第2章 覚醒と試練
「外部魔力制御」——エリスは自分の理論に名前を与えた。名前は輪郭を与え、輪郭は現実の手触りをもたらす。彼女は仮説を組み立て、検証を繰り返した。魔法を使わないシミュレーションとして、糸で結んだ錘を用いて共鳴を誘導し、既存の魔術具を分解しては再構築した。杖の核に埋め込まれた魔石の配線、柄の重心、詠唱のリズムを刻む彫刻。そのすべてが、彼女の眼には回路図に見えた。
やがて彼女は一枚の設計図に辿り着く。魔素共鳴陣。紙面いっぱいに描かれた陣は、既存のものとは発想が違った。外縁の円は三重に分割され、各円は位相の異なる波形を刻む。中心には空白が残され、その周囲に配置された微細な三角形が、地脈の方向を示す羅針盤のように並ぶ。線は不必要に交差しない。代わりに、曲線が互いに寄り添い、微分可能な滑らかさを保つ。詠唱は最小限の合図に還元され、媒体は複数の薄片に分散される。既存の「集中」ではなく、「調律」が核に据えられていた。
もちろん、壁は現れた。彼女の説明は多くの者には理解されず、「危険だ」「倫理的に問題がある」と眉をひそめる者もいた。失敗した試行は少なくない。計算の誤差が共鳴を暴走させ、紙を焦がし、指先に熱を伝える。だが、彼女の信念は揺るがなかった。世界に触れる方法はひとつではない。魔力がないからこそ見える回路がある。この確信が、彼女の足元を固くした。
そのとき、禁忌の森が吠えた。風が逆流し、空がわずかに暗くなる。学院の結界が軋み、轟音が石壁を震わせた。現れたのは、《ヴァイラ》。肉体は獣に似て、皮膚は黒曜石のように硬く、眼は冷たい星の光を内包する。牙は鉄を砕き、爪は陣式を裂く。再生能力は凶悪で、斬られた肉は瞬く間に結ぼれ、燃やされた皮膚は新しい鏡のように光った。訓練場は一瞬で戦場に変わり、血と悲鳴が石畳に染み込む。
教授陣は結界を張り直し、上級生たちは連携して攻撃を仕掛けた。炎は弾かれ、水は蒸発し、風は散らされ、土は砕かれた。魔法は通じない。限界が露呈する瞬間、静寂が恐怖よりも厚く感じられる。目の前で倒れる学生。肩を裂かれ、血が温かく流れ出る。膝を抱え、震える手。叫びは空気を震わせ、涙は土に落ちる。エリスはそのすべてを見た。胸の内で、何かが音もなく燃え上がる。「これは、私がやるべきことだ」
彼女は駆けた。大図書館の裏手、研究棟の回廊、訓練場の縁。彼女の頭の中には学院の地図があり、地脈の流れが透視図のように重なる。彼女は共鳴陣の設置を始めた。石畳の隙間に薄片の媒体を滑り込ませ、柱の影に印を刻み、風の通り道に糸を張る。指先は迷わず、足は躊躇わない。汗がこめかみを流れ、呼吸は短く整う。時間が伸び縮みし、周囲の喧噪が遠くなる。
混乱する生徒たちと残された教授陣に、エリスは声をかけた。声は澄んでおり、揺らがない。「あなたは風の陣式を刻んで!この図面の通り、角度を六度ずらして」「あなたは媒介の杖をこの座標に!刻印は反転よ、急いで」最初は戸惑いが支配する。「君は…誰の指示で…」「そんな時間はない、早くしろ!」怒号もあった。だが、エリスの瞳の確信が、彼らの足を動かし始める。彼女の立ち姿には、不思議な重心の安定があった。美しさと知性が混じり合い、人を惹きつけるカリスマが生まれる瞬間。彼女は誰も責めず、誰も持ち上げず、ただ「同じ回路の一部」として彼らを配置した。
「俺たちを……使うのか?」血に濡れた袖を押さえながら、上級生が問う。エリスは首を振る。銀の髪が風にほどける。「違う。あなたたちの“力”を、“正しく使う”のよ」言葉が落ち、空気が変わる。恐怖の波形が一瞬で整い、場にリズムが生まれる。誰もが自分の位置を理解し、役割を受け入れる。彼らは、彼女の設計する楽曲の奏者となった。
陣式が完成に近づくと、世界はそれに応じて呼吸を変えた。地面が脈動する。遠い地脈の鼓動が足裏に伝わってくる。空気が微細に震え、髪の毛が静電のように持ち上がる。魔素が、目に見える形で集束し始めた。色のない霧が、銀の粉塵のような輝きを帯び、ラグランジュ点に引き寄せられるようにエリスの周囲に集まる。音が消え、次いで微かな高音が耳の奥を撫でた。
エリスは中心に立つ。両足を肩幅に開き、背筋を伸ばす。合図は短く、正確だ。掌が空気を切り、指先が位相を合わせる。詠唱はない。あるのは、調律。次の瞬間、光が生まれる。眩い銀色の槍が、音もなく形成され、ゆっくりと前へ進み始める。時間が引き延ばされ、世界がスローモーションになる。ヴァイラの胸の中心。そこに一瞬だけ生まれる脆弱な空白。槍は迷いなくそこへ滑り込み、心臓を貫いた。
断末魔は低く、長い。大地がそれに共鳴し、石畳が震える。ヴァイラは崩れ落ち、黒曜石の皮膚は粉々に砕け、光の塵となって風に散った。沈黙が訪れ、続いて歓声が爆発する。膝をつく者、両手を挙げる者、泣きながら笑う者。誰かが叫んだ。「馬鹿な……彼女に、魔力はないはず……!」エリスは血に濡れたチュニックの裾を握りしめ、小さく笑った。疲労が顔に影を落とす。その影ごと美しい。「……だからよ。だからこそ、私は“魔法を使わずに魔法を成した”」




