第23話「反撃の狼煙」
払暁。
東の空がわずかに白み始めた頃、港にほど近い静かな住宅街の一角に、アディの姿があった。
彼女はフードを目深に被り、周囲を警戒しながらある一軒の家へと近づく。
ルカにも内緒の行動だ。
「…お嬢様、どうされました?」
背後から、鈴を転がすような涼やかな声がした。
アディは心臓が飛び出るほど驚いたが、声が出るのは必死にこらえた。
気配など微塵もなかったのだ。
ゆっくりと振り返ると、そこには朝霧の中に溶け込むような、一人の女性が立っていた。
この煤けた職人街には不釣り合いなほど上質な、メイド服を着こなした金髪の美女。
「…ニーナ!なんでここに!?」
アディが小声で叫ぶ。
彼女は「海の民」に仕えるメイドの一員、ニーナだ。
「ザルツラントでの情報収集任務を終え、こちらで迎えの船を待っておりました」
ニーナは表情一つ変えずに答えた。
鳶色の瞳は、静かな湖面のように澄んでいる。
「そっか、帰りの船待ちだったんだ…。ちょうどよかった!ニーナ、お願い!隠れ家に連れてって!」
「隠れ家には近づかないよう、カイ様から厳命されておりますが…」
「緊急事態なの!」
ニーナの言葉に被せるように、アディが懇願した。
「お父さんに、伝書鷹で至急お願いしたいことがあるの!ルカと、みんなを守るために…お願い!」
アディの必死な瞳を見て、ニーナは一つ瞬きをし、小さく溜息をついた。
「…わかりました。では、こちらに」
二人は霧の中へと消えていった。
◆◇◆◇◆
数時間後。
マルチェッロ家の玄関ホールで、ルカは落ち着きなく歩き回っていた。
「遅いな…」
アディがいないことに気づいてから、もう一時間以上が経っている。
置手紙には『ちょっと用事があるから探さないで』とあったが、昨日の襲撃があったばかりだ。
じっとしていられるはずがない。
物音がするたびに玄関へ走り、誰もいないことを確認しては肩を落とす。
カラン、カラン。
玄関のベルが鳴った。
ルカは弾かれたようにドアを開けた。
「アディ!」
「ルカ!ただいま!」
朝の光の中に、元気なアディの笑顔があった。
ルカは全身の力が抜けるほど安堵した。
「おかえり!心配したよ、本当に…」
言いかけて、ルカは言葉を飲み込んだ。
アディの斜め後ろに、信じられないほどの美貌を持つ女性が控えていたからだ。
金髪のストレートロング、白磁のような肌。
完璧に着こなされたメイド服。
そして足元には、人が入れそうなほど大きなトランクケース。
「…アディ?そちらの方は?」
「うん!あたしの実家でメイドをしてるニーナ!今度からここで働いてもらうことになったから!」
アディはあっけらかんと言った。
「マリアさんに紹介してもいい?」
「あ、うん、大丈夫だけど…」
ルカが戸惑っている間に、アディは奥から出てきた古参メイドのマリアを見つけ、手を振った。
「あ!マリアさーん!新しい後輩を連れてきました!なんでもできるから使ってください!」
「は、はい?」
状況が飲み込めないマリアとルカを他所に、ニーナは優雅に一礼した。
「ニーナと申します。以後、お見知り置きを」
◆◇◆◇◆
その後、食堂にジョヴァンニ、イザベッラ、ロレンツォも含めた全員が集められた。
アディの説明はこうだ。
「お父さんに、今回のことと護衛をお願いする手紙を出しました。返事は一週間くらいで来ると思う」
「一週間か…。まあ、鷹を使えばそんなもんか」
ロレンツォが頷く。
「で、その返事が来るまでの間、たまたまセレニアに滞在していたニーナが護衛をしてくれることになったの!」
アディは胸を張ってニーナを紹介した。
「ニーナはすっごく強いんだよ!私が小さい頃からお世話になってるんだけど、お掃除も戦闘も完璧なんだから!」
