第31話「足元の革命」
翌朝。
マルチェッロ家の食堂で、ルカとロレンツォは頭を抱えていた。
テーブルの上には、昨夜ルカが試作した「ゴム底のブーツ」が一足だけ置かれている。
「…で、どうするんだルカ。この靴」
ロレンツォが渋い顔で言った。
「性能が凄いのは分かった。俺も履いてみて感動した。だが…靴そのものをどうやって用意する?」
この時代、まともな靴といえば「ス・ミズーラ(注文生産)」が常識だ。
客の足を採寸し、木型を削り、革をなめして縫い合わせる。
一足仕上げるのに、早くて二週間、人気職人なら数ヶ月待ちはザラだ。
一方、市場で売られている「吊るしの靴(既製品)」もあるにはあるが、それは兵士や貧民向けの粗悪品だ。
サイズは大雑把で、革も硬く、履けば必ず靴擦れを起こして血が出る。
「ゴム底を貼るには、靴本体が必要です。でも、注文生産じゃ量産なんてできません」
「だよな。靴ができるのを待ってたら、ゴムが腐っちまう」
ロレンツォは指でテーブルを叩き、商人の顔になった。
「常識をひっくり返すぞ。…街一番の頑固親父を口説き落とす」
◆◇◆◇◆
セレニアの職人街にある、一軒の老舗靴店『ペトロ工房』。
頑固親父として知られる靴職人ペトロは、ロレンツォの提案を聞くや否や、手に持っていた木型を投げ捨てた。
「ふざけるな!俺に『吊るしの靴』を作れだと!?」
ペトロの怒号が工房に響く。
彼は職人歴40年のベテランだ。
客一人一人の足に合わせて革を引くことに命を懸けている。
「俺は靴職人だ、軍隊の補給係じゃねぇ!誰の足かも分からん靴なんて、魂の抜け殻だ!あんなブカブカの粗悪品を作れと言うなら、お前ら叩き出してやる!」
ペトロの言い分はもっともだった。
左右の区別すらない粗雑な既製靴は、職人にとって恥ずべき仕事だ。
サイズが合わない靴は足を壊す。
だからこそ、富裕層は高くてもス・ミズーラを選ぶのだ。
「親父さん、怒鳴らないでくれ。俺たちも粗悪品を売るつもりはねぇ」
ロレンツォは冷静に切り返した。
「だが、あんたの最高級の靴を欲しくても、一ヶ月も待てない客が大勢いる。…もし、『吊るし』なのに『オーダーメイド』より歩きやすい靴があったら、どうだ?」
「はっ、そんな魔法があるもんか!」
「あるんだよ。…ルカ!」
ルカが前に進み出た。手には、黒いゴム底が貼られた試作品がある。
ルカはペトロに、数種類の木型の図面を見せた。
「ペトロさん。足の形は人それぞれですが、統計を取れば『だいたいの形』は数パターンに分類できます。…5種類のサイズ展開を用意すれば、市民の8割の足には入るはずです」
「だから、その『だいたい』がダメなんだ!少しでも隙間があればマメができるし、当たれば痛いんだよ!」
「ええ。革底ならね」
ルカは試作品をペトロの足元に置いた。
「でも、この『ゴム底』なら違います。ゴムのクッション性が、多少のサイズ誤差や歩き方の癖を全て吸収してくれます。…騙されたと思って、一度履いてみてください」
ペトロは忌々しそうに鼻を鳴らしたが、ロレンツォの真剣な目に押され、渋々その「既製サイズ」の靴に足を通した。
当然、完全なオーダーメイドではない。少し緩いような感覚がある。
――だが。
一歩、踏み出した瞬間だった。
ムニュッ。
「…ん?」
ペトロの眉が動いた。
石畳の上を歩いてみる。
いつもなら革底を通して伝わるゴツゴツとした衝撃が、消えている。
多少サイズが合っていなくても、着地の衝撃をゴムが殺してくれるため、足の中で足が暴れないのだ。
「…なんだ、これは」
ペトロは工房の中を歩き回った。
歩けば歩くほど、その奇妙な「楽さ」に驚愕する。
オーダーメイドの革底靴が「足と一体化する緊張感」だとしたら、これは「雲の上を歩くような解放感」だ。
「これなら…採寸なしでも、客は文句を言わねぇかもしれん」
「でしょう?それに、この靴なら『今日来て、今日履いて帰れる』んです」
ロレンツォが畳み掛ける。
待たずに買える最高級品。
それは商売の常識を変える。
「…チッ。負けたよ、若造ども」
ペトロは頭を掻きむしった。
「本体は俺が作ってやる。サイズごとの木型も用意しよう。…だが、ゴムの貼り付けはそっちでやれ!俺の工房を汚したくねぇからな!」
「商談成立だ!」
ロレンツォがガッチリとペトロの手を握った。
工房を出ると、ロレンツォは満足げに息を吐いた。
「へっ、さすがペトロの親父だ。話が早い」
「でも兄さん、本当に大丈夫なの?コルナーロの経済封鎖、まだ続いてるんでしょ?」
