第26話「黒い客」
交易都市ヴィチェンツァ。
夕暮れの茜色が、石畳の広場を長く染め抜いていた。
マルチェッロ商会の馬車の前には、空っぽになった木箱が積まれている。
今回が、四回目の行商だった。
「最強の馬車」による高速輸送のおかげで、ルカたちは二日に一度のペースでこの街を訪れ、そのたびに商品を完売させていた。
「へっ、今日も完売御礼だ。ざまぁみろコルナーロ!」
ロレンツォが金貨の詰まった袋をポンと放り上げ、受け止めた。
セレニア国内で締め出されても、外で稼げばいい。
この一週間で稼いだ利益は、国内で細々と売っていた頃の月商を超えている。
「よかったね、兄さん!これならお父様も安心するよ」
「ああ。これもニーナさんの運転とルカの馬車様々だぜ。…よし、荷積みは終わったな。帰るとするか」
ロレンツォが馬車の扉に手をかけた、その時だった。
「…見事な『青』だったな」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、いつの間にか馬車のすぐ横に、一人の男が立っていた。
全身を上質な黒いローブで包み、フードを目深に被っている。顔の半分は影で見えないが、覗く口元には知的な、しかしどこか冷たい笑みが浮かんでいた。
「…!」
御者台に上がろうとしていたニーナが、音もなく地面に降り立ち、ルカたちの前にスッと割って入った。
その手は自然にスカートのドレープに添えられているが、アディには分かった。いつでも武器を抜ける体勢だ。
この男、気配がなかった。
雑踏の中にいたはずなのに、まるで「影」から湧き出てきたかのようだ。
「おや、警戒させてしまったかな。私はただの客だよ」
男は両手を広げて敵意がないことを示した。
その手は白く、剣だこ一つない。
「もう店じまいだぜ、旦那。あいにく売り切れだ」
ロレンツォがニーナの背後から声をかける。
商人の勘が告げている。
こいつはカタギじゃない。
「それは残念だ。…あの『青』。素晴らしい発色だった。東方のラピスラズリ(瑠璃)を砕いても、ああはなるまい」
男が一歩近づいた。
「不純物が一切ない、神の御業のような純粋な青。…あれは、どこで手に入れた石かね?」
ルカの心臓がドクリと跳ねた。
この男、ただの絵好きじゃない。
ラピスラズリの精製がいかに難しいか、そしてルカの青が「異常」であることを正確に見抜いている。
「…企業秘密です」
ルカは慎重に答えた。
まさか「海底のマンガン団塊から僕が合成しました」とは言えない。
それは、この時代の宗教観では「神への冒涜(錬金術)」と取られかねないからだ。
「秘密、か。…ふふ、よろしい」
男は追求しなかった。
代わりに、懐から一枚の硬貨を取り出し、ルカに弾いた。
パシッ。
ルカが受け止める。
それは金貨だった。
だが、セレニアのライオンの刻印ではない。
描かれているのは「聖杯と十字架」。南にある宗教国家の通貨だ。
「聖都…?」
ルカが呟くと、男は深くフードを被り直した。
「その青は美しい。だが、過ぎたる純粋さは時として『毒』になる。…気をつけることだ。色は、神の許しなく混ぜてはならんよ」
男はそれだけ言い残すと、夕闇の雑踏へと背を向けた。
ニーナが目で追ったが、男は次の瞬間、人混みに紛れて掻き消えるように姿を消していた。
「…何者だ?」
ロレンツォが冷や汗を拭った。
直接的な害意はなかった。
だが、背筋を撫で上げられたような悪寒が残っている。
「聖都アルカディアの…聖職者、なのかな」
ルカは手の中の金貨を見つめた。
南の宗教国家。
古い権威と秩序の守護者。
彼らが、ルカの技術に目をつけたのだとしたら――それは西のジェンティーレ、内のコルナーロよりも厄介かもしれない。
「…長居は無用ですね」
ニーナが低い声で言った。
彼女もまた、あの男に底知れぬ危険を感じ取っていた。
「急いで戻りましょう。日が暮れます」
◆◇◆◇◆
帰りの馬車。
ニーナが御する馬車は、夜の街道――ではなく、街道を避けた草原の道を疾走していた。
検問を避けるためのオフロード走行だ。
板バネとベアリングのおかげで振動はないが、車内の空気は少し重かった。
「南の聖都か…。面倒なことになりやがったな」
ロレンツォが腕組みをして唸る。
