2.私の事情
さっきは自分の存在を切り捨てられたかのように感じる惨めな気持ちと怒りがあった。でも逆にあそこまで露骨な態度だと未練も残らないのでありがたい。失望の威力は半端ない。あっという間に恋が冷めた。そう、悲しみに浸ることもないまま完全に冷めたのだ。
子供の頃からずっと彼を好きだったのに、こんなに簡単に終わってしまうなんて呆気なくて自分でも驚いている。
私は青空を眺めながら個展会場へ向かった。澄んだ空が嫌なことを吹き飛ばしてくれる。個展で絵を見たらもっとすっきりするだろう。あんなことがあったくらいで大好きな絵を見にいかない理由にはならない。
私にとってアズールさんの絵は特別だった。彼の絵と出会ったのは十二歳の時だ。王宮の行事でお城に行ったときに通路に飾られていて一目惚れをした。とても綺麗な青空の絵だった。
それから数年後に、街の文具屋さんに買い物に行ったらそのお店にも飾られていて、その絵にも一目惚れをした。嫌なことがあったあとだったのだけれど、絵を見たら嫌なことがどうでもよくなった。そう、私の心を救ってくれたのだ。
その画家さんの素性は公にされていないが、初期の頃から人気がある。王宮に飾られていたことを思えば頷ける。私と同じように彼の絵に心を救われた人がいるのだろう。
アズールさんは空の絵をたくさん描いている。時々風景画も描いているが少ない。人物画は見たことがなかった。
私が好きなのは空の絵。景色はともかく空の絵なんて限られていると思うだろう。でも違う。青空の絵がたくさんあって、全部違う青空なのだ。そういえば曇天や雨の空の絵はなく青空だけだ。きっとこだわりがあるのだろう。
お気に入りの中には太陽の光と鮮やかな青色がグラデーションになっている青空や白い雲が躍っている青空の絵もある。同じ空は存在しないとばかりに色々な空を描いてくれる。彼の絵は明るく希望や幸せを感じさせてくれる。その青空の絵に私はずっと救われ癒されてきたのだ。
個展会場につくと受付を済ませ、案内にそって一枚ずつ絵をじっくりと眺めていく。アズールさんの絵を見ているとさっきの不快な出来事が消えていく。最後の空の絵は特に私を惹き付けた。まるでスポットライトを放つような眩しい光が描かれた青空。
私が空の絵にこだわるのは子供の時に空ばかり見て過ごしたからだ。
小さい頃、私は体が弱く三年ほど地方のサナトリウムで過ごしていた。胸が苦しくなる病気を持っていた。でもその病気は適切な治療をすれば子供のうちに完治する。お金はかかるが両親は私の命には代えられないと入院させてくれた。両親は仕事を増やし休みなく働いて、忙しいのに面会にも来てくれた。両親だけじゃない。姉にもたくさん迷惑をかけてたくさんの我慢を強いたはずだ。でも姉は「リーゼが早く元気になって帰ってくるのを楽しみにしている」とそれだけを言った。大人になってからもその頃のことを家族から責められたことは一度もない。私は家族に愛されていることを疑ったことはないし、家族を愛している。
我が家は貴族であっても子爵と家格は低い。さらに経済的にも苦しいほうだ。それは私の入院費の借金のせいだった。家は姉が継ぐので、私はいずれ貴族籍から出て平民として生きていくつもりでいる。そのために私は家族の反対を押し切って仕事をはじめた。説得は大変だったが、一人暮らしをせず家にいることと、仕事場も家にすることで許してもらえた。過保護だなあと思うけれどありがたい。いきなり独り立ちをするのは難しいと思っていたのだ。
私の入院費にかかった借金は、三年前に返済が終わり姉はお付き合いをしていた男性と結婚した。義兄となった男性は伯爵家の次男で誠実で優しい人だ。彼は借金を肩代わりするから早く結婚しようと姉を説得していたらしい。でも姉はお金のことで夫となる人に借りを作りたくなかったそうだ。姉は真面目でしっかり者、そしてその姉の思いを汲んでくれた義兄も優しい人だ。私のことも実の妹のように大切にしてくれている。私は二人の結婚を心から喜び祝福した。私は姉に誰よりも幸せになってほしいと思っている。
姉の結婚式の翌日、両親は「次はリーゼの番ね。もっと働いて持参金を用意するから待っていてね」と言った。私の幸せを願い貴族に嫁がせるつもりなのだ。持参金がないと、いい嫁ぎ先は望めない。両親のその気持ちは嬉しいが、申し訳なさ過ぎて胸が苦しくなった。
