第47話「脅迫」
コンペティションに向けた会議から数日が過ぎた。
マルチェッロ家のリビングは、即席の設計室と化していた。
テーブルの上には、僕が描いた放物線の幾何学図形や、光の反射角を計算した数式がびっしりと書き込まれた羊皮紙が散乱している。
「…焦点距離はこれでよし。あとは曲率の誤差をどこまで抑えられるかだね」
僕は羽ペンを置き、凝り固まった肩を回した。
『エンピレオの光』――僕たちが作る灯台用反射鏡の設計は、順調に進んでいた。
原理はシンプルだ。光源を放物面の焦点に置き、そこから出た光を平行光線として反射させる。
だが、それを実現するには、ミクロン単位の精度が必要になる。
「ビアージョさんの腕と、僕のスキルがあれば…いける」
手応えはあった。
隣では、アディが僕のために新しいコーヒーを淹れてくれている。
ランさんは窓際で弓の手入れをし、ロレンツォ兄さんは資金繰りの帳簿をチェックしている。
忙しいけれど、充実した時間。
僕たちは確実に、未来へと進んでいた。
――コンコン。
不意に、玄関のドアを叩く音が響いた。
ヴァレリアが応対に出る。
「…どちら様でしょうか?」
「銀行家のエンリコだ。当主に急用がある」
その声を聞いた瞬間、ロレンツォ兄さんの手が止まった。
エンリコ。
マルチェッロ家に融資をしてくれている金貸しだ。
リアルト橋の近くに両替のベンチ(バンコ)を構える彼は、以前、借金返済の猶予を求めた時は、渋々ながらも認めてくれた相手だが…。
「こんな時間に、アポなしで来るなんて珍しいな」
兄さんが不審げに呟く。
父ジョヴァンニが慌てて身なりを整え、玄関へと向かった。
居間に通されたエンリコは、いつもの愛想笑いを完全に消し去っていた。
小太りの体躯を高級な毛皮付きの外套に包んでいるが、その顔色は青白く、どこか追い詰められたような、しかし同時に冷酷な光を宿した目をしていた。
後ろには、強面の護衛を二人連れている。
「やあ、エンリコさん!今日はまた、どのようなご用件で?」
父が努めて明るく振る舞うが、エンリコはピクリとも笑わなかった。
彼は無言で、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に叩きつけた。
バシッ!
乾いた音が、和やかな空気を一瞬で凍りつかせた。
「…単刀直入に言おう。全額、返してもらう」
エンリコの低い声が響いた。
「は…?」
父が間の抜けた声を上げる。
「ぜ、全額とは…借金の、ですか?しかし、返済期限はまだ先のはずでは…」
「事情が変わった」
エンリコは冷淡に告げた。
「私は、マルチェッロ商会の経営状態に重大な疑義が生じたと判断した。よって、契約書の特約条項に基づき、即時一括返済を求める」
「なっ…!?」
ロレンツォ兄さんが椅子を蹴って立ち上がった。
「ふざけるな!経営状態なら良好だ!靴も真珠も売れているし、利息だって遅れちゃいねぇ!疑義なんて言いがかりだろ!」
「黙れ若造」
エンリコが兄さんを睨みつけた。
「判断するのは金を貸した私だ。…お前たちがコンペに入れ込んでいるのは知っている。だが、勝てる保証などどこにある?コルナーロ家を敵に回して、勝算など万に一つもないだろう」
その言葉に、僕たちは息を呑んだ。
コルナーロ家。
その名前が出た瞬間、この理不尽な要求の裏にある「黒幕」の正体を理解した。
「…まさか、コルナーロに脅されたのか?」
ランさんが静かに問う。
エンリコの眉がピクリと動いたが、彼は答えなかった。
代わりに、事務的な口調で通告を続けた。
「返済期限は二週間後だ」
二週間。
その数字は、死刑宣告に等しかった。
今のマルチェッロ家の借金総額は、靴と真珠の売上で少し減ったとはいえ、まだとてつもない額だ。
それをたった二週間で用意するなど、物理的に不可能だ。
「そ、そんな…無茶だ!」
父が悲痛な声を上げる。
「約束が違うじゃないか!あんたは、私たちが再起するのを待ってくれると言ったはずだ!」
「契約書を読め!」
エンリコが怒鳴った。
その額には脂汗が滲んでいる。
「私には権利がある!…いいか、もし期限の正午までに耳を揃えて返せなければ、共和国の法に基づき、担保権を行使する!」
彼はテーブルの上の羊皮紙を指差した。
「この屋敷も、店も、工房も、家財道具の一切合切も、すべて差し押さえる!一文無しになって終わりだと思うなよ」
エンリコの目が、蛇のように冷たく細められた。
「資産を全て売却しても足りない分は…その身で払ってもらう」
「…なに?」