「兄さん、アルカディアってそんなに怖いの?」
アディが尋ねる。
「怖いなんてもんじゃねぇ。奴らは『異端審問』って切り札を持ってる。気に入らない技術や思想を『悪魔の仕業』だと決めつけて、潰しにかかるんだ」
ロレンツォはルカを見た。
「ルカの力は、奴らにとっちゃ格好の餌食だ。『石を金に変える』みたいな錬金術だと思われたら、俺たち全員火あぶりだぞ」
「…うん。気をつけなきゃ」
ルカは頷いた。
ジェンティーレの「武力」、コルナーロの「経済力」、そして聖都の「権威」。
敵は確実に増えている。
だが、今は立ち止まるわけにはいかない。
馬車は闇夜の荒野を駆け抜け、深夜、無事にセレニアへと帰還した。
◆◇◆◇◆
日付が変わる頃、マルチェッロ家の屋敷に馬車が到着した。
ルカたちは長旅の疲れを引きずりながら、屋敷の中へと入った。
「ただいまー…」
深夜だというのに、中には灯りがついていた。
古参メイドのマリアが、足早に出迎えにやってくる。
「おかえりなさいませ、若旦那様」
「ただいま、マリアさん。遅くなってごめんね。…あれ?なんかいい匂いがする」
ルカは鼻をひくつかせた。
夜食だろうか。
食堂の方から、温かいスープの香りが漂ってくる。
「はい。皆様がお戻りになる頃かと思いまして、温かいお食事を用意しておりました」
マリアが微笑む。
その背後、食堂の扉が開いた。
「おや、帰ったか!遅かったな!」
ジョヴァンニが上機嫌で顔を出した。
その手にはワイングラスが握られている。
そして、彼の後ろを甲斐甲斐しく動き回る人影があった。
一人ではない。
数人の女性たちが、テーブルに料理を運んだり、食器を並べたりしている。
全員が、ニーナと同じ上質なメイド服を身に纏っていた。
「…え?」
ルカとロレンツォが目を丸くする。
その中の一人、銀色がかった黒髪をシニヨンにまとめた長身の女性が、ルカたちに気づいて手を止めた。
彼女はマリアに目配せをし、許可を得てからルカたちの前に進み出て、深く一礼した。
「初めまして、ルカ様。…カイ様より派遣されて参りました、ヴァレリアと申します」
凛とした声だった。
彼女の後ろには、さらに四人のメイドたちが控えている。
「ヴァレリア!エリシア!みんな!!」
アディが歓声を上げて駆け寄った。
ヴァレリアは表情を崩さず、しかし微かに目を細めてアディを受け止めた。
「お久しぶりでございます、お嬢様。…カイ様よりの手紙と『お届け物』、確かにジョヴァンニ様にお渡しいたしました」
「うむ!カイ殿からの贈り物とは、この頼もしい使用人たちのことだったのだ!」
ジョヴァンニが満足げに頷く。
「昼過ぎに到着してな。すぐにマリアと打ち合わせをして、部屋割りも仕事の分担も決まったところだ。…いやぁ、マリア一人では屋敷が広すぎて大変だったが、これからはピカピカになるぞ!」
どうやら、ルカたちがいない間にすっかり話はつき、彼女たちは「マルチェッロ家のメイド」として組み込まれたらしい。
ヴァレリアの横で、マリアも安心したような顔をしている。
「皆様とても働き者で、助かります。力仕事も、お料理も、私よりずっと手際が良くて…」
マリアの言葉に、エリシアと呼ばれたメイドが、お盆を持ってはにかんだ。
「いえ、マリアさんのご指導のおかげです」
ルカは呆気にとられながらも、ようやく状況を理解した。
アディが手紙を出してから約一週間。
約束通り、「海の民」に依頼した護衛が到着したのだ。それも、最も平和で、最も確実な方法で。
「…お話は伺っております」
ヴァレリアがルカに顔を向け、声を潜めた。
「我々の本分は、この屋敷と皆様をお守りすること。…どうぞ、ご安心ください」
その瞳には、家政婦としての謙虚さと、戦士としての鋭い光が同居していた。
(第26話「黒い客」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!お父さんが送ってくれたのは、5人のメイドさんたち!リーダーのヴァレリアさんに、料理上手なエリシアさん…みんな私が小さい頃から知ってるお姉さんたちだ!えっ、全員ウチで住み込み?マリアさんとニーナさんと合わせて…家の中がすごいことになりそう!」
「次回、『メイドたち』。華麗なるお掃除、開始!」