ルカが心配そうに尋ねる。
ロレンツォはニヤリと笑った。
「ああ、確かに市内の問屋や店は、今もウチを避けてる。…だがな、ペトロの工房は『職人』だ。香辛料も扱わねぇし、飲食もやらねぇ。コルナーロの『スパイス封鎖』なんぞ関係ねぇのさ」
そうか、とルカは納得した。
コルナーロが握っているのは「東方交易の香辛料ルート」だ。
その圧力が届くのは、香辛料を必要とする飲食店や薬屋、あるいはそれらと取引のある問屋だけ。
靴職人のような独立した工房には、そもそも脅しが通用しない。
「それに、完成品はウチの店で直販するか、ヴィチェンツァで捌く。流通を握ってるつもりでいやがるが、作る場所と売る場所を変えりゃあ意味ねぇんだよ」
ロレンツォは得意げに胸を張った。
「コルナーロの野郎も、さぞ歯噛みしてるだろうな」
◆◇◆◇◆
それから数日後。
マルチェッロ商会の店頭に、新商品が並んだ。
『FUTURO・Passo』。
上質な革のボディに、漆黒のゴム底を装備した、見たこともないハイブリッド・ブーツだ。
そして何より画期的だったのは、棚にサイズごとにズラリと並べられ、すぐに買えることだった。
コルナーロの経済封鎖は相変わらず続いていたが、マルチェッロ商会は「既存の流通」を使わない戦略に切り替えていた。
ペトロのような職人工房で製造し、自社店舗で直販する。
あるいは、あの「最強の馬車」でヴィチェンツァへ運び、外貨を稼ぐ。
封鎖など、もはや意味をなさなかった。
それどころか――。
「…そういえば、街道の検問所、最近見かけないな」
ロレンツォが店のカウンターで呟いた。
「ああ、あれか。何度突破されても無駄だって、とうとう諦めたんだろうな」
配達から戻ってきたニーナが、涼やかな声で答えた。
「昨日通った時には、もう誰も立っていませんでした。人件費の無駄だと気づいたのでしょう」
実際、あの馬車の前では、街道封鎖など紙の壁に等しかった。
石畳だろうが荒れ地だろうが、平原を駆け抜ける機動力の前に、固定された関所など意味がない。
ロレンツォはニヤリと笑った。
「へっ、ざまぁみろ。…よし、そろそろ開店だ!」
扉を開けると、すでに店の前には長蛇の列ができていた。
最初は「吊るしの靴なんて」と遠巻きに見ていた客たちだったが、ロレンツォが用意した「試し履きコーナー」で一度足を入れれば、反応は劇的だった。
「な、なんだこの柔らかさは!」
「足が軽い!これなら採寸なんていらないぞ!」
「私にも一足くれ!えっ、もう持って帰っていいのか!?」
噂は瞬く間に広がり、店には長蛇の列ができた。
行商人、郵便配達員、立ち仕事の職人、そして見回りで歩き回る衛兵たち。
これまで「痛いのを我慢して既製品を履く」か「高い金を払って一ヶ月待つ」しかなかった人々にとって、この靴はまさに救世主だった。
「まいどありー!…へへっ、笑いが止まらねぇな」
ロレンツォはカウンターで金貨を積み上げながら、ご満悦だ。
ペトロの工房もフル稼働で、職人たちが「靴底を縫わなくていいから楽だ!」と嬉しい悲鳴を上げているという(ゴムはルカたちが接着剤と加熱で圧着するため、縫う工程が省けるのだ)。
その様子を、店の手伝いをしていたアディとルーチェが眺めていた。
「すごいねルカ!みんな喜んでるよ!」
「うん。…よかった」
ルカも安堵した。
技術が、人々の生活を良くする。これこそが彼が望んだ「商い」の形だ。
だが。
そんな平和な光景を、通りの向こうから冷ややかな目で見つめる男たちがいた。
胸元に「二頭の鷲」の紋章を隠し持った、数人の男たち。
紋章から、ジェンティーレ共和国の人間だとわかる。
「…報告通りだ。マルチェッロ商会、また妙な商品を出してきやがった」
「あの黒い底…ただの革じゃねぇな」
「パオロ様に報告だ。…そろそろ、本気で潰さねぇとマズイぞ」
男たちは人混みに紛れて消えていった。
足元の革命は成功した。
だが、その靴音が高らかに響くほど、敵の殺意もまた、静かに、しかし確実に高まっていた。
(第31話「足元の革命」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「靴が大ヒットして、お店は大忙し!ペトロさんの工房も嬉しい悲鳴を上げてるよ。…でも、最近なんだか視線を感じる。街を歩いていると、誰かに見られているような…。ニーナさんも『ネズミが増えましたね』って警戒してる。ジェンティーレ?それともコルナーロ?敵が動き出した!」
「次回、『忍び寄る影』。その足音は、背後から!」




