5.再会
エドガーが『ただの友人』だとわかってから一週間が経った。あの日から私は毎日アズールさんの個展に来ている。今日はその個展の最終日。たまたま人がいなくて貸し切り状態。私は運がいい。ゆっくり見ることができる。
エドガーの誤解を招く態度は許せないけれど、でもナタリーと幸せになってほしいと願えるくらいには吹っ切れている。私にとってもエドガーはただの友人になったということだろう。
心が穏やかになれたのはひとえにアズールさんの絵が私を癒してくれたおかげだ。絵を買えたらいいのだが、アズールさんの絵は国内外で人気なので値段が高い。貯金をしているが私の稼ぎでは到底手が出ない。せめて目に焼き付けようとじっくりと絵を堪能する。家族には毎日同じ絵を見て飽きないのかと言われたが、私がアズールさんの絵に飽きることは絶対にない。永遠に眺めていられる。何度見ても吸い込まれそうな美しさで溜息が出る。
しばらく次の個展の予定はないから見納めだと思うと名残惜しい。これが最後の一枚……と思ったら奥にもう一枚大きな絵があることに気づいた。
「もしかして最終日に新作を?」
昨日はなかった絵がそこにある。澄んだ青空に小さな鳥が羽ばたいている。小さな鳥の体は空よりも濃い青色で大きく羽根を広げていた。その姿は自由で、気持ちよさそう。ふいに胸がぎゅっと締め付けられた。
(どうしてこんな気持ちになるの?)
どうしようもないほど懐かしい気持ちになった。この空を見たことがある。そんなはずないのに、そう思った。
どれだけそこに立ち止まっていたのだろう。しばらくすると横から大きな手が私の目の前ににゅっと差し出された。その上にはハンカチがある。
「どうぞ」
声をかけてくれたのは長身で綺麗な顔をした男性だった。金髪を肩のところで束ねている。私は彼の背中に羽が生えている気がして、視線を彼の背中に向けてしまった。そう、あまりの美しさに天使様かと思ったのだ。天使様が私を慰めるために、キャンバスの青空から舞い降りてきてくれた。一瞬、本気でそう思った。
「大丈夫ですか?」
彼は私を心配そうに窺った。はっと我に返りお礼を言ってハンカチを借りることにした。ハンカチはいい匂いがした。そっと目尻りと頬を拭う。
「ありがとうございます。大丈夫です。ただ……この絵に感動して……」
「ありがとう。そう言ってもらえるとこの絵を描いたかいがあります」
「え……?」
まさか、まさか。この人が大好きな青空を描くアズールさん、その人なの?!
「あなたは何度も足を運んでくれましたね。ありがとうございます」
私のことを知ってくれていた!
「あ、え、いえ、あの。アズールさんの絵が大好きなのです。いつも元気や勇気をもらっていて、こちらこそありがとうございます」
興奮のあまり涙は完全に止まった。
「もしよかったらお茶をどうですか? といっても奥の事務所なのでたいしたおもてなしはできませんが」
「はい! おじゃまします!」
普通の淑女ならここは遠慮するだろう。そして初対面の男性に誘われたのなら警戒して断るべきだ。でもアズールさんの雰囲気は柔らかく、そしてどこか懐かしさを感じた。私はもっとアズールさんと話をしたいという欲求を抑えることができなかった。
「リーゼさん。どうぞ、こちらへ」
「? はい」
あれ? 私名乗ったかしら。首をかしげながら事務所に入っていくと大きなソファーに座るように促された。
事務所と聞いて乱雑な部屋をイメージしていたが、すっきりと片づけられていた。中にいた年配の女性がお茶の準備をしてくれている。アズールさんと私が座るとほどなく女性がお茶とお菓子をニコニコと出してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性は下がると部屋の隅にある椅子に腰かけた。同席してくれるようだ。さすがに自分でも勢い余ってよく知らない男性とふたりきりになるのは無謀すぎたと、じわじわと反省していたのでその女性の存在で安心できた。
