5.女子高生、揺れる心
眠れない夜は、部屋の天井がいつもより遠く見える。
まるで、どこにも届かない距離にあるような——そんな感覚。
枕元のスマホを何度も手に取っては、ロック画面の光に目を細めて、また戻す。
特に通知も来ていないのに、無意味に確認をしてしまう。
まひるは、ベッドの中で目を閉じながらも、どこか覚めた意識を持て余していた。
昼間に見た“あれ”が、頭から離れない。
御影琉依。あの転校生の、本当の姿。
いや、と思い直す。本当の姿とは限らない。
彼にはもっと深い秘密があるような、触れてはいけない何かがあるような、そんな感覚。
それでも、教室にいるときの彼よりは、よっぽど本当の姿に近いような、そんな確信がまひるにはあった。
校舎裏で起きたことを、私は誰にも話していない。
話そうと思えばできた。でも、どんな言葉を並べたところで信じてもらえるはずがなかった。
あの瞬間、空気が“光った”のを私は見た。
見えた、というより“視えた”というほうが正しいのかもしれない。
目じゃなくて、感覚が、それをとらえた。
御影くんの動きは人間のものじゃなかった。
迷いも、躊躇もなくて、怖いくらいに“整っていた”。
襲ってきた男を一瞬で倒した姿は、どこかテレビで見たヒーローと重なった。
……ヒーロー、か。
私は小さい頃から、能力者に憧れていた。
夜のニュース番組で特集される、素源使いの救助隊員。
災害現場で人を守る空間能力者、火を操って爆発を抑える火系の使い手。
困っている人を助けるその姿が、テレビ越しでも輝いて見えた。
“いつか、自分もああなれるかもしれない”って——
幼い私は、本気でそう思っていた。
けれど、中学の適性検査で素源反応ゼロと診断されて、私は意識が遠くなるような感覚がしたことを覚えている。
それでも、諦めきれずに病院に通い、訓練施設に通い、私は抗い続けた。
現実を受け入れることができなかった。
頑張ればいつか、私も憧れのヒーローになれると、母が愛する私になれると、そう信じていた。
中学の卒業式、先生に呼び出された。
私はついにその時が来たのだと、頑張れば努力は実るのだと、期待に胸を膨らませ先生のもとに向かった。
馬鹿みたいに浮足立っていたのだろう。
私を一目見た先生はひどく悲しそうに目を伏せ、言いづらそうに伝えてくれた。
「君は普通の人。どんなに頑張っても素源を扱う才能のない君には、能力者にはなれないんだよ」
その日から、能力者は“画面の向こうの人たち”になった。
遠くて、関係のない存在。私とは、違う世界に生きる人たち。
……でも。
今日、御影くんの戦う姿を、私はこの目で“ちゃんと”見た。
テレビじゃなくて、現実で。
空気が裂けて、重力が傾いて、男が倒れて、
そしてその場に立っていたのは——あの静かな転校生だった。
そのとき、怖さよりも先に、胸の奥が震えた。
——すごい、って。
普通じゃない人間の、強さと静かさと、優しさ。
御影くんは何も言わなかったけど、
あの場面で私を背中に隠した。
そのことが、ずっと心に残っている。
もしかして。
私は、また“夢”を見てもいいのかな。
あの日捨てた憧れが、まだどこかに残ってたのかな。
そんなことを考えていたら、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
──そのとき、空気が一瞬だけ、変わった気がした。
一瞬、耳の奥が圧迫されたような。
呼吸が重くなるような、風の流れが止まったような、そんな感覚。
窓の外で、何かが“動いた”気がした。
風はない。音もない。
けれど、そこに“在る”というだけでわかる何かが、
背筋をなぞるような、得体の知れない“何か”が、確かにあった。
私はベッドから身を起こし、窓へと歩み寄る。
カーテンを少しだけ開け、夜の景色に目を凝らす。
街灯がぼんやりと地面を照らし、虫の鳴く音だけが、静かに世界を支配していた。
ただ、空気だけが、いつもの夜とは違っていた。
少しだけ重くて、少しだけ冷たい。
理由のない恐怖が、喉の奥を這うようにこみ上げてきた。
(……なんだろう、さっきの)
風もない。木々も揺れていない。
ただの思い過ごし? 眠れていないから、神経が過敏になってる?
彼女はもう一度、外を見渡して、それからふっと小さく笑った。
(……気のせい)
そう思いベッドに戻り、今度はゆっくりと目を閉じた。
違和感はあった。静かすぎる。
ここは都内、住宅街とはいえ都会の街中で、車の音一つしないなんて。
それでも私は、信じて目を閉じる。
大丈夫、この街には、ヒーローがいる。
私が信じて憧れた、大好きなヒーローが。
「……大丈夫。御影くんがいるから、大丈夫」
そう信じたくて、そう思いたくて、
布団に潜り直した。
※※※
場面が切り替わる。
黒い空間。壁も天井もない。
その中心に、“それ”はいた。
仮面を被った何者かが、椅子に座っている。
まるで人間のような仕草、けれどその瞳は——人のそれではなかった。
「“視た”か。あの少女が」
背後には、光も音もない“濁った闇”が存在していた。
無数の目のようなものが、うごめく黒い霧の中で蠢いている。
「《ノーフェイス》……C.A.S.Tの第三席。
あれが動いたということは、いよいよだな。
“視える者”は、いずれこちらへ還る。定めの理に従って」
仮面の奥で、冷たい声が笑った。
そしてその声は、少女の名を口にした。
「——日向まひる」
その名が、闇の中へと静かに響いた。