ロレンツォ兄さんの声が低くなる。
「男はガレー船の漕ぎ手として売る。鎖に繋がれ、死ぬまでオールを漕ぎ続けるんだ。女は…まあ、底辺の労働力としていくらでも使い道はある。一生かかっても返しきれぬ借金を背負い、家畜のように働き続けてもらうぞ」
母イザベッラが顔を覆って泣き崩れる。
アディが義母の背中を支えるが、その手も震えていた。
路頭に迷うなどという生易しいものではない。
債務奴隷。
人間としての尊厳を剥奪され、死ぬまで搾取され続ける「モノ」になるということだ。
「貴様ッ…!」
ロレンツォ兄さんが激昂して掴みかかろうとする。
だが、護衛の男たちが立ちはだかり、剣の柄に手をかけた。
即座にランさんとヴァレリアも構える。
一触即発。
「やめて!」
僕が叫んで、二人の間に割って入った。
「…暴力沙汰になれば、それこそ相手の思う壺だよ。今すぐ投獄されるよ」
僕の言葉に、兄さんがギリッと歯を食いしばり、拳を下ろした。
エンリコは鼻を鳴らし、乱れた襟を直した。
「賢明だな、ルカ君。…二週間だ。精々金策に走り回ることだな。まあ、どの金貸しも、お前たちに貸す馬鹿はいないだろうがな」
捨て台詞を残し、エンリコは踵を返した。
バタン、と玄関の扉が閉まる音が、弔鐘のように重く響いた。
◆◇◆◇◆
エンリコが去った後の居間は、通夜のような静けさに包まれていた。
母のすすり泣く声だけが聞こえる。
「…どうすればいいの…」
母の言葉に、誰も答えられない。
二週間で一万枚近くの金貨を用意する。
真珠や靴が売れているといっても、それは「これから」の利益だ。
手元の現金は、日々の運転資金とコンペの準備費用で消えていく。
「…ペルラ(真珠)を、大量生産して売りさばくか?」
ロレンツォ兄さんが呻くように言った。
だが、すぐに自分で首を振った。
「いや、ダメだ。二週間以内に大量に売りだせば、それだけ商品価値が落ちる。…最後には一個金貨十枚すらつかなくなるぞ」
ブランド価値というのは、信頼と希少性の上に成り立っている。
焦って安売りすれば、これまで築き上げた『FUTURO』ブランドは崩壊する。
そうなれば、本当に再起不能だ。
「…これまでの売り方が裏目に出たな。…どうするか」
兄さんが頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
あの強気な兄さんが、弱音を吐くなんて。
父ジョヴァンニも、魂が抜けたように暖炉の火を見つめている。
悔しい。
悔しい…!
僕は膝の上で拳を握りしめた。
爪が食い込んで血が滲むほどに。
技術なら負けない。
コンペなら勝てる自信がある。
なのに、戦う土俵に上がる前に、大人の汚いやり方で潰されるなんて。
(これが、ダンテの言っていた『政治』…『大人の戦い』なのか)
力を背景にした、理不尽な暴力。
僕たちが積み上げてきた努力や希望を、紙切れ一枚の契約書と権力で踏みにじる行為。
ふと、温かい手が僕の拳に重ねられた。
アディだった。
彼女の手も震えている。怖くないわけがない。
もし家がなくなれば、彼女も、メイドたちも、みんなバラバラになってしまう。
そんなこと、絶対にさせない。
「…ルカ」
アディが、不安げな瞳で僕を見つめる。
僕は彼女の手をギュッと握り返し、顔を上げた。
「…負けない」
僕の声は震えていたかもしれない。
でも、その言葉は腹の底から絞り出した本音だった。
「絶対に、負けない。…家も、みんなも。何ひとつ渡さない!」
僕の言葉に、ロレンツォ兄さんが顔を上げた。
ランさんも、静かに僕を見ている。
「でもルカ、どうやって…金策のあてはあるのか?」
「…ないよ」
僕は唇を噛んだ。
「でも、諦めるわけにはいかない。…必ず方法を見つけてみせる」
根拠はない。
策もない。
あるのは、理不尽に対する怒りと、家族を守りたいという執念だけ。
期限は二週間。
崖っぷちの状況で、マルチェッロ家の、そして僕の本当の戦いが始まろうとしていた。
(第47話「脅迫」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「借金を返す当てがない。ロレンツォ兄さんも、父さんも、みんな絶望してる。僕は工房に籠もって必死に考えた。僕にできることは『作る』ことだけ。でも、お金そのものを作ることはできない。…待てよ?お金を作れないなら、『お金の価値』そのものを問うことはできないかな…?そこにとんでもないヒントがあったんだ!」
「次回、『借金』。どんな状態でも考えるって大事!」