私が肩の力を抜いたのがわかったのか、女性がくすくすとアズールさんをからかった。
「坊ちゃん。警戒されていますよ? 急にお誘いしたのは失敗でしたね」
「エマ。確かに焦っていたのは認めるが、坊ちゃんはやめてくれ」
「はい、はい。アンリ様」
アンリ様? ああ、なるほど。アズールさんというのは画家として活動するときの名前で、アンリさんというのが本名なのだろう。麗しい見た目と優雅な雰囲気のアズールさんは、画家というよりも王子様っぽい。高位貴族のご子息というほうがしっくりくる。
アズールさんは私を見て目を細めると、懐かしそうな表情を浮かべ砕けた口調になった。
「リーゼちゃん。久しぶりだね。私のことは思い出せないかい?」
「へっ?」
私は目を丸くした。「リーゼちゃん」?! 何が何だかわからない。
「私の名前はアンリ。昔サナトリウムで一緒に遊んだのだけど、覚えていないかな?」
「アンリちゃん? 覚えているわ!」
アンリちゃんのことはしっかりと覚えている。サナトリウムで一番仲が良かった女の子……じゃなくて男の子。可愛すぎて途中まで女の子だと勘違いをしていたことは誰にも言っていない。アンリちゃんは隣国から静養に来ていて、私より一か月前に退院していた。
そのアンリちゃんと目の前のアズールさんは一致しない。アズールさんは麗しい天使のようで、アンリちゃんはほわほわした愛らしい天使のようで……天使? あっ、一致した! どちらも天使だった。
「本当にアンリちゃん? アンリちゃんなの?」
「思い出した?」
「忘れたことはなかったわ。だけどもう会うことはないと思っていたし、連絡先も知らないし……でも、アンリちゃんと会えて嬉しい」
改めてアズールさんを見ると目元とか口の形とかアンリちゃんの面影がある。
「私も嬉しいよ。ところで質問があるのだけど、いい?」
「急ね? どうぞ」
「リーゼちゃんは今好きな人がいる?」
「ええ? どうしてそんなことを聞くの?」
「知りたいんだ」
真剣な目……。不思議と話をはぐらかそうとは思わなかった。それにもう終わった恋だ。私は肩を竦めるとお道化るように言った。
「最近、告白する前に失恋したわ」
アンリちゃんは笑みを浮かべた。私の失恋を喜ぶなんて冷たい……。
「そうか。奇遇だね。実は私も失恋したばかりなんだ。たった今」
「たった今?」
「そう。子供の頃からずっと好きだった女の子が失恋したそうだ。それは好きな男がいたということだろう? だから私も告白する前に失恋だ。でも考え方を変えればチャンスかな? リーゼちゃんは私の絵を好きでいてくれているし、頑張れば振り向いてもらえるかもしれない」
「え……アンリちゃん。意味が……」
アズールさんことアンリちゃんが居住まいをただすとキリリとした表情になった。そして私の目をまっすぐに見つめて口を開いた。
「リーゼさん。私は子供の頃、サナトリウムで会った時からあなたが好きだ。空の絵はあなたを想って描いていた。昔約束したことを覚えている? 大人になったら一緒にたくさんの空を眺めようって言ったのを。あれは僕なりのプロポーズだったのだけど……」
アンリちゃんが照れ笑いをしている。あの約束は覚えている。だけど私は元気になったら青空の下で一緒に遊ぼうという意味だと受け取っていた。
「あれがプロポーズ? え……子供にそんな深い意味を込められても伝わらないと思う」
現に伝わっていなかった。遠まわしすぎる。そこは「結婚しよう」って言ってほしかった。そうしたら素敵な思い出になっていたのに。でも子供のアンリちゃんは天使すぎて結婚相手とは思えなかったかしれない。
今は……胸がドキドキ高鳴っている。節操がないと思うかもしれないけれど、素敵な男性に告白されたらときめくのは仕方がないと思う。
「じゃあ改めて結婚を申し込みたい。リーゼさん、どうか私を好きになって。そして結婚してほしい」
「け、結婚?!」
アンリちゃんと再会したらすぐにプロポーズをされた! 先週失恋したばかりなのに? 私の人生、目まぐるしいぞ!




