9.こんなはずじゃなかった(エドガー)
リーゼ・アンドル子爵令嬢は、澄んだ空のように青い瞳と青い髪の可愛らしいお人形さんのような女の子だ。
俺が初めてリーゼと会ったのは、侯爵令嬢の主催する子供たちだけのお茶会だった。リーゼは侯爵令嬢の自尊心を満たすために呼ばれていた。
涙目で帰ろうとするリーゼは可憐で庇護欲をそそられた。俺は騎士になった気分でリーゼをフォローした。それからもお茶会で会うたびにリーゼを守った。硬い表情が俺を見た瞬間にふわりと柔らかくなる瞬間、胸が満たされた。
リーゼは俺に懐いていた。それは学園に入学してからも続いたが、三年生になるとそれを少しだけ煩わしく思うようになった。
俺にはクラスに好きな女の子がいた。それはナタリー・マルタン男爵令嬢。彼女は美人でどこか大人びていた。すでに己の進む人生を決めていたからかもしれない。ナタリーは女優になるという目標にひた向きで、そんなところも魅力的だった。
当然ながら彼女に思いを寄せる男は多かった。でもナタリーは芝居の稽古に夢中で恋人を作る気はなく、誰に告白されようと断っていた。俺も告白したが玉砕した。
失恋で落ち込んでも、隣を見ればリーゼがいる。無邪気な笑顔が俺の心の傷を癒してくれたおかげで早く立ち直れた。
学園を卒業し文官として働き始めると、リーゼとの関わりがなくなり会うことがなくなった。それを寂しいと感じリーゼを思い出すことが多くなった。俺にとってリーゼは妹のようで守るべき存在だと思っていたが、それ以上の気持ちが芽生え始めた。俺はリーゼに会いに行く口実を探していた。そんなある日、俺は上司に書類を突き返された。
「あまりにも字が汚い。やり直せ」
「……はい」
普段は気を付けてギリギリまともな字を書いているが、疲れていると悪筆になってしまう。
「エドガー。金があるなら代筆屋を頼んだらどうだ?」
「代筆屋?」
同期に相談したら、意外と利用している人間が多いと知った。査定にかかわるレポートは代筆屋に頼んでいるらしい。
「エドガーの幼馴染が代筆屋をしているそうじゃないか。えっと、アンドル子爵令嬢だったか?」
「リーゼが?」
リーゼが仕事をしていたのは知らなかった。きっとアンドル子爵家は貧しいから、家を助けるために結婚を諦めて働いているのに違いない。自分で代筆屋を開業したとなると苦労しただろう。相談してくれたら力になったのに……。そうだ。仕事を頼もう。客は一人でも多いほうがいいはずだ。頑張っているリーゼにお祝いも伝えたい。
俺は仕事の休みの日に、花を持ってリーゼに会いに行った。
「リーゼ、久しぶりだな。元気だったか?」
「エドガー! ええ、久しぶりね。元気よ、エドガーは?」
「俺も忙しいけど、まあなんとか」
久しぶりに見たリーゼは変わっていない。いや、眩しいほど綺麗になっていた。清純な水のようにきらきらと輝いて見える。見惚れていることを気取られないように注意しながら、代筆の仕事を依頼したいと相談した。リーゼは二つ返事で引き受けてくれた。
「お客様になってくれるの? 私に依頼するのは高いわよ?」
「そこは親友割引でお願いします」
冗談のつもりだったが、料金表を見て焦った。もっと安いと思い込んでいたのに想像以上に高くて言葉が出ない。この料金で仕事の依頼が来るのか? 相場を調べてからくるべきだった。
毎月出すには厳しい金額だ。すでに実家を出て貴族籍も抜けている。四男の俺は少ない金を両親から与えられただけで貯金もない。今の目標はしっかりと仕事をこなしてレポートを出す。そして来年昇級試験を受けて、生活を安定させたいと思っていた。リーゼは親友価格だと料金を半額にしてくれた。ありがたい。せめて同僚に宣伝して報いたいと思う。
リーゼの清書してくれたレポートは絶賛された。ただ綺麗に書くだけでなく内容も精査してくれていたのだ。そういえばリーゼは頭が良く成績は上位にいたことを思い出した。
俺はふと思った。もしもリーゼと結婚したら? 可愛くて、手に職を持ち、優しい女性。幸せな未来が容易に想像できた。長い付き合いで気心も知れている。俺たちならきっといい夫婦になれると確信した。
