第34話「休息と反省」
深い、泥のような眠りから意識が浮上する。
目を開けると、見慣れた天井があった。
窓からは運河を渡る柔らかな午後の日差しが差し込み、カーテンが風に揺れている。
鼻をくすぐるのは、温かいスープの匂いと、微かな潮の香り。
「…ん」
ルカが小さく呻くと、ベッドの脇で丸くなっていた影が弾かれたように動いた。
「ルカ!?」
アディだ。
彼女は椅子に座ったまま、ルカの手を握って眠っていたらしい。
目の周りが少し赤い。
彼女の声に反応して、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ルカ!」
ドタドタドタッ!と騒がしい足音と共に飛び込んできたのは、父ジョヴァンニだった。
彼はベッドに駆け寄るなり、両手を広げてルカを抱きしめた。
「イザベッラ!マリア!ルカが目を覚ましたぞ!」
「あなた、うるさいです。ルカが驚くでしょう」
母イザベッラがスープの盆を持って入ってきた。
その顔には安堵の笑みが浮かんでいるが、父のオーバーリアクションには慣れっこのようだ。
ジョヴァンニは涙を浮かべながらルカの頭を撫でた。
「心配させおって…!お前がこのまま目覚めなかったら、お父さんは悲しみのあまり…」
言葉が詰まる。
ジョヴァンニは息子の顔をまじまじと見つめ、そして深く息を吐いた。
「…本当に、よかった」
「…お父様、大げさだよ」
「大げさなものか!お前は私の命そのものなんだからな!」
暑苦しくも温かい抱擁を受けながら、ルカは苦笑した。
体の芯に残っていた鉛のような重さは消えていたが、魔力回路(と呼んでいる感覚)はまだ少し痺れている。
丸三日。それほど長く眠っていたのか。
「…みんなは?怪我はなかった?」
「ええ、全員ピンピンしてるわ。ルカ以外はね」
アディが濡れたタオルでルカの額を拭いてくれる。
その時、廊下から重い足音が近づいてきた。
ロレンツォだ。
彼は部屋に入ると、起き上がったルカを見て、ホッとしたように肩の力を抜いた。
だが、その表情には深い自責の念が刻まれていた。
彼はベッドの脇に立つと、ルカの頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。
「…よう。やっとお目覚めかい、寝坊助」
「ロレンツォ兄さん…」
「悪かったな、ルカ」
ロレンツォは短く言った。
いつもの飄々とした態度はなく、その声は沈んでいた。
「俺はとんでもねぇ馬鹿野郎だ。金の輝きに目がくらんで、一番大事な『元手』を壊しかけちまった。…商人失格だぜ」
「そんなことないよ。注文がたくさん来て、兄さん嬉しそうだったし…僕も、頑張りたかったんだ」
「そこが間違いなんだよッ!」
ロレンツォが声を荒らげ、すぐにバツが悪そうに頭をかいた。
「…すまん。だがな、ルカ。お前は、使い捨ての道具じゃねぇ。お前がすり減るような商売なら、そんなもん畳んじまった方がマシだ」
ロレンツォは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「これからペトロの親父さんのとこに行ってくる。『パッソ』の生産を一時ストップさせる」
「えっ?でも、注文が…」
「待たせときゃいいんだよ。いいかルカ、よく聞け。俺たちが売ってるのはただの靴じゃねぇ。唯一無二の商品だ」
ロレンツォは人差し指を立て、ニヤリと不敵に笑った。
「他じゃ絶対に真似できねぇ。だったら、媚びへつらって大量に売る必要なんてねぇんだよ。『欲しければ三ヶ月待て、嫌なら他所の滑る靴を買え』…それぐらい強気でいい。品薄になりゃあ、逆に価値が上がって評判になる。俺たちは安売り屋じゃねぇ、宝石を売るような商売をするんだ」
ルカは目を丸くした。
兄の言う通りだ。
数を追わず、質と希少性で勝負する。
