第32話「忍び寄る影」
マルチェッロ家の工房。
換気扇(といっても手動の送風機だが)が回っているものの、ゴムが焼けるような独特の硫黄臭が充満している。
「…98、99…100個目…」
ルカの目は虚ろだった。
目の前には、合成ゴムと硫黄、そしてカーボンの粉末がある。
それを金属の型に押し込み、スキル『圧縮』で成形する。
数秒で、強靭なゴム底は完成する。
だが、それを一日中、何百回も繰り返すのだ。
「…疲れた」
ルカは作業台に突っ伏した。
疲労による激しい目眩と、終わりの見えない単純作業による精神的な摩耗。
肩は鉛のように重く、指先はカーボンで真っ黒だ。
数日前、新商品『FUTURO・Passo』が発売されるや否や、店には客が殺到した。
「パッソ(Passo)」とは「歩み・足音」の意。
その名の通り、この靴は歩く人々の生活を一変させた。
ペトロの工房からは、分業体制によって次々と完成した革靴が運び込まれてくる。
職人たちは優秀だ。
だが、肝心の「ゴム底」を作れるのは、この世界でルカただ一人なのだ。
ガチャリ、と扉が開いた。
「ルカ、差し入れだよ!」
アディがトレイを持って入ってきた。
サンドイッチと、冷たいリモナータ(レモネード)だ。
しかし、彼女はルカの土気色の顔を見て、笑顔を曇らせた。
「…ルカ、顔色が悪いよ。少し休んだら?」
「ありがとう、アディ。でも…まだ衛兵隊からの注文が100足分残ってるんだ」
ルカは重い体を起こし、リモナータを一口飲んだ。
美味しいはずなのに、味がよく分からない。
その時、ドタドタと階段を降りてくる足音がした。
ロレンツォだ。
「ルカ!追加のゴム底はまだか!?郵便ギルドから200足の大口注文が入ったぞ!」
ロレンツォは興奮していた。
商売繁盛。
笑いが止まらないはずだった。
だが、彼は作業台に突っ伏したルカと、積み上げられた黒いゴムの山を見て、言葉を失った。
「…ルカ?」
「兄さん…ごめん。僕、もう無理かも」
ルカは力なく笑った。
「靴が売れるのは嬉しい。でも、僕の体は一つしかないんだ。…僕がゴムを作っている間、新しい研究も、他のことも、何もできない」
ロレンツォはハッとした。
商売の熱に浮かされて、経営者として一番大切なリスク管理を忘れていた。
この商会の全ての商品は、ルカという「個人の才能」に依存している。
一点物の工芸品ならそれでもいい。
だが、靴のような「消耗品・量産品」を個人の手作業で支えるのは、構造的に破綻しているのだ。
「…すまん。俺が馬鹿だった」
ロレンツォはルカの肩に手を置いた。
「お前は職人であり、発明家だ。水車の歯車じゃねぇ。…このままじゃ、店が潰れる前にお前が壊れちまう。すまなかった」
「…大量生産できる仕組みがあればいいんだろうけど、今はまだ無理だよ…」
スキルを「動力」に置き換える。それができなければ、この方針での拡大は不可能だ。
「悔しいけどね…」
◆◇◆◇◆
一方、その頃。
マルチェッロ家の屋敷を、離れた建物の屋根から監視する影があった。
灰色がかったローブを纏い、風景に溶け込む男たち。
ジェンティーレ共和国の密偵部隊だった。
「…観察報告。ゴム底の供給が滞り始めている」
男の一人が低く呟いた。
「ペトロの工房からは革靴が運び込まれているが、マルチェッロ家からは完成品が出てこない時間が増えている。…ヤツだな」
「ああ。あの…ルカ・マルチェッロだ」
もう一人の男が、望遠鏡を下ろした。
「あのガキが全ての元凶であり、唯一の生産ラインだ。奴が倒れれば、あの商会の新商品はすべて止まる」
彼らは、商会の弱点を正確に見抜いていた。
どれだけ優れた商品があろうと、生産者が一人しかいないなら、そこを突けばいい。
「パオロ様からの指令は『技術の奪取』、あるいは『破壊』だ。…あのガキを拐うか、あるいは指を潰して二度と作れなくするか」
「警備は厳重だぞ?」
「正面からはな。…だが、奴は今、疲労の極致にある。反応は鈍っているはずだ」
男たちは冷酷な笑みを交わし、夕闇の中に消えた。
◆◇◆◇◆
深夜。
ルカは自室のベッドに倒れ込んでいた。
泥のような疲労感で、アディたちにもおやすみを言う気力さえなかった。
(自動化しなきゃ…。ロール機…金型…)
意識が朦朧とする。
窓の外、庭の木々が風に揺れる音がした。
ザワッ…。
「…?」
ルカはふと目を開けた。
風の音じゃない。
何かが、枝を踏んだ音?
次の瞬間。
窓ガラスが音もなく切り取られ、黒い影が部屋の中に滑り込んできた。
「…ッ!」
ルカが声を上げようとした瞬間、冷たい手が口を塞いだ。
眼前に、覆面をした男の無機質な瞳がある。
「静かにしろ。…お前のその『手』、我々がもらおうか」
疲労で体がまともに動かない。抵抗できない。
男が短剣を抜き、ルカの腕に降り下ろそうとした――その時だった。
ドスッ!!
肉を穿つ鈍い音。
ルカを抑えていた男の手が、不自然に止まった。
男の肩に、一本の「矢」が深々と突き刺さっていたからだ。
「…ルカ様に触れるな、下種が」
窓枠の上に、月光を背負って立つ人影があった。
長い黒髪を夜風になびかせ、弓を構えたメイド――エリシアだ。
男が呻き声を上げて後退る。
だが、廊下からも足音がした。一人じゃない。
「侵入者確認!総員、戦闘配置!」
ヴァレリアの鋭い声が響き渡る。
忍び寄った影。
だが、それを迎え撃つ「影」たちもまた、この屋敷には潜んでいたのだ。
(第32話「忍び寄る影」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「うぅ…働きすぎて体が動かないよ。そんな時に泥棒が入ってくるなんて、ツイてないなぁ。でも、エリシアさんが助けてくれた!さすが弓の名手!…って、これで終わりじゃないの!?敵は一人じゃない!?屋敷を取り囲む無数の気配。武装メイド全員、戦闘配置!私の出番もあるかな!?」
「次回、『月下の攻防』。メイドたちの本気、見せてあげる!」




