第28話「風を掴むもの」
ザパァァァン…!
船首が波を砕き、白い飛沫が舞う。
久しぶりに嗅ぐ潮の香りに、アディは船首の手すりに身を乗り出して大きく息を吸い込んだ。
「ん~~っ! やっぱり海は最高!」
「落ちないでよ、アディ。…でも、本当にいい天気だね」
ルカもまた、海風に髪をなびかせながら目を細めた。
ここはセレニア沖の海原。
ルカたちは今、カイの船団が停泊している「風鳴りの岩礁」へ向かうため、海の民の連絡艇(全長10メートルほどの小型帆船)に乗っていた。
同乗しているのは、護衛のヴァレリアとニーナだ。
彼女たちは揺れる甲板の上でも体幹を崩さず、鋭い視線で周囲の海面を警戒している。
「…しかし、進まないな」
ルカは帆を見上げて呟いた。
今日はあいにくの向かい風だ。
船員たちは帆を畳みかけ、長いオールを出して漕ごうとしている。風上に向かうには、帆が邪魔になるからだ。
「おい、もっと力を入れろ! 風が悪くて進まねぇぞ!」
操舵手が荒い声を上げる。
この世界の航海術では、横風や向かい風の時は、風待ちをするか、人力で漕ぐのが常識だ。
だが、ルカの前世の知識からすれば、それはあまりにも勿体ない「エネルギーの浪費」だった。
「…あの、船長さん」
ルカは操舵手の男――髭面のベテラン船乗りに声をかけた。
「帆を張らないんですか?風は吹いているのに」
「ああん?見りゃわかるだろ、坊主。風は真向かいから吹いてるんだ。帆を広げたら後ろに戻されちまうよ」
船長は鼻で笑った。
しかし、ルカは眼鏡をクイッと押し上げた。
「いいえ。…風向きなんて関係ない。風があるなら、進めます」
「はぁ?何言ってんだ?」
「僕に指揮を執らせてください。オールを使わず、風だけで今の三倍の速度を出してみせます」
船員たちが顔を見合わせ、失笑が漏れた。
陸の子供が何を言うか、という反応だ。
だが、ヴァレリアがスッとルカの横に立った。
「船長。ルカ様に任せてみては?」
「ヴァ、ヴァレリアさん!?」
「カイ様が認めた方です。…何か考えがあるはずです」
静かだが、有無を言わせぬ圧力。
船長は渋々ながら舵から手を離した。
「…わかったよ。だが、危なくなったらすぐ代わるからな」
「ありがとうございます。…ニーナさん、舵をお願いします。僕の力じゃ支えきれない」
「承知しました」
ニーナが舵棒を握る。
細腕に見えるが、そのグリップは万力のように安定している。
「よし、総員配置!オールをしまえ!メインセール展開!」
ルカの指示が飛ぶ。
船員たちは半信半疑で帆を広げた。
バサァッ!と帆が風を孕み、船が後ろに押される。
「ほら見ろ!戻されるぞ!」
「まだだ!ジブセール(前帆)を張れ!シート(ロープ)を限界まで引き絞れ!」
ルカが叫ぶ。
だが、強風を受けた帆のロープは、大人の男でも引くのが重い。
「ヴァレリアさん、メインシートを!」
「了解」
ヴァレリアがロープを掴み、腰を入れて引く。
ギリギリと音を立てて、帆が風と平行になるまで引き込まれる。
「ニーナさん、面舵一杯! 風に対して45度の角度へ!」
「はい」
ニーナが舵を切る。
水の抵抗が凄まじいが、彼女は表情一つ変えずに舵を固定した。
船首が風上へと向く。
帆はパンパンに張り詰め、板のような翼へと変わる。
その瞬間。
グググッ…!
船体が大きく傾いた。
右舷が水面に触れそうなほど傾く。
「うわぁっ!?ひっくり返るぞ!!」
船員たちが悲鳴を上げる。
だが、ルカは冷静に風を計算していた。
(揚力発生…!ベルヌーイの定理、作動!)
飛行機の翼が揚力で機体を持ち上げるように、帆の表面を流れる風の速度差が、船を「横」ではなく「斜め前方」へと吸い込む力(揚力)を生み出す。
竜骨が横流れを防ぎ、その力は純粋な推進力へと変換される。
すなわち――。
ズババババババッ!!
