第50話「傾く天秤」
秋の陽光がリアルト広場を照らしていた。
活気に満ちた市場の声、行き交う人々の喧騒。
その只中を、僕とロレンツォ兄さん、アディ、そして大きな荷物を抱えたランさんの四人で歩いていた。
心臓が早鐘を打っている。
これから向かうのは、戦場だ。
剣も魔法も飛び交わないけれど、失敗すれば家族全員の未来が閉ざされる、商売という名の戦場。
「…ビビるなよ、ルカ」
ロレンツォ兄さんが、前を向いたまま小声で言った。
その横顔は、いつもの飄々としたものではなく、獲物を狙う狩人のように鋭い。
「相手は金貸しだ。感情じゃ動かねぇ。…動くのは『損得』だけだ」
「うん。…分かってる」
僕は拳を握りしめた。
広場の一角、両替商たちが並ぶエリアが見えてきた。
その中でもひときわ立派な天蓋の下、頑丈な長机――「バンコ(ベンチ)」に座り、顧客を捌いている男がいる。
エンリコだ。
彼は分厚い帳簿にペンを走らせながら、冷徹な目で金のやり取りをしている。
僕たちが近づくと、彼は手を止めて顔を上げ、不愉快そうに眉をひそめた。
「…何の用だ?期限まではあと数日あるはずだが」
エンリコの声は冷たかった。周囲の客たちが、何事かとこちらを見る。
ロレンツォ兄さんが、ベンチに手をついて身を乗り出した。
「話がある。…ここじゃあ騒がしすぎるな。あんたの店(自宅)で聞いてもらいたい」
「金を持ってきたのか?」
「…もっといいモンを持ってきた」
エンリコは鼻を鳴らし、少し考え込んだ後、部下にベンチを任せて立ち上がった。
「いいだろう。…だが、無駄な時間稼ぎなら容赦しないぞ。私の時間は高いんだ」
◆◇◆◇◆
広場から少し離れた、エンリコの私邸。
通された執務室は、重厚な調度品で飾られ、彼の財力を誇示していた。
エンリコは上座の椅子に深く腰掛け、組んだ足の上で指を合わせた。
「さて。単刀直入に聞こう。全額、用意できたのか?」
その目は、僕たちの手元――金貨の袋を持っていないこと――を確認し、すでに侮蔑の色を帯びていた。
ロレンツォ兄さんが答える。
「金はねぇよ」
「…は?」
エンリコの顔が凍りついた。
「金がない?では、何をしに来た。私を愚弄する気か!」
バン!と机が叩かれる。
「返済ができなければ即刻、差し押さえの手続きに入る!お前たちの店も、屋敷も、その身柄さえも…」
「金はありません。…でも、これがあります」
僕はエンリコの怒号を遮り、ランさんから受け取った黒い布包みをテーブルに置いた。
バサッ。
布を取り払う。
そこに現れたのは、奇妙な形状の天秤だった。
最大の特徴は、鉄芯に炭素繊維を巻き付けた、異様に細く黒いアームだ。
そして台座には、複雑に組み合わさった真鍮の歯車と、目盛り盤が埋め込まれている。
「…なんだそれは。ガラクタか?」
「いいえ。これは『金の純度を完璧に判定する装置』です」
僕は真っ直ぐにエンリコを見つめた。
「エンリコさん。あなたは先日、僕たちの経営状態に疑義があると言いましたね?…ではお聞きします。あなたの金庫の中にある金貨、そのすべてに『疑義はない』と言い切れますか?」
エンリコの眉がピクリと動いた。
「何を言うかと思えば。…私の鑑定眼を疑うのか?私はこの道三十年だ。偽物など、触った瞬間に分かる」
「本当に?」
僕はロレンツォ兄さんに目配せした。
兄さんが懐から、一枚の金貨を取り出してテーブルに投げた。
先日、兄さんが掴まされた精巧な偽金だ。
「これを見てください。…本物に見えますか?」
エンリコは不審そうに金貨を手に取り、指で弾き、表面を撫で、石に擦りつけた。
数分後、彼は自信ありげに鼻を鳴らした。
「馬鹿にするな。これは本物だ。重さも手触りも、音の余韻も完璧だ。…これが偽物だと言うなら、私の目をくり抜いてもいいぞ」
「…では、実演します」
僕は天秤の準備をした。
台座に設置されたガラスのカップに、水を満たす。
そして、まずは僕たちが用意した「本物の純金貨」を皿に乗せた。
アームが傾く。
ここまでは普通の天秤と同じだ。
だが、ここからが違う。
僕はレバーを回し、金貨をゆっくりと水の中に沈めた。
カチ、チチチ…。
台座の中で、極小の歯車が噛み合う音がした。
この天秤は、水没による「浮力(軽くなった分)」と、カップの水位上昇による「体積」を同時に検知し、内部の機構で計算しているのだ。
針が動く。
文字盤の「真(VERITA)」と書かれた青いラインを指して、ピタリと止まった。
「見てください。針は『真』を指しています。これが純金の比重です」
次に、僕はエンリコが「本物」と断言した金貨を手に取った。
「では、これを」
皿に乗せる。空気中の重さは本物と同じだ。
アームの傾きも同じ。
だが、水に沈めた瞬間――。
カチ、ギィィ…!
歯車が大きく回り、針が跳ねた。
針は「真」を通り過ぎ、赤い文字で書かれた「偽(FALSO)」の領域まで振れて止まった。
「なっ…!?」
エンリコが椅子から腰を浮かせた。
「針が『偽』を指しています。…この金貨は、中身が金じゃありません」
「馬鹿な!そんな子供騙しの道具で!」
「信じられませんか?なら、中を見てみればいい」
ロレンツォ兄さんが、貨幣切断用の大型ハサミを取り出した。
そして、エンリコの目の前で、その金貨を容赦なく挟み込んだ。
バチンッ!
硬い音がして、金貨が真っ二つに割れる。
テーブルに転がった断面。
そこに見えたのは、黄金色ではなく、鈍い鉛色だった。
(第50話「傾く天秤」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「天秤が示したのは、衝撃の事実。疑いようのない現実をつきつけられたエンリコさんは真っ青!ロレンツォ兄さんの悪魔的な言葉が、容赦なくエンリコさんの心をえぐる!あれ?でもこれ…僕が大変になるんじゃないの!?」
「次回、『驚愕』。地獄のデスマーチ、開幕!」