私は貴族であることにこだわっていない。平民として生きていくことに抵抗はない。そう言うと両親は悲しそうな顔をした。貴族の娘が貴族の家に嫁げないことは、世間的にはみっともないという考え方が根強い。それでも最近は貴族女性であっても働くことを選ぶ人が増えてきた。王妃様が女性の社会進出を推進してくれているおかげだ。職種は文官や教師などと限られているが、きっとこれから広がっていくだろう。
それでも世間体がある。私が働くことで家族に肩身の狭い思いをさせるのは本意ではなく申し訳ないが、それ以上に両親にお金の負担をかけたくなかった。両親はお金の心配はしなくていいと言ったが、私は自分の力でお金を稼いで生きていくことが自分の幸せだと説得し、どうにか納得してもらった。
「まあ、最近は自立する女性も増えているようだし、リーゼがしたいようにしなさい。お父様とお母様はあなたの味方よ」
「ありがとうございます」
両親は眉を下げたまま言った。しぶしぶ感はあるが納得してもらえた。
私が代筆屋をすることに決めたのはたまたまだった。学園で担任の先生が手を怪我したときに、配布物の代筆を頼まれた。
「リーゼさんの字はとても綺麗で読みやすいわ。代筆屋さんになったらきっと大人気になるわね」
「代筆屋さん、ですか?」
私はこのときはじめて代筆屋という仕事を知った。それから調べてできそうだと思ったので先生に相談した。先生は私の家の事情を知っていたので力になってくれた。
開業にあたりもう一人、大きな助けとなってくれた存在がある。私の行きつけの文具屋さんのご主人ブロワさん。アズールさんの絵を飾っている文具屋さんのご主人で、私はアズールさんの絵が人生をいい方向へと導いてくれている気がした。
アズールさんの絵を見たくなると文具屋さんに足を運んでいたので(もちろん買い物もしている)ブロワさんと仲良くなっていた。
私は仕事を受けたときに使用する紙やペン・インクなどを揃えたくてブロワさんに相談した。そうしたらある提案をしてくれたのだ。
文具屋さんが私の代筆屋の仕事受付の窓口になってくれるという。確かに怪しいお客さんを私が見極めることは難しい。女の子だと侮られることも、料金を踏み倒されることもあるかもしれない。
この文具屋さんは隣国の貴族様が出しているお店で、きちんと王宮での審査を受けて出店している。そのお店のご主人が私の後ろ盾となってくれるのはとても心強い。ブロワさんの申し出がなければ、正直なところ両親を説得できなかっただろう。
私は幸運にもたくさんの人の力を借りて卒業と同時に開業することができた。しかもその時点でたくさんのお客さんが付いてくれていた。
主なお客様は貴族や商人でブロワさんの紹介だ。あとは先生の知り合いや友人のご両親からも依頼されている。その依頼内容は渡された下書きを清書するだけの時もあるし、取引相手の挨拶文や貴族の恋文を私なりに考えて書くこともあった。
もちろん送り主や渡す相手のことを教えてもらった上で、相応しい内容にしている。この辺りは知識や教養が必要になるが、子爵令嬢として貴族のルールは弁えているので問題ない。それに私は本が好きで学ぶことも好きで、常に情報のアンテナを張って努力もしている。ある程度のことには対応できる力があった。
私が安心して仕事ができるのはブロワさんのおかげだ。軌道に乗ったところで、窓口となってくれている分の手数料を払いたいと相談した。ところが必要ないと断られてしまった。
ありがたいが仕事である以上けじめは必要だと食い下がったら、条件を出された。私が仕事で使う文具のすべてをブロワさんのお店から購入すること。それは条件にされなくてもそのつもりだったので条件にならないと言ったのだが、これ以上は譲歩できないと断られてしまった。
「若者を応援したい気持ちを理解してほしい」と言われてしまうと頷くしかない。
私はたくさん仕事をして売り上げに貢献しようと誓った。ただブロワさんは私の購入する文具を割引してしまうので果たして貢献できているのか謎だ……。
とにかく私の仕事は順風満帆だった。忙しくて嬉しい悲鳴を上げているほど。私の人生において人こそが宝物だと実感している。
そんなある日、エドガーが私に会いに来た。




