第41話「焦らしの美学」
その日の朝、マルチェッロ商会の本店前は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
ゴム底靴『パッソ』の発売日も凄かったが、今回は客層がまるで違う。
絹のドレスを纏った貴婦人、従僕を従えた貴族、あるいは他国の裕福な商人たち。
普段なら予約なしでは会えないようなハイソサエティな人々や、そしてその数に倍する、やんごとなき方々のお使いが、我先にと列を作っているのだ。
「皆様、申し訳ございません!本日の受付は終了いたしました!」
店の入り口で、ロレンツォ兄さんが声を張り上げている。
詰めかけた客たちから、非難の声が上がる。
「どういうことだ!私は朝から並んでいるんだぞ!」
「コンタリーニ夫人が着けていた、あの『奇跡の真珠』が欲しいのよ!」
「金ならいくらでも出す!言い値を言え!」
怒号に近い注文の嵐。
しかし、ロレンツォは涼しい顔で、深々と一礼した。
「重ねてお詫び申し上げます。当店の新作『FUTURO・Perla』は、特別な製法により作られる希少品。…現在、生産が追いついておりません。次回の予約受付は一ヶ月後となります」
「一ヶ月だと!?」
「そんなに待てと言うのか!」
「ええ、お待ちいただきます。…それだけの価値がある品ですので」
ロレンツォが不敵に微笑むと、客たちは悔しそうに、しかしどこか熱っぽい目で店の中を覗き込みながら、しぶしぶと引き下がっていった。
その様子を、二階の窓からこっそりと覗いていた僕とアディは、顔を見合わせた。
「…すごい人気だね」
「うん。でも、おかしいな。昨日の夜、ビアージョさんの工房で十個くらい作ったよね?」
アディが首を傾げる。
そう、作り方を理解した真珠の作成は、僕のスキルを使えばそれほど時間はかからない。
昨日のうちに、ある程度の在庫は確保してあるはずだ。
なのに、なぜ兄さんは「ない」と言ってるんだろう?
◆◇◆◇◆
お昼。
店の裏手にある休憩室で、ロレンツォは上機嫌でサンドイッチを頬張っていた。
「読み通りだ。コンタリーニ夫人の宣伝効果は絶大だな」
「兄さん、嘘ついちゃダメだよ」
僕が抗議すると、ロレンツォはキョトンとした顔をした。
「嘘?何のことだ」
「在庫、あるじゃないか。どうして売らないの?あんなにみんな欲しがってるのに」
僕の問いに、ロレンツォはニヤリと笑い、人差し指を立てた。
「いいかルカ。商売ってのはな、ただモノを売ればいいってもんじゃねぇ。『欲しい』という気持ちを売るんだ」
ロレンツォはコーヒーを啜りながら、講釈を垂れ始めた。
「今、店にある百個を全部売り出してみろ。一時的には大金が入るだろうよ。だが、それで終わりだ。『ああ、マルチェッロに行けばいつでも買えるな』と思われた瞬間、その宝石の価値は暴落する」
ロレンツォの目は、冷徹な計算に満ちていた。
「特に相手は貴族や裕福な商人だ。彼らが一番欲しがるのは『美しさ』じゃねぇ。『他人より先に手に入れた』という優越感と、『手に入らないものを持っている』という希少性だ」
「…なるほど」
僕は唸った。
確かに、前世の高級ブランドもそうだった。
限定生産、ウェイティングリスト、招待客のみの販売会。
手に入りにくいからこそ、人は熱狂する。
「だから焦らすんだ。徹底的にな。『今は買えない』『選ばれた人しか持っていない』…その飢餓感が、ブランドを育て上げる。俺たちが売るのは真珠という物質じゃない。『フトゥーロ』という夢の価値だ」
「兄さん…すごいよ。そこまで考えてたんだ」
「へっ、これくらい常識だぜ。…それに、お前の体調も心配だからな。無理な量産はさせねぇよ」
ロレンツォはポンと僕の頭に手を置いた。
計算高いけれど、根底にはいつも家族への配慮がある。
この兄には敵わないな、と僕は思った。
そこへ、父ジョヴァンニが飛び込んできた。
手には分厚い封筒の束を抱えている。
「なんてこった!大変だロレンツォ!フィオラーレの銀行家、ミラノーヴァの将軍、それにナポリタニアの王族からも問い合わせが来ているぞォォッ!」
「マジかよ!?」
「ああ!『我が国の女王陛下の首元を飾るに相応しい』だと!うおおお、マルチェッロ家の名が世界に轟いていくぅぅ!」
