第45話「コルナーロ」
セレニア共和国の造船ドック。
海水を堰き止めた巨大な空間に、その船は鎮座していた。
全長四十メートル。
三本のメインマスト。
そして、船腹から突き出した百本以上のオール。
最新鋭のガレー船『レヴィアタン』。
コルナーロ家の莫大な資金と、造船ギルドの技術を結集して造り上げられた、海の怪物だ。
「…美しい」
ドックを見下ろす回廊で、ダンテ・コルナーロは呟いた。
船体の曲線は滑らかで、水の抵抗を極限まで減らすよう設計されている。
船首には衝角の代わりに、波を切り裂く鋭利なブレードが装備され、荒れた海でも速度を落とさずに進むことができる。
「これならば、勝てる」
ダンテは手すりを握りしめた。
一ヶ月後のコンペティション。
そこでこの船を披露し、圧倒的な性能差を見せつける。
「こいつが完成する時期に、おあつらえ向きの公募内容とはな」
(運も実力のうちだ)
靴や真珠のような小手先のアイデア商品ではない。
国を支える重厚長大な産業力で、あのルカ・マルチェッロを叩き潰す。
それが、ダンテの描く勝利の図式だった。
正々堂々と、技術と力でねじ伏せる。
そうでなければ、あの生意気な眼鏡の少年の鼻を明かしたことにはならない。
「ダンテ様」
背後から従僕の声が掛かった。
「お父上がお呼びです。本邸の執務室にてお待ちです」
ダンテの眉がピクリと動いた。
父、ヴィットーリオ・コルナーロ。
この共和国で最も冷徹で、最も強大な男。
ダンテにとって、彼は父であると同時に、超えなければならない絶対的な壁だった。
◆◇◆◇◆
コルナーロ本邸、当主執務室。
重厚なマホガニーの扉を開けると、部屋の空気は氷のように冷え切っていた。
窓から差し込む秋の日差しさえも、ヴィットーリオの威圧感の前では色を失うようだ。
「…『レヴィアタン』の仕上がりはどうだ」
書類に目を落としたまま、父が問う。
「順調です、父上。試運転でも従来の船を3割上回る速度を記録しました。荒天時の安定性も計算通りです」
ダンテは背筋を伸ばし、報告した。
自信はあった。この船は完璧だ。
「そうか」
ヴィットーリオは短く答え、ペンを置いた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、鷲のような鋭い眼光でダンテを射抜いた。
「だが、万全ではないな」
「…と、おっしゃいますと?」
「相手はあのマルチェッロだ。靴、真珠と立て続けに市場を荒らした『異物』だ。奴らがどんな奇策を用意しているか、予測がつかん」
ヴィットーリオは立ち上がり、窓の外――マルチェッロ商会がある方向を睨みつけた。
「ミョウバンの独占権は、我が家の悲願だ。これを手に入れれば、コルナーロ家は今後百年にわたって共和国の経済を支配できる。…不確定要素は、排除せねばならん」
父の言葉に、嫌な予感が走った。
排除。
その言葉の意味を、ダンテは熟知している。
「エンリコを使う」
「エンリコ…銀行家の、ですか?」
「ああ。奴はマルチェッロ家に多額の融資をしている。その貸付金を『即時一括回収』させる」
ダンテは息を呑んだ。
「即時回収…!?しかし父上、契約には期限があるはずです。それを無視して回収など、銀行の信用に関わります。それに…」
ダンテは一歩踏み出した。
「そんなことをしなくても、勝てます。我が家の『レヴィアタン』の性能は圧倒的です。技術で勝負しても、奴らに負ける要素はありません!」
そうだ。
正攻法で勝たなければ意味がない。
相手の足を折って勝つレースに何の栄誉があるのか。
だが、ヴィットーリオは鼻で笑った。
「甘いな」
その一言で、ダンテの反論は切り捨てられた。
「勝負に『もしも』はない。勝つ確率が九割あっても、残りの一割を潰すのが為政者の務めだ。…お前は将来、ドージェ(総督)の座を狙う身だろう?」
「…はい」
「ならば覚えておけ。大衆は結果しか見ない。過程がどうあれ、勝った者が正義となり、歴史を作るのだ。…マルチェッロのような弱小商会ごときに、情けをかける必要はない」
父の声には、反論を許さない絶対的な響きがあった。