それは「ブランド」という概念のないこの時代において、革新的な戦略だった。
「数を追うのは止める。お前の体調に合わせて、月産数をガチガチに制限する。その分、値は釣り上げるがな。…文句は言わせねぇ」
ロレンツォは拳を握りしめた。
「俺は二度と、弟を過労で倒れさせたりしねぇ。…約束するぜ」
その言葉には、金勘定だけではない、兄としての熱い情がこもっていた。
◆◇◆◇◆
午後、ルカはリハビリを兼ねて庭に出た。
戦闘の跡も、もう綺麗に片づけられ以前のような庭に戻っている。
昨日から監視の目もなくなったらしい。
一時的なものかはわからないけど、これまでよりは動きやすくなるのかなと、ルカは安堵した。
アディに肩を借りて歩いていると、中庭の隅から金属音が聞こえてきた。
武装メイドたちが集まっている。
「…また刃こぼれか」
低い声が聞こえた。剣士のリナだ。
彼女は砥石で愛用の剣を研いでいるが、その表情は険しい。
「あの晩の連中、いい装備してやがったからな。こっちは五人相手にしなきゃならねぇってのに、三人と打ち合ったらもう切れ味が落ちてきやがる」
「私の短剣も同じです」
ニーナが珍しく困った顔で、欠けたナイフを見つめていた。
ヴァレリアが腕を組んで、静かに口を開く。
「今回の襲撃は撃退できましたが、次はもっと数が増える可能性もあります。そうなれば、装備の消耗戦になります」
彼女の声には、いつもの冷静さの裏に、わずかな焦りが滲んでいた。
「武器の予備も限られていますし、戦闘中に交換している暇はありません」
「マエストロ・ビアージョに頼んで、もっといい剣を打ってもらえないかしら?」
弓の手入れをしていたエリシアが提案するが、ヴァレリアは首を横に振った。
「ビアージョ殿の腕は確かですが、素材が鉄である以上、限界があります。…硬くすれば折れやすくなるし、粘りを出せば切れ味が落ちる。一対多の乱戦に耐えうる『絶対に壊れない剣』なんて、お伽噺です」
彼女たちの言葉は、深刻だった。
彼女たちの腕は超一流だ。
だが、道具がその実力に追いついていない。
ルカたちが生き残れたのは彼女たちのおかげだ。その彼女たちが、武器の不安を抱えたままでは、次は守りきれないかもしれない。
(絶対に壊れない剣…)
ルカは、以前タイヤを作った時の記憶を呼び起こした。
ゴムに混ぜた「カーボンブラック(煤)」。
あれは単なる煤ではない。
ダイヤモンドと同じ炭素原子の塊だ。
前世の知識が、脳内でスパークする。
――炭素繊維強化プラスチック(CFRP)。
鉄より強く、軽い、夢の素材。
だが、ここはプラスチックのない世界だ。
ならば…プラスチックの代わりに「鉄」を使えば?
鉄の結晶構造の隙間に、最強の結合力を持つ炭素繊維を『圧縮』して縫い込むことができれば。
鉄のしなやかさと、カーボンの硬度。
相反する二つを、僕のスキルで融合させる。
「…できるかもしれない」
ルカの声に、メイドたちが振り返った。
「ルカ様!もう起きて大丈夫なんですか!?」
「うん、もう大丈夫」
ルカはアディの肩から離れ、自分の足でしっかりと立った。
そして、ヴァレリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お伽噺じゃない。…僕が作るよ。何百回斬り合っても刃こぼれ一つしない、最強の『黒い剣』を」
ルカの瞳には、かつて研究室で難題に挑んでいた時と同じ、静かな、しかし熱い探求者の炎が宿っていた。
(第34話「休息と反省」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「ヴァレリアさんたちが安心して戦えるように、ビアージョさんと一緒に『最強の剣』を作るんだ。タイヤに使った『カーボン』と鉄を混ぜ合わせれば、常識外れの素材が生まれるはず!」
「次回、『黒い刃』。黒鉄の輝き、見せてやる!」




