に知らしめる。石鹸の売上が実際に伸びたという『数字』を作ってからだ。…交渉ってのは、カードが揃ってからやるもんだ」
「なるほど…。既成事実を作っちゃうわけだね」
「そういうことだ。向こうが『話をしたい』と言ってくるくらいになれば、こっちの勝ちだ」
ロレンツォ兄さんの判断は合理的だ。
僕は納得し、販売開始の準備を進めることにした。
◆◇◆◇◆
そして、販売開始から数日後。
セレニアの街は、かつてない変化を迎えていた。
まず変わったのは、「香り」だ。
これまで、路地裏にはドブ川の臭いや、魚の生臭さが漂っていた。
しかし今、街のいたるところから、ほのかなハーブや清潔な香りが漂ってくるようになったのだ。
市場の一角に設けられた「マルチェッロ・スタンド」。
そこには、朝から主婦たちが鍋や壺を持って長蛇の列を作っていた。
「いらっしゃいませー!ルカの発明した『ヴィルゴ・ロサルム』だよ!とってもいい匂いなんだから!」
元気な声が響く。
声の主は、メイド服…ではなく、可愛らしいエプロンドレスを身に着けたアディだ。
「あら、アディお嬢様もお店に出ているの?」
「うん!私もお手伝いするの!ルカがみんなのために作ったんだもん!」
アディが満面の笑みで、おばあちゃんの持ってきた壺を受け取る。
その愛くるしい笑顔に、並んでいるおば様連中の頬が緩みっぱなしだ。
「えらいわねぇ。じゃあ、おばちゃんも奮発して『Cittadino』を買っちゃおうかしら」
「ありがとう!ルカも喜ぶよ!」
アディの「看板娘」としての破壊力は凄まじかった。
もちろん、彼女一人に任せているわけではない。
その後ろでは、ヴァレリアさんたちが働いている。
「リナ、追加の樽をお願いします。アディ様の動線を塞いではいけませんよ」
リーダーのヴァレリアさんが全体を指揮し、凛とした声で指示を飛ばしている。
「おうよ!任せとけ!」
リナさんが、大人の男性でも抱えるのがやっとの巨大な樽を、軽々と肩に担いで運んでくる。
「へっ、こんなの朝飯前だぜ。もっと重いもんねぇのか?」
「遊ばないこと。丁寧に置きなさい」
ヴァレリアさんが冷ややかに嗜める。
店頭では、ルーチェさんがアディに対抗するように声を張り上げていた。
「さあさあ!アディ様だけにいい格好はさせませんよー!使うだけでフワフワ!サラサラ!とってもお買い得ですよー!」
「ルーチェ、声が大きすぎます。それに釣り銭を間違えないようにと言ったはずです」
「ああっ!ごめんなさーい!えへへ、計算はちょっと苦手で…」
ルーチェさんがペロリと舌を出す。
そんな賑やかな横で、アリアさんが主婦たちの相談に乗っていた。
「あの、これを使うと本当にあのゴワゴワのタオルが柔らかくなるんですか?」
「はい。それはもう。…毎日のお洗濯、力仕事で大変ですよね」
アリアさんは優しく微笑みながら、見本として置いてあるフワフワのタオルを差し出した。
「触ってみてください。驚くほど柔らかいですよ」
女性がおそるおそるタオルに触れ、目を見開く。
「まあ…本当だ!頬ずりしたくなるくらい!」
「香りも残りますから、干している間も幸せな気持ちになれますよ。…お疲れが出ませんように」
「あ、ありがとう…!」
アリアさんの癒やしのオーラに、客たちがうっとりとしている。
一番安い『Popolo』は、少し濁った色をしているが、ハーブの茎から抽出された野性味のある香りが、かえって生活感に馴染んでいる。
生活が変わる。
その実感は、アディやメイドたちの奮闘もあり、口コミとなって爆発的に広がっていった。
◆◇◆◇◆
一方、貴族たちの世界でも、別の形の「爆発」が起きていた。
夜会にて。
とある伯爵夫人が、扇で口元を隠しながら、隣の夫人に囁く。
「あら、マダム。あなたの髪、少しパサついてらっしゃらない?」
「え…?」
「わたくしは、マルチェッロの『Nobile』を使っておりますの。ほら、見てくださいな」
夫人が髪を揺らすと、シャンデリアの光を受けて、濡れたような艶が走る。
同時に、濃厚な薔薇の香りがふわりと舞った。
「す、素敵ですわ…!そ、それはおいくらで?」
「金貨10枚ですわ。…まさか、お持ちでない?」
その一言が、貴族たちのプライドに火をつけた。
翌日、マルチェッロ商会の本店には、従者を走らせる貴族からの注文が殺到した。
「金なら出す!一番高い『Nobile』をよこせ!」
「クリスタッロの瓶入りでないと意味がないのだ!」
中身の効果は『Cittadino』と劇的には変わらない。
だが、彼らは「金貨10枚を支払うこと」にステータスを感じ、競うように金貨を積み上げていく。
いつの間にか忍び寄ってきたニーナさんが、音もなく注文書の山をロレンツォ兄さんの机に置いた。
「…追加注文です。在庫、切れそうです」
「へっへへ…!ルカ、お前は、天才か悪魔のどっちかだな!貴族どもが、香りのついた酢水に金貨を払って感謝してやがる」
兄さんは笑いが止まらない様子だ。
「人聞きが悪いなぁ。ちゃんと最高級の材料を使ってるし、瓶だって職人の手作りだよ。…それに」
僕は窓の外、活気に溢れる市場を見下ろした。
そこには、笑顔で客に商品を渡しているアディの姿が見える。
「この利益があるから、庶民向けの値段を安く抑えられるんだ。…これは『富の再分配』だよ」
すべては順調だった。
街は香りに包まれ、人々は笑顔になり、マルチェッロ家の金庫は潤っていく。
だが。
光が強くなれば、影もまた濃くなる。
市場の賑わいを、遠巻きに見つめる男たちがいた。
彼らは、客と談笑するアディや、忙しく働くメイドたちを忌々しげに睨みつけると、人混みに紛れて姿を消した。
その行き先は、古いレンガ造りの建物――「石鹸ギルド」の本部だった。
(第64話「香る街」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「順調すぎる。だからこそ、嫌な予感がするんだ。石鹸ギルドは黙っていない。そして、僕が信頼するビアージョさんに、またとんでもない提案をしてしまった。技術の進歩は、誰かの誇りを踏みにじることもある。僕は、それでも前に進むべきなのか?」
「次回、『職人の矜持』。譲れないもの、守りたいもの」