「へぇ…見た目は華奢なお嬢さんだがな」
ジョヴァンニが感心したようにニーナを見る。
ニーナは表情を崩さず、淡々と口を開いた。
「…ご報告があります」
その声のトーンに、場の空気が引き締まった。
「今朝方、この屋敷を監視していた者が5名おりました」
「なっ!?」
「4名は無力化しました。当分起きないでしょうから、巡回の衛兵が処理してくれるはずです」
ニーナは事も無げに言った。
「残りの1名は、雇い主へのメッセンジャーとして五体満足で返しました。『二度と手を出すな』と伝言を持たせて」
「…いつの間に」
ロレンツォが戦慄した。
早朝、誰も気づかない間に、プロの監視役を5人も始末したというのか。
「アディ様。今後、外出の際は必ず私を同行させてください」
「うん」
ルカはニーナに一礼した。
「ありがとうございます、ニーナさん。…心強いです」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
ニーナは短く答えたが、その瞳の奥には微かな忠誠の色が見えた。
「さて、守りは固まった」
ロレンツォがパンと手を叩いた。
「次は『攻め』…いや、『逃げ』の準備だ。ルカ、例の馬車を作るんだろ?」
「うん!ビアージョさんの工房へ行って、必要な部品を作ってもらわなきゃ」
「よし。馬車の手配を…」
「私の馬車をお使いください」
ニーナが提案した。
彼女が用意したのは、外見は地味だが頑丈そうな馬車だった。
御者台にはニーナ自身が座り、手綱を握る。
「では、ビアージョ様の工房へ」
馬車は滑らかに走り出した。
御者の腕がいいのか、それともニーナが放つ「殺気」が道を空けさせているのか、職人街の雑踏もスムーズに進む。
途中、路地裏から怪しげな男たちが視線を送ってきたが、ニーナがチラリと冷ややかな視線を返しただけで、彼らは青ざめて姿を消した。
「すごい…。ニーナさんがいるだけで、誰も寄ってこないよ」
「頼もしいね!」
工房に到着すると、ビアージョが不機嫌そうにハンマーを磨いていた。
「遅ぇぞ小僧!いつまで待たせる気だ!」
「すみません!…マエストロ、新しい仕事です!」
ルカは作業台に設計図を広げた。
「敵をぶっちぎる『最強の馬車』を作ります。まずは…この『ベアリング』という部品から!」
ルカが指差したのは、ドーナツ状の金属の間に、小さな鉄球が挟まった奇妙な図面だった。
摩擦を極限まで減らす回転機構。
これを純鉄と炭化タングステンで作れば、車輪は永久に回り続ける。
「へっ、また面白ぇもんを考えやがって!だが、揺れはどうする?石畳の上じゃ、車輪が回ってもケツが砕けちまうぞ」
ビアージョの指摘に、ルカは自信満々に答えた。
「大丈夫です。純鉄の粘り強さを活かした『板バネ』を使います。何枚もの鉄板を重ねてアーチ状にすることで、路面の衝撃を吸収するんです!」
「板のバネだと…? なるほど、鉄のしなりを利用するのか!」
ビアージョが獰猛に笑った。
工房の隅では、ニーナが紅茶を淹れながら、静かに周囲を警戒している。
反撃の狼煙は上がった。
(第23話「反撃の狼煙」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「ニーナさんが来てくれて一安心!でも、ニーナさんが淹れてくれる紅茶、美味しすぎて仕事にならないよ…。いやいや、集中しなきゃ!馬車の要は『回転』と『衝撃吸収』だ。ベアリングはビアージョさんに任せて、僕はガタガタ揺れる衝撃を消す『板バネ』を作る!鉄を重ねて、衝撃をいなす…これぞ構造力学の真骨頂!」
「次回、『板バネと車輪』。揺れない馬車は、魔法の乗り心地!」




