第63話「薫り高き雫」
工房の中は、まるで春の庭園のような薔薇の香りと、立ち込める湯気で満たされていた。
けれど、窓の外は晩秋の冷たい風が吹いている。
濡れた髪のままでは、すぐに体温を奪われてしまうだろう。
「あ!みんな!今日は寒いから、髪はちゃんと乾かしてね!風邪ひいちゃうよ」
僕が声をかけると、ロレンツォ兄さんがドサリと山積みの布を持ってきた。
「おう!リネンは多めに準備しておいたからな。いくらでも使っていいぞ」
「兄さんありがとう!」
ヴァレリアさんたちが、「ありがとうございます」とタオルを受け取り、互いの髪を拭き始める。
(さて、やってみよう)
僕は棚から、乾燥させたローズマリーとラベンダーを取り出した。
さっきは「艶出し」のためにローズマリーとセージを使ったけれど、今度は「香り」と「防虫効果」を重視した組み合わせだ。
僕は瓶の蓋を開け、ハーブを放り込んだ。
(えーと、これをビネガーに漬けて…通常なら、成分が抽出されるまで二週間はかかるかな)
冷暗所でじっくり寝かせ、ビネガーがハーブのエキスを吸って色が変わるのを待つ。それが普通の工程だ。
でも。
(…スキルでやれそう。なんか、そんな気がする)
根拠はない。
ただ、この数週間、真理の天秤を作ったり、反射鏡を作ったりと、スキルを酷使し続けてきた。
以前よりもスキルが馴染んでいる感覚がある。
僕は瓶に左手を添え、イメージした。
対象は、ハーブの細胞壁。
『粉砕』。
以前よりも、解像度が高い。
葉脈の一つ一つ、細胞の膜一枚一枚が、手に取るように知覚できる。
(…やっぱり、レベルアップしてる。たくさんスキル使ったからなぁ)
僕はハーブの細胞を、分子レベルで粉々に分解した。
外見上は葉っぱのままだが、中身はすでに崩壊している。
すかさず右手を添える。
『圧縮』。
ビネガーの分子を、ハーブの細胞核の奥深くまで無理やり押し込む。
物理法則を無視した、強制的な浸透圧。
ジュワッ、と微かな音がした気がした。
数秒後、手を離す。
そこには、本来なら二週間かけても到達し得ない、深緑に輝く極彩色の原液が完成していた。
「よし」
スキル使用のイメージ構築が、以前より格段に楽になっている。
やはりこの世界には、目に見えない「熟練度」のような概念があるらしい。
(でも、ちょっとこれはやりすぎたかも…)
「…ルカ、なんだそれ?」
背後から、低い声がした。
振り返ると、ロレンツォ兄さんが目を丸くして瓶を凝視している。
さっきまで薄い黄金色だったビネガーが、一瞬で深いエメラルドグリーンに変わっているのだ。商人の鋭い目を誤魔化すのは難しい。
「うん、試しにやってみたら、スキルでやりたいことができちゃった」
僕は瓶を軽く振って見せた。
「白ワインビネガーに、ハーブを二週間くらい漬け込むと、こんな感じの色になるんだよ。今はちょっとスキルでやってみたけど」
言葉の最後の方は、丹念に髪を乾かしているヴァレリアさんたちに向けた。
「みんな、終わってからでいいからメモしておいてね。続きは、髪を乾かし終わってからにしよう」
その時だった。
バタン!
工房のドアが勢いよく開き、冷たい風と共に二人の少女が飛び込んできた。
「ただいまー!うわっ、なにこの良い匂い!」
アディだ。その後ろには、ルーチェも続いている。
どうやら、勉強とお使いの用事が終わって帰ってきたらしい。
二人の鼻先と頬は、外の寒さで少し赤くなっている。
「薔薇の香り…?それに…」
ルーチェが目を見開いた。
そこには、濡れた髪を拭くヴァレリアたちがいる。
窓から差し込む夕日が、彼女たちの髪を照らし、見たこともないような光の輪を描いていた。
ツヤツヤで、サラサラ。
「えっ、えっ!?なにそれ!みんな髪がピカピカじゃん!」
アディが駆け寄り、ヴァレリアの髪を遠慮なく触る。
「うわ凄っ!絹みたい!ルカ、これルカがやったの!?」
「あはは、新作の『ヴィルゴ・ロサルム(薔薇の乙女)』だよ。アディたちもやってみる?」
「やる!絶対やる!」
「私もいい!?」
二人の食いつきは凄まじかった。
僕は急いで二つのタライにお湯を張り、リンスを数滴垂らした。
「これで髪を軽くくぐらせてみて」
キャアキャアと楽しそうな声が響く。
数分後には、アディとルーチェもまた、天使の輪を輝かせながらタオルを頭に巻いていた。
「すごいよルカ!指が全然引っかからない!」
「えー!これすごい!」
二人は大喜びだが、やはり寒かったのか、ブルリと肩を震わせてリネンタオルで髪を包み込んでいる。
その様子を見ながら、僕は次の準備を始めた。
ガラスの小瓶に水を入れ、研究用に置いていた固形石鹸をナイフでほんの少量削り取る。
それを水に入れ、よくかき混ぜて溶かす。
僕は手を動かしながら、工房にいる女性陣を見渡した。
ヴァレリア、リナ、エリシア、ニーナ、アリア、ルーチェ、そしてアディ。
全員の髪が、宝石のように輝いている。
こんな光景、貴族の夜会でも見たことがないよ。
「さて、そろそろ次の説明を始めるよ」
僕が手を叩くと、みんなが一斉にこちらを向いた。
「まずはこれ」
僕は、先ほどスキルで作った、深緑色のビネガーが入った瓶をテーブルの中央に置いた。
「今回は僕がスキルで作っちゃったけど、本当は、白ワインビネガーが入っている瓶に、ローズマリーとラベンダーを入れて、二週間ほど直射日光の当たらない涼しい場所に置いてね。すると、ハーブの成分が溶け出して、こんな感じになるから」
カリカリカリッ…。
全員が真剣な眼差しでメモしている。
『ヴィルゴ・ロサルム』の効果を体感した後だけに、僕の言葉を一言も聞き漏らすまいという気迫がすごい。
「次は、これ」
僕は新しい蓋付きの瓶を取り出し、底にうっすら溜まるくらいのアーモンドオイルを入れた。
「ここに、さっき作った『石鹸をほんの少しだけ溶かした水』を注ぎます」
水と油。当然、混ざり合わずに分離している。
「リナさん、さっきみたいに激しく混ぜてもらってもいい?」
「おう!任せとけ!」
リナが瓶を受け取ると、躊躇なく木べらを突っ込み混ぜ始めた。
ガガガガガッ!
