第29話「黒い弾力」
翌朝。
『スパッカ・テンペスタ』の船長室で、カイとルカは海図を広げていた。
昨夜の宴の熱気は消え、ピリリとした緊張感が漂っている。
「…いいか、ルカ。ジェンティーレの海軍は腐ってもプロだ」
カイが地図上の西の海域を指差す。
「奴らの主力は『ガレー船』だ。その数、ざっと200隻。対してウチの船団は30隻程度だ。まともにぶつかれば数で押し潰される」
カイは厳しい表情で続けた。
「奴らの戦い方は単純にして凶悪だ。バリスタで遠くから牽制し、その隙に数隻で取り囲んで接舷、重装備の兵士が雪崩れ込んでくる。…白兵戦になれば、数の差はどうしようもねぇ」
この時代、海戦の決着は最終的に「板子一枚下は地獄」の斬り合いになる。
揺れる船上で、足場の悪い中、数倍の敵を相手にする絶望。
「だからこそ、個々の能力を底上げする必要があります」
ルカは静かに言った。
「精神論じゃありません。…装備の差で、1が10に勝てるようにするんです」
ルカはテーブルの上に、昨夜手に入れた「黒い水(石油)」の入った瓶と、船の修繕用資材である「硫黄」を置いた。
「カイさん。この『燃える水』を少し分けてもらえますか?あと、その硫黄も」
「あ?別に構わねぇが…何をする気だ?燃やすのか?」
「いいえ。…『固め』ます」
◆◇◆◇◆
甲板の一角を借りて、ルカの実験が始まった。
アディと護衛のメイドたち、そして暇な船員たちが遠巻きに見守る。
ルカはまず、石油を加熱して揮発成分を慎重に飛ばし、ドロドロの黒い塊を作った。
本来、ゴムは南方の樹液から作るものだが、ルカの知識があれば、石油に含まれる炭化水素成分を重合させ、合成ゴムに近い物質を作り出すことができる。
「ここだ…!『圧縮』!」
ルカが黒い塊に魔力を流し込み、分子レベルで結合を繋ぎ合わせていく。
さらに、そこに硫黄を混ぜ込む。
「加硫」――ゴムの弾力性を決定づける重要な工程だ。熱に弱く脆い生ゴムも、硫黄を混ぜて架橋構造を作ることで、強靭な弾性体へと生まれ変わる。
バチバチッ…!
青白い光が収まると、作業台の上には、黒くて弾力のある奇妙な塊が出来上がっていた。
「…なんだこりゃ?」
カイが指で突く。
プニッ、と押し返される。
「うわっ、なんだこれ!生き物みたい!」
「これが『ゴム』です」
ルカは汗を拭いながら、その黒い塊をナイフで切り出した。
「カイさん、船の上での戦いで一番怖いのは何ですか?」
「そりゃお前、足が滑って海に落ちることだろ。甲板は波飛沫で常に濡れてるからな」
「ですよね。…じゃあ、これを靴の裏に貼ってみてください」
ルカはゴムを薄く加工し、表面にナイフで細かい溝を刻んだ。
それを、カイの革ブーツの底に『圧縮』で貼り付ける。
世界初の「ラバーソール・ブーツ」の完成だ。
「…履いてみろってか?」
カイは半信半疑でブーツを履き、わざと水を撒いて濡らした甲板の上に立った。
そして、強く足を踏み込み、急停止してみせる。
キュッ!
「…!!」
カイが目を見開いた。
滑らない。
革底ならツルッといくはずの濡れた床で、足が吸い付くように止まった。
「すげぇ…!まるでタコが張り付いたみたいだ!」
カイが何度ステップを踏んでも、ゴム底は確実に甲板をグリップする。
これなら、嵐の中でも、血塗れの乱戦の中でも、踏ん張りが効く。
体幹の強い海の民がこれを履けば、戦闘力は桁違いに上がるはずだ。
「『グリップ力』は命です。これがあれば、揺れる船上でも陸と同じように戦えますし、航行中の作業も格段に楽になるはずです」
「でかしたルカ!こいつは革命だ!全員分作ってくれ!」
船員たちが「俺にもくれ!」「俺が先だ!」と殺到する。
ルカは苦笑いしながらも、もう一つの用途を思い描いていた。
ここにはないが、陸で待っている「相棒」のために。
◆◇◆◇◆
数時間後。
ルカたちは連絡艇でセレニアの港へ戻っていた。
船着場には、ニーナが操ってきた「最強の馬車」が待機している。
ルカは持ち帰った大量のゴム塊を使い、さっそく馬車の改造に取り掛かった。
ビアージョの工房ではなく、その場での簡易作業だ。
車輪から鉄の輪を取り外し、代わりに分厚いゴムの帯を巻き付け、焼き付ける。
空気入りタイヤではない。
「ソリッドタイヤ(全ゴムタイヤ)」だ。
「よし、装着完了。…試してみよう」
ルカ、アディ、そして護衛のメイドたちが馬車に乗り込む。
御者台にはニーナ。
「では、参ります」
ニーナが鞭を振るう。
馬車が石畳の上を走り出した。
…スゥゥゥゥ…
「…えっ?」
アディが耳を澄ませた。
音がしない。
今までなら、いくら揺れなくても、鉄の車輪が石畳を削る「ガラガラガラッ!」という騒音だけは消せなかった。
会話も大声でなければ聞こえないほどだった。
それが今は、遠くで車軸が回る低い音がするだけだ。
「静か…!嘘みたいに静かだよルカ!」
「すごいですね。これなら夜間の隠密行動も可能です」
同乗していたヴァレリアも感嘆の声を漏らした。
そして、カーブに差し掛かった時、その真価が発揮された。
ギュッ!
「おぉ…!」
ニーナが少し速度を出して曲がっても、車輪が外側に滑らない。
鉄輪なら横滑り(ドリフト)してヒヤリとする場面でも、ゴムが路面を噛んで踏ん張るのだ。
「グリップ力が全然違う…!これなら、雨の日でも全速力で走れます」
御者台からニーナの弾んだ声が聞こえた。
「板バネ」で衝撃を消し、「ゴムタイヤ」で音と滑りを消す。
これで馬車の足回りは完成形に近づいた。
だが、ルカはタイヤの表面を触り、眉をひそめた。
「…やっぱり、減りが早いな」
少し走っただけで、ゴムの表面が削れて黒い粉が出ている。
生ゴムに硫黄を混ぜただけでは、強度が足りないのだ。
このまま長距離を走れば、すぐにタイヤ交換が必要になってしまう。
「…もっと強くするには、『あれ』が必要だ」
ルカの視線が、港の工房の煙突から立ち上る黒い煤に向けられた。
不完全燃焼した炭素の微粒子。
産業界の黒いダイヤモンド――「カーボンブラック」。
これをゴムに混ぜれば、強度は飛躍的に向上し、タイヤは黒く、強く、永遠に走り続けられるようになる。
「アディ。…次は、煤を集めよう」
「ええーっ?お掃除するの?」
アディは嫌そうな顔をしたが、ルカの目は真剣だった。
最強の素材を作るための、最後の一手。
黒い煤が、世界を変える鍵になる。
(第29話「黒い弾力」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!ゴムの靴にゴムのタイヤ、すごい発明!音もしないし滑らない!でもルカは満足してないみたい。『ゴムがすぐに擦り減っちゃう』って。強くするために必要なのは…えっ、煤?煙突の掃除をして、真っ黒な粉を集めるの?それでゴムが強くなるなんて信じられないよ!」
「次回、『黒いダイヤモンド』。タイヤが黒く染まる!」