父さんは感極まって、その場でクルクルと踊り出した。
母イザベッラが呆れ顔で入ってくる。
「あなた、はしゃぎすぎです。…でも、本当にすごいことね。ルカ、アディちゃん、ありがとう」
「ううん、私は貝殻を選んだだけだし…」
アディが照れくさそうに縮こまる。
その胸元には、僕がプレゼントしたピンク色の真珠が揺れていた。
世界中の王族が欲しがっても手に入らない「第一号」の真珠。
その価値を知ってか知らずか、彼女はそれを何よりも大切にしてくれていた。
◆◇◆◇◆
午後、僕とアディは気分転換に街へ出た。
もちろん、護衛のニーナは影のように付き従っている。
街の空気は、以前とは明らかに変わっていた。
すれ違う人々が履いている靴。
その多くが、ゴム底の『パッソ』だ。
カツカツという硬い足音の代わりに、タッタッという軽快な音が響く。
そして、貴族たちの話題は『フトゥーロ・ペルラ』で持ちきりだ。
「ねえルカ、私たち、有名人になっちゃったね」
「うん。…ちょっと怖いぐらいだよ」
カフェのテラス席で、僕はリモナータを飲みながら呟いた。
半年前、借金まみれで明日をも知れぬ状態だったのが嘘のようだ。
まだまだ借金はたくさん残っているけど、確実に前進できているのは実感している。
技術の力が、世界を変えつつある。
その時、広場の方からざわめきが聞こえてきた。
人混みが割れ、一台の豪奢な馬車が通り過ぎていく。
黒塗りの車体に、金色の装飾。
そして扉には、二色の布を重ねた紋章――コルナーロ家の家紋。
(…ダンテ)
窓の隙間から、あの夜会で会った少年の横顔が見えた気がした。
彼は真っ直ぐ前を見据え、周囲の喧騒など目に入らない様子だった。
「…あいつ、何してるのかな」
アディが不機嫌そうにストローを噛む。
「きっと、次の手を考えているんだよ」
僕は確信していた。
僕たちがこれだけ派手に動いて、あのプライドの高いコルナーロ家が黙っているはずがない。
靴で市場を奪われ、真珠で話題をさらわれ、彼らの面目は丸潰れだ。
特に、あのダンテという少年は。
「嵐が来るかもね」
「え?」
「ううん、なんでもない」
僕は飲み干したグラスを置いた。
今は、この束の間の平和を楽しもう。
ロレンツォ兄さんが時間を稼いでくれている間に、僕にはまだやるべきことがある。
「帰ろう、アディ。…新しい実験のアイデアが浮かんだんだ」
「もう!ルカってば、また実験?」
アディは呆れたように笑ったが、その手はしっかりと僕の手を握っていた。
◆◇◆◇◆
その夜、マルチェッロ家ではささやかな祝宴が開かれた。
マリアが腕を振るった豪華な料理――魚介のリゾットや、鴨のローストが並ぶ。
メイドたちも席に着き(最初は遠慮していたが、イザベッラに押し切られた)、賑やかな夕食となった。
「この肉、うめぇ!おかわり!」
リナが豪快に肉を頬張る。
「リナ、行儀が悪いですよ」
ヴァレリアが注意するが、その表情は柔らかい。
「若旦那様、このリゾット、貝の出汁が効いてますね」
ニーナが珍しくコメントする。
「あ、それ!市場に行った時、リゾット用に美味しそうな貝も買っておいたの!」
アディが得意げに笑う。材料集めのついでに、ちゃっかり食材も確保していたらしい。
笑顔の輪。
父さんがワインで顔を赤くして語り、兄さんが明日の売上予想を皮算用し、母さんがみんなを見守っている。
守りたかったのは、この景色だ。
ゴムも、カーボンも、真珠も。
すべては、この温かい場所を守るための力だ。
(…負けない)
ルカは心の中で誓った。
どんな強大な敵が来ようとも、僕の技術と、家族の絆があれば乗り越えられる。
しかし、その平和な夜を破るように、翌朝、一通の通達が届くことになる。
それは、セレニア共和国全土を巻き込む、巨大な「競争」の幕開けだった。
(第41話「焦らしの美学」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「『ペルラ』も『パッソ』も大ヒットで、商売は順調そのもの。…のはずなのに、ロレンツォ兄さんの顔が険しいんだ。金貨の中に『偽物』が混じってるって?見た目じゃ全然分からないよ…。そんな時、屋敷に意外な来訪者が現れた。…アディのお兄さん!?」
「次回、『来訪』。頼れる兄たちと、忍び寄る偽金!」