相変わらずのパワーだ。
遠心力で水と油が強制的に撹拌され、石鹸成分が繋ぎとなって乳化が始まる。
「ほらよ!」
リナが差し出した瓶の中身は、ミルク色のとろっとした液体に変わっていた。
「リナさん、ありがとう」
僕は瓶を受け取り、その口にリネンの端切れを十枚ほど重ねて、紐で縛って固定した。
「じゃあ、ここにさっきの『ハーブ入りビネガー』を注いで濾していくよ」
僕が深緑色の液体を注ぐと、リネンのフィルターを通って、クリアな緑色の雫がポタポタとミルク色の液体の中に落ちていく。
とろりとした乳液に、鮮やかな緑が混ざり合い、マーブル模様を描く。
「ある程度入ったら、最後にローズウォーターを少し入れて…」
香りの仕上げだ。
蓋を閉め、僕はニーナさんの方を向いた。
「ニーナさん、出番だよ」
「…」
ニーナが無言で瓶を受け取る。
そして次の瞬間。
シュバババババッ!!
残像が見えるほどの高速シェイク。
中の液体が完全に混ざり合い、化学反応を起こしていく。
酢(酸)が石鹸を中和しつつ、オイルの粒子が安定して全体に広がる。
「どうぞ」
差し出された瓶の中には、光沢と透明感のある、エメラルド色の液体が出来上がっていた。
振ると、とろりと揺れ、真珠のような輝きを放つ。
「…これは?」
ロレンツォ兄さんが、不思議そうに瓶を覗き込んだ。
さっきのリンスとは色が違うし、粘度も高い。
「えっとね、衣類を柔らかくするものなんだ」
「衣類を?」
兄さんが眉をひそめる。
「そう。今みんなが使ってるリネンのタオル、ゴワゴワしてるよね」
僕の言葉に、アディが頷き、ヴァレリアたちも同意するように手元のタオルを見つめた。
リネンは丈夫で吸水性もいいけれど、洗濯を繰り返すと繊維が硬くなり、肌触りが悪くなるのが欠点だ。
「それが、これを使うと、フワフワの柔らかになるの」
「なんだと…?」
ロレンツォ兄さんの目の色が変わった。
肌触りの良い布というのは、それだけで高級品の証だ。
使い古したリネンが新品以上の柔らかさになるなら、それは魔法に等しい。
「名前はそうだなぁ…」
僕は瓶を光にかざした。
エメラルド色の液体から、ラベンダーとローズマリーの清涼な香りが漂ってくる。
「『ラクリマ・エーテラ(薫り高き雫)』にしよっかな」
「ラクリマ・エーテラ…」
ヴァレリアが呟くように復唱する。
「さっそく、明日の洗濯の時に使ってみてよ。明日の洗濯当番は誰?」
メイドたちが顔を見合わせ、一人が手を挙げた。
「はい、私です」
アリアだ。彼女は真面目そうな顔で進み出た。
「じゃあ、アリアさんに渡しておくね」
僕はエメラルドの瓶を彼女に手渡した。
「洗濯が終わって、最後に真水ですすぐ時があるでしょ?その時に、これをスプーン二杯分くらい入れて、よく掻き回してからすすいでみて」
「…わかりました。スプーン二杯、ですね」
アリアは瓶を受け取ったものの、少し訝しげな表情だ。
たったスプーン二杯の液体で、大量の洗濯物が変わるなんて信じられないのだろう。
無理もない。この世界にはまだ「柔軟剤」という概念がないのだから。
「ふふ、楽しみにしてて」
僕は自信たっぷりに笑った。
「洗濯物が乾くとね、『硬い布』じゃなくて、頬ずりしたくなるほど柔らかく、動くたびにラベンダーの香りがこぼれる逸品になるからね?」
アリアは瓶を大事そうに抱え、深くお辞儀をした。
その瞳の奥には、ある種の期待感が宿っているように見えた。
◆◇◆◇◆
翌日。
マルチェッロ家の物干し場には、かつてない衝撃が走ることになる。
風に揺れるシャツやシーツが、まるで雲のようにふわりと舞い、庭中に極上の香りを振りまいたのだから。
(第63話「薫り高き雫」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!お洗濯ものがフワフワで感動!いくらで売るのかなと思ってたら…金貨10枚!?その値段で誰が買うの!?…と思ってたら、貴族の人たちが目の色を変えて押し寄せてきてるよ!?」
「次回、『香る街』。 この香り、ただごとじゃない予感!」