船が急加速した。
後ろに押されるのではない。
風に向かって、ナイフで切り裂くように突き進んでいるのだ。
「な、なんだコリャァァァッ!?」
船長が目を剥いた。
オールなど比にならない速度。
波を蹴立てて、船が「風を食って」走っている。
「これが『タッキング(間切り)』です!」
ルカは叫んだ。
「風は押してくれるものじゃない!前から掴んで、力に変えるんだ!」
ルカの指揮に合わせ、ヴァレリアが正確にセールを調整し、ニーナが完璧なコースを維持する。
船はジグザグに風上へと切り上がり、あっという間に目的地へと近づいていった。
◆◇◆◇◆
「風鳴りの岩礁」。
無数の奇岩が並ぶ天然の良港に、カイの船団が停泊していた。
数十隻の船の中で、一隻だけ異様な輝きを放っているのが、旗艦『スパッカ・テンペスタ』だ。
「おーい!お父さーん!」
アディが手を振る。
甲板にいたカイが、目を丸くして身を乗り出した。
「あん?アディか!?…って、おいおい!あの連絡艇、なんで逆風なのにあんなスピードで突っ込んでこれるんだ!?」
ルカの指揮する連絡艇は、見事な操船で桟橋へと滑り込んだ。
ピタリ、と寸分違わぬ停止。
ニーナの舵捌きは完璧だった。
「…化け物か、お前ら」
連絡艇の船長が、へなへなと座り込んだ。
ルカは汗を拭い、照れくさそうに笑った。
「ただの物理法則ですよ」
その後、甲板に上がったルカは、興味津々の船員たちに囲まれ、即席の「青空セーリング講座」を開くことになった。
水で濡らした甲板に図を描き、揚力の原理を説明する。
最初は半信半疑だった荒くれ者たちも、実際に目の前で逆風帆走を見せられた後だ。
ルカの説明に食い入るように聞き入り、やがて「なるほど!」「俺の船でもできるか?」と質問が飛び交い始めた。
一通り説明が終わった後、ルカはカイに向き直った。
懐から、以前ロレンツォに見せてもらった地図の写しを取り出す。
「カイさん。…お願いがあります」
地図には、ジェンティーレ共和国の港と、そこから伸びる航路が記されている。
「僕たちは陸の封鎖を破りました。でも、敵は次は『海』を狙ってくるはずです。…このタッキング技術は教えます。だから、僕たちに海の戦い方を教えてください」
これは軍事同盟に近い提案だ。
カイは腕を組み、しばらく地図を見つめていたが、やがてニヤリと笑った。
「いいだろう。…アディの婿殿の頼みだ。それに、ヴェレリアたちを送った時点で、俺たちはとっくに『一蓮托生』だからな」
カイは船員たちに指示を出した。
「おい、今日は客人だ。とびきりの食事を用意しろ。…積もる話もあるだろう、飯を食いながらゆっくり聞かせてもらうぜ」
甲板にテーブルが並べられ、海の民ならではの豪快な食事が始まった。
新鮮な魚介のスープ、岩塩で焼いた魚、そして干し肉。
日は落ち、あたりは夜の帳に包まれていた。
甲板のあちこちに、明かり取りのためのカンテラが置かれている。
そんな和やかな食事の最中だった。
ルカの鼻が、ある「違和感」を捉えた。
「…ん?」
潮の香りでも、料理の匂いでもない。
焦げたような、ツンとした独特の刺激臭。
それは風に乗って、カンテラの火から漂ってきていた。
「…カイさん。このランプの油、普通の魚油じゃないですよね?」
ルカが尋ねると、カイはワインを飲み干してニヤリと笑った。
「おう、鼻がいいな。こいつは俺たち海の民が昔から使っている『燃える水』だ。そのままだと臭いがきついし、火が暴れるからな。香油と混ぜて使ってるんだ」
「燃える水…。どこで採れるんですか?」
「ここから遥か東へ行った海に、俺たちしか知らない『黒い泉』があるのさ。そこから湧き出てるんだよ」
東。
東方貿易のさらに先。
古い帝国の領域に近い場所か。
ルカの心臓が早鐘を打った。
慌てて近くのカンテラを覗き込む。
燃えている油は黒褐色に濁り、独特の粘り気があった。
「…間違い、ない」
ルカの手が震えた。
これはただの油じゃない。
近代文明の血液。
「…石油だ」
ルカは炎を見つめたまま、呟いた。
この世界の人々は、まだその真価を知らない。ただの「臭い油」として燃やしているだけだ。
だが、ルカの脳内には、無限の可能性が広がっていた。
この油に含まれる炭素と水素。
僕のスキルでその分子構造を組み替えれば(重合させれば)…。
燃やすだけじゃない。
もっと凄いものが作れる。
例えば、板バネを超える弾力を持つ物質――『ゴム』。
そして、ゴムを強化する黒い粉――『カーボン』。
(もし、それを作れたら…馬車のタイヤも、船のパッキンも、全てが変わる!)
ルカの眼鏡の奥で、知性の光がカンテラの炎よりも熱く燃え上がった。
風を掴む術を手に入れたルカの前に、今度は「黒い錬金術」への扉が開かれようとしていた。
(第28話「風を掴むもの」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!海の民の食事は楽しいけど、ルカがカンテラの火を見て固まっちゃった。『あの黒い油、どこで手に入れたんですか?』って、カイお父さんに詰め寄ってるよ。えっ、『石油』?ただの臭い油じゃないの?ルカ曰く、あれをこねくり回すと、伸び縮みする不思議な塊が作れるんだって!」
「次回、『黒い弾力』。プニプニの革命児!」




