第30話「黒いダイヤモンド」
セレニアの港から少し離れた、職人街の一角。
ビアージョの工房「秘密基地」の前に、ルカたちの馬車が停まっていた。
今回の外出の護衛は、御者担当のニーナ、リーダーのヴァレリア、そして――。
「あーあ…やっぱり、ダメかぁ」
馬車の車輪を覗き込んで残念そうな声を上げたのは、小柄なメイド、ルーチェだ。
彼女は「馬車の実験なら私も行きたい!」と志願して(半分遊び目的で)同行していた。
「…ひどい減り方だね」
ルカは車輪を撫でて溜息をついた。
装着したばかりの「ソリッドゴムタイヤ」だが、ここまでの移動で石畳を走っただけで、表面がボロボロに削れ、千切れかけている。
まるで消しゴムをヤスリにかけたようだ。
「うわぁ、もうこんなに減ってる。これじゃヴィチェンツァまでの往復なんて無理だよ」
アディが指で突くと、ポロリとゴム片が落ちた。
ビアージョが腕組みをして鼻を鳴らす。
「言わんこっちゃねぇ。そんな柔らかい塊が、硬い石畳に勝てるわけねぇだろ。鉄の輪に戻した方がいいんじゃねぇか?」
ビアージョの目には、この黒い物質はただの頼りない粘土に見えている。
だが、ルカは首を横に振った。
「いいえ。…だからこそ、こいつに『鎧』を着せるんです」
ルカはビアージョに向き直った。
「マエストロ、使っていない炉を一つ貸してください。あと、煙突の掃除道具も」
「ああん?何する気だ?」
「『黒いダイヤモンド』を作ります」
◆◇◆◇◆
工房の裏手にある、使っていない小型の精錬炉。
ルカはそこに、カイから貰った「石油(燃える水)」を入れた皿を置き、火をつけた。
ただし、空気穴を極限まで絞る。酸素を足りなくするのだ。
ボッ…モクモクモク…。
不完全燃焼を起こした炎から、濃密な黒煙が立ち上り、煙突へと吸い込まれていく。
「うわっ、黒い煙!」
「アディ、あれはただの煙じゃない。…『炭素』の結晶だ」
ルカは説明した。
石油に含まれる炭素が、燃えきらずに微粒子となって残る。
これぞ「油煙」。
ゴムの分子の間に入り込み、結合を強める最強の補強剤だ。
「この煙突の内側に溜まった『黒い粉』を、一粒残らず集める必要があります」
ルカが言うと、控えていたメイドたちが動いた。
リーダーのヴァレリアが、漆黒のスカートの裾を捲り上げ(下には動きやすいズボンを履いている)、白いエプロンを外す。
「狭い場所での作業ですね。…ルーチェ、出番」
「はーい!私、狭いところ得意です!」
ルーチェが元気よく手を挙げ、掃除ブラシを持って冷えた煙突の点検口へと潜り込んでいく。
アディも「私もやる!」と袖をまくった。
数十分後。
煙突から出てきた彼女たちは、文字通り「影」のようになっていた。
顔も手も、髪の毛一本に至るまで、油を含んだ微細な煤で真っ黒だ。
「ぷはぁっ!真っ暗でした!」
ルーチェが笑うと、白い歯だけが光る。
アディも鼻の頭を真っ黒にして戻ってきた。
「ルカ、これくらいでいい?」
差し出された布袋の中には、サラサラとした漆黒の微粉末が詰まっていた。
触ると指紋の奥まで入り込むほど粒子が細かい。最高級のカーボンブラックだ。
「ありがとう!これだよ、これが欲しかったんだ!」
◆◇◆◇◆
再び、ゴムの精製が始まった。
石油から作った合成ゴムのベースに、硫黄、そして集めたばかりのカーボンブラックを大量に投入する。
「圧縮!」
ルカがスキルを発動し、ひたすらに練り上げる。
飴色だったゴムが、見る見るうちに深く、艶やかな「漆黒」へと染まっていく。
現代人がよく知る、あのタイヤの色だ。
「…できた」
完成した黒いゴム帯を、再び馬車の車輪に焼き付ける。
冷えて固まったタイヤを、ビアージョがハンマーで叩いた。
グァン!
「ほう…」
ビアージョが目を丸くした。
硬い。
さっきまでの頼りなさは微塵もない。
ハンマーを跳ね返すほどの反発力がありながら、表面は強靭な筋肉のように引き締まっている。
「こいつは驚いた。ただの煤を混ぜただけで、別モンになりやがった」
「よし、装着完了!ニーナさん、テスト走行をお願いします!」
真っ黒になったタイヤを履いた馬車が、石畳を走り出す。
音は静かなままだ。
だが、カーブで急旋回した時、タイヤは悲鳴を上げるどころか、路面に黒い跡を残して強烈にグリップした。
「…素晴らしい」
御者台のニーナが目を見張った。
「さっきよりも路面を掴む力が段違いです。それに、これならどれだけ走っても削れる気がしません」
「成功だ!」
ルカとアディがハイタッチする。
その横で、煤まみれになったルーチェとヴァレリアが、お互いの顔を見て微かに笑っていた。
「ルーチェ。真っ黒」
「ヴァレリアさんこそ」
メイドたちと、カーボンブラック。
この二つの「黒」が加わったことで、マルチェッロ商会の足回りは、もはや隙のないものとなった。
◆◇◆◇◆
その夜。
屋敷の風呂場からは、アディとメイドたちの賑やかな声が響いていた。
油煙の汚れを落とすのは一苦労だが、それもまた楽しそうだ。
ルカは自室で、完成した黒いタイヤの欠片を見つめていた。
石油からゴムを作り、さらにカーボンで強化する。
この技術があれば、馬車だけでなく、他の産業にも応用できる。
パッキン、ホース、そして…。
「…そうだ。これなら」
ルカは余った黒いゴムを手に取った。
船の上でカイたちに作った「滑らない靴」。
あれはただの生ゴムだったから、すぐに靴底が減ってしまうだろう。
だが、このカーボン入り強化ゴムなら?
ルカの脳裏に、石畳の多いこの街で、硬い革靴で歩き疲れている人々の姿が浮かんだ。
商機だ。
◆◇◆◇◆
翌日。
ルカが試作した「黒い靴底」を見たロレンツォは、眼鏡の奥の目をカッと見開いた。
「おいルカ!こいつは…!」
ロレンツォが靴を履いて床を踏みしめる。
クッション性、グリップ力、そして耐久性。
全てにおいて、従来の革靴を凌駕している。
「売れるぞ!貴族だけじゃねぇ、職人も、衛兵も、全員が欲しがる!これは『足元の革命』だ!」
市内の店から締め出されていたマルチェッロ商会は、ついに沈黙を破り、ある「新商品」を発表することになる。
それは、全ての「歩く人々」に向けた、ゴムという名の衝撃だった。
(第30話「黒いダイヤモンド」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「黒いタイヤのおかげで馬車は絶好調!さらにルカが作った『ゴム底の靴』が大ヒット!ロレンツォ兄さんが『FUTURO』ブランドの新作として売り出したら、お店の前に行列ができちゃった!みんな『歩くのが楽だ』って喜んでるよ。…でも、そんな私たちの成功を、あのコルナーロが黙って見ているはずないよね…?」
「次回、『足元の革命』。靴音高く、反撃開始!」