それはただの論理ではない。
絶対強者の力の論理だ。
ダンテは拳を握りしめた。爪が食い込む痛みだけが、彼に残された僅かな抵抗だった。
「…承知、いたしました」
◆◇◆◇◆
その日の午後。
ダンテは父と共に、銀行家エンリコの私邸を訪れていた。
エンリコは小太りの男で、常に愛想笑いを浮かべている典型的な商人だった。
だが、ヴィットーリオを前にした彼は、借りてきた猫のように縮こまっていた。
「よ、ようこそお越しくださいました、コルナーロ閣下。本日はどのようなご用件で…?」
エンリコが額の汗を拭う。
ヴィットーリオはソファーに深く腰掛け、単刀直入に切り出した。
「マルチェッロ商会への融資。…あれを今すぐ引き揚げろ」
「は…?」
エンリコが目を白黒させる。
「ひ、引き揚げろとは…全額回収という意味ですか?しかし、返済期限はまだ先ですが…」
「期限など関係ない。『経営不安による早期回収』という名目を使え。契約書の隅にある特約条項を使えば、法的には可能だ」
ヴィットーリオの声は、事務的でありながら、冷酷な響きを帯びていた。
「期限は二週間後。コンペの直前だ。…奴らの資金源を断ち、コンペどころではなくしてやれ」
エンリコの顔色が青ざめた。
「そ、そんな無茶な…!マルチェッロ商会は今、靴と真珠で勢いがあります。そんなことをすれば、我が銀行の評判が地に落ちます!それに、彼らは優良な顧客で…」
「黙れ」
ヴィットーリオの一喝。
部屋の空気が凍りついた。
「エンリコ、勘違いするな。私は頼んでいるのではない。…命令しているのだ」
父は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに放り投げた。
それは、エンリコの銀行に対する、コルナーロ家からの預金証書だった。
そこに記された金額は、エンリコの銀行が抱える資産の半分近くに相当する。
「もし断るなら、我々は貴様の銀行から全預金を引き揚げる。…明日中にだ」
「なッ…!?」
エンリコが椅子から転げ落ちそうになった。
コルナーロ家のような超大口顧客が一斉に預金を引き出せば、銀行は瞬時に破綻する。
取り付け騒ぎが起き、エンリコは破産どころか、怒れる市民に吊るし上げられるだろう。
「わ、分かり…ました…」
エンリコは震える声で答えた。
彼に選択肢などなかった。
正義も、仁義も、圧倒的な資本の暴力の前では無力だった。
「よろしい。…マルチェッロには明日、通達しろ。『二週間以内に全額耳を揃えて返済せよ。さもなくば、屋敷も店もすべて差し押さえる』とな」
ヴィットーリオは満足げに立ち上がった。
そして、部屋の隅で沈黙を守っていたダンテに視線を向けた。
「行くぞ、ダンテ。…これが『大人の戦い』だ」
ダンテは父の後ろ姿を見つめた。
その背中はあまりに大きく、そして黒い。
彼はちらりと、項垂れるエンリコを見た。
そして、心の中でルカ・マルチェッロの顔を思い浮かべた。
あの夜会で、「技術は人を幸せにする力だ」と言い放った少年の顔を。
(…恨むなら、自分の弱さを恨め)
ダンテは心の中でそう呟き、自身のプライドを無理やり押し殺した。
父のやり方は汚い。
だが、勝つのは父だ。
このセレニアにおいて、コルナーロ家に逆らえる者はいない。
ダンテは無表情の仮面を被り直し、冷徹な足取りで部屋を後にした。
だが、その握りしめた拳の中には、行き場のない苛立ちが、小さな爪痕となって刻まれていた。
巨悪の刃は、振り下ろされた。
明日、マルチェッロ家に絶望の通達が届く。
それは、コンペティションという戦いの舞台に立つことすら許さない、死刑宣告だった。
(第45話「コルナーロ」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「コンペに勝つため、家族みんなで作戦会議。ラン兄さんが見せてくれた『海の民の海図』、そしてアディの何気ない一言のおかげで閃いた!僕の技術なら、航海に革命を起こせるかもしれない!」
「次回、『会議』。闇夜を照らす一筋の道!」