俺はすぐに行動した。頻繁にデートに誘い贈り物もした。リーゼの気を惹きたくて一生懸命だった。リーゼは貴族令嬢だけどいずれは平民になると言っていた。平民同士ならお互いの意志さえあれば結婚できる。
俺は少ない給料から貯金をはじめた。いわゆる結婚資金だ。プロポーズをするなら指輪が必要になる。立派なものは買えないかもしれないが、リーゼに似合うものを用意したい。
ここまでは順調だったのに、ある出会いが運命を変えた――。
リーゼはアズールという画家がお気に入りで、何度も個展に足を運んでいる。俺は絵の良さを理解できないが、リーゼの幸せそうに絵を眺める顔が見たくて一緒に行くことにした。個展会場に向かう途中でナタリーに声をかけられた。
一年ぶりに見るナタリーは美しさに磨きがかかり、さらに色気を放ち魅惑的だった。心を鷲掴みにされたような感覚に、諦めた恋が再び目を覚ました。俺はナタリーとの話に夢中で、リーゼが一緒にいることを忘れていた。俺は誤魔化すように二人をそれぞれに紹介した。
「あ……えっと、リーゼ。彼女はナタリー。ナタリー、彼女はリーゼ……リーゼさんだ」
「……」
ナタリーと付き合えるかもしれない。咄嗟にリーゼを『さん』付けで呼び、『ただの友人』と言ってしまった。その瞬間、リーゼの表情から感情が消えた。嫌な予感がしたが、リーゼなら後で謝ればきっと許してくれると思った。それよりもナタリーのことで頭がいっぱいだった。
「エドガーさん。さようなら」
「さようなら」の言葉にリーゼが怒っていると顔が引き攣ったが、ナタリーに誘われたことに有頂天になっていたのであまり気にしなかった。
それからナタリーとは何度か食事に出かけた。隣国の大きな劇団のオーディションは落ちて、小さな劇団で端役をもらい頑張ったが結果が出ない。
「ナタリーならきっと主役を手に入れられるよ。諦めないで頑張れよ。俺、ずっと応援するから」
ナタリーには人を引き付けて夢中にさせる何かがあると思う。俺の心を笑顔だけで虜にしたのだから。
「ありがとう。嬉しいわ。それならエドガーにお願いがあるの」
「何だい?」
「お金を貸してほしいの。お金があれば主役をもらえそうなの。これはチャンスなのよ」
「え……」
「ねえ。いいでしょう? 文官なら稼ぎはあるはずだし、実家は伯爵家だもの。お願い」
まさかお金を無心されるとは思わなかった。働き始めて一年程度の文官の稼ぎなどたかが知れている。それにナタリーに貢ぐために実家に金を借りに行くつもりはない。
「悪いけどそれは無理だ。文官といっても下っ端だし、実家には無心しないと約束している。お金は用意できない」
ナタリーはあからさまに失望の表情になった。
「嘘でしょう? 期待していたのに」
「いや、本当に無理だ」
「それならどこかから借りてきて。エドガーなら身元がしっかりしているから借りられるはずよ」
自分のために借金しろと? 俺は信じられない気持ちでナタリーを見た。さっきまではキラキラしていたナタリーの瞳が急に濁っているように感じた。目の前の女は俺の好きだったナタリーではなくなっていた。そしてようやく理解した。
ナタリーが俺に近づいた目的はこれだったのだ。熱病のようなナタリーへの思いが一瞬で霧散した。俺は女に金を貢いで破産をするなんてまっぴらだ。
「悪いけど他を当たってくれ」
「そう……。がっかりだわ。あなたに声をかけなければよかった。時間を無駄にした。じゃあね」
ナタリーは侮蔑を浮かべ店から出ていった。あんな女だったのか……。ナタリーへの失望もあるが、自分の見る目のなさに情けなくなった。
俺は嫌なことを忘れたくて仕事に没頭した。仕事自体は評価されている。だけど……。
「エドガー、このレポートはやり直しだ。読めたもんじゃない」
「はい……」
ナタリーと再会した日以来、リーゼとは会っていない。どうにも合わせる顔がなかった。だから代筆も頼めていなかった。
リーゼはどうしているだろう? 会いたい。俺にはやっぱりリーゼしかいない。俺たちは親友だし、できればその関係をもっと深いものに進めたい。そうするつもりだったじゃないか。ナタリーと再会さえしなければ、今頃リーゼと恋人になれていたはずだった。道を間違えたがやり直せばいい。リーゼならきっと許してくれる。
俺は貯めたお金を持って指輪を買いに行った。リーゼの瞳の色に近いブルートパーズ。小さな石だけどきっと喜んでくれる。
指輪の入ったケースをポケットに忍ばせリーゼの屋敷を訪ねた。リーゼは笑顔で迎え入れてくれた。ホッとしたのも束の間、口調が他人行儀で嫌な予感がした。リーゼはまだ怒っている。謝ったがリーゼの態度は変わらない。
「私たちはただの友だちですよね? それなのに呼び捨てにするのはおかしいです。それと今後エドガーさんの代筆の料金は、他のお客様と同じにすることにしましたのでよろしくお願いします」
思わず舌打ちをした。ただの友だちを強調するのは俺への当てつけか? 謝ったのに代筆の料金を上げるなんて最低じゃないか。
「はっ? 急に冷たいじゃないか。俺たち親友だろう?」
リーゼはそれをきっぱりと否定した。そして引越をするという。
アンドル子爵家はまだ借金を抱えていて……まさかリーゼが身売りを? それなら実家の伯爵家に頭を下げてでもお金を工面してリーゼを助け出す。
「そうじゃありません。私、結婚することになったのです」
「け、結婚? 馬鹿な……嘘だろう? 随分急じゃないか。騙されていないか? 相手は誰なんだ?」
やはり結婚という建前の身売りだ! 純粋無垢なリーゼを誰かが騙して俺から搔っ攫おうとしている。リーゼを俺が守ってやらないと。
「ご心配ありがとうございます。ですが大丈夫です。結婚する人は隣国のルサージュ伯爵様で、こちらで事業をしているのです。優しくてとてもいい人で……私のことが大好きなのです。ああ、そうだわ。私のことは今後呼び捨てにしないでくださいね。彼に誤解されたくないですし、よけいな心配をかけたくないので」
「…………」
ルサージュ伯爵? その男なら王宮で見たことがある。文官たちの中でも噂になっている奴だ。陛下に謁見し歓待を受けていた。すごく綺麗な男で女性の使用人がキャーキャー言っていた。見た目もよく仕事もできて実家は隣国の公爵家で……。
ふとリーゼの指を見たら大きく上品な美しいサファイヤのついた指輪をしていた。
宝石の知識がない俺でも、ポケットの中にある指輪のブルートパーズがただの石に見えてしまうほど素晴らしいものだとわかる。
屈託のない笑みを浮かべたリーゼが首を傾げて言った。
「私の結婚を祝ってくれないのですか?」
それは俺にとって絶縁宣言に聞こえた。掠れる声で絞り出すように祝いの言葉を口にする。
「…………おめでとう」
「ありがとうございます。それで代筆はどうしますか?」
「いや……今日はやめておくよ」
「そうですか」
俺はどうやって官舎に帰ったのか覚えていない。ポケットから指輪の入ったケースを取り出すと壁に向かって投げつけた。ケースはコツンと壁に当たると床に落ちた。
行き場のないむなしさと怒りを呑み込むと、俺はベッドに腰かけ髪を搔きむしった。リーゼは俺のものじゃなくなった。どうして? ナタリーに惑わされたから?
今後はリーゼに代筆の仕事は頼めない。それは結婚するから遠慮するわけではない。正規の料金ではとても払えないからだ。リーゼの代筆屋の評判を同僚に聞いたが、すこぶる人気で料金を上乗せしてでも依頼する人が多いそうだ。丁寧で正確、そして早い。たぶん俺より稼いでいる。それを知ったとき「よかったな」と思うよりも「悔しい」と思った。俺はいつのまにかリーゼを下に見て侮っていたのかもしれない。
仕事を依頼できないのなら、会う理由もなくなる。俺が自分で言ってしまった「ただの友人」その言葉が邪魔をする。しかも男と女であれば、良識を弁え誤解されないように必要以上に接触しないのが普通だ。
それに俺は平民でリーゼは伯爵夫人になる。身分という隔たりが二人の間に存在する。俺から声をかけることすら許されなくなったのだ。
「もう……リーゼと会えなくなる。話すことすら……こんなはずじゃなかった……」
胸の中に大きな穴がぽっかりと開いた。ナタリーに振られた時にはなかった大きな穴が。俺にとってリーゼはそれほど大きな存在だった。俺に残ったのは後悔だけだった。
目の奥が熱い。知らず涙が零れ嗚咽を漏らした。
しばらくしてナタリーがある劇の主役の座を手に入れたと聞いた。その劇は流行ることなく打ち切られたそうだ。
お読みくださりありがとうございました!