第二話 灰になった『仁』
それは、十三歳の朝のことだった。
黎麟の体の奥で、何かが爆ぜた。骨が軋んで、肉がねじれ、内臓が焼け焦げるような痛みが襲い――次の瞬間、彼は絶叫していた。いや、正確には、絶叫を押し殺してのたうち回っていた。叫ぶことすらできないほどの激痛だったのだ。
皮膚が裂けた。裂け目から血が噴き出す。その血は、鉄の錆びた匂いを漂わせながら、黒い毛に染まっていく。体全体を覆うそれは濃密で、艶やかな漆黒。ひづめへと変わる手足、頭蓋を突き破って生えた小さな角。喉奥から漏れた嘶きは、けたたましくも神々しく響いた。
――怪物だ。誰がどう見ても、怪物だった。
だが、それはただの怪物ではなかった。忌まわしくも神聖。恐ろしくも尊き。誰も知らず、誰にも制御できぬ伝説の神獣――黒き麒麟。異形の存在。
何が起きたのか、黎麟にはわからなかった。ただひたすら、己の変貌に怯え、泣き叫び、のたうち回ることしかできなかった。どうしてこんなことになったのか。どうして自分が、こんな――。
村で最後に麒麟が産まれたのは、何百年も昔の話だ。黎麟にとって、それは本の中の物語にすぎなかった。転変の術なんて、扱えるはずもない。ただの人間だった少年に、神獣の力など、手に余るのは当然だった。
それから半年。血と涙を代償に、黎麟はどうにか自分の転変を制御できるようになってきていた。少しずつ。ほんの少しずつ。けれど――。
その頃になると、大人たちの視線が変わった。あからさまに。
それは、恐怖だった。熱病のように、じわじわと広がっていく、毒を含んだ視線。誰も彼に近づこうとしない。誰もが彼を遠巻きに見ていた。
麒麟。それは聖王の到来を告げる『吉兆』であり、同時に血と混乱をもたらす『凶兆』でもあった。麒麟が現れるとき、王は倒れ、世は乱れる――。
幼い黎麟には、それがどういう意味なのか理解できなかった。ただ、なぜ大人たちが自分を怖がるのか。それだけが、ただただ、悲しかった。
――何も変わらないはずだったのに。
◆◆◆
朝陽を受けながら、黎麟は麒麟の姿で空を駆ける。漆黒の体が疾風のように空を裂き、隣村の上空を軽々と飛び越える。蹄が山に降り立つと、若草がふわりと揺れ、瑞々しい香りが鼻をくすぐった。
口を開けば、若草が歯ごたえよく口中に広がる。嚙み締めるたび、緑の味が満ちていく。
――よかった。今世は草食の麒麟で。野草の知識があって。
ただそれだけのことで、彼は生き延びることができる。狩る必要も、殺す必要もない。
ただ、生き延びる。それが――仇を殺すための、第一歩。
「……」
唇が震える。噛みしめる。涙が溢れる。口の中の草を、血が滲むほどに嚙み砕く。無理やり、喉に押し込む。
――腹が減っては戦はできぬ。
焼いてやる。この村の村長を。この手で。生きたまま。
燃え上がる麒麟の瞳には、決意が宿っていた。まるで灼熱の炎。何者も寄せつけない、鋼の意志。
山の中の人間が行けないような場所で、いくつかの貴重な薬草を採取した黎麟は、次にこの村で有名な薬舗の店に向かう。
村に舞い降りると、黎麟は瞬時に人間の姿に変じた。まだ成長途中の子供と言える姿だが、その表情は妙に大人びている。
「いらっしゃい、お嬢さん。今日は何をお探しで?」
「薬草を買い取ってもらいたいんだ。あと、焔硝と硫黄がほしい」
薬舗の店主が薬草を見て、目を見張る。
「これは……」
「貴重な薬草だろう?」
「……確かに、普通の人間が採れるような代物じゃない。お嬢さん、道士の方かい? 確かにこれはいい品だ。でもな、加工に手間がかかる。三金で買い取ってやるよ。そこから、焔硝と硫黄の代金二金を差し引いて、一金でどうだ?」
――足元見てんじゃねぇよ。
黎麟は眉をひそめた。持ち込んだ薬草の価値は、少なくとも六金。焔硝と硫黄は合わせても一金五十銀。差し引いても、四金五十銀になるはずだ。
ふざけた真似を。
店主がにやつきながら、黎麟の手を取る。
「納得できないなら……綺麗なお嬢さんだし。俺の酒に付き合ってくれれば、一金五十銀銭にしてやっても――」
その瞬間。黎麟の脳内で、何かがぷつりと切れた。
骨の奥が凍りつく感覚。汚れた舌が目の前で蠢いているような錯覚。虫だ。虫けらだ。女子供を食い物にしようとするクソ虫が、ここにもいる。
本来、仁獣は虫すら踏まない。けれど、前世を覚えている黎麟は、虫の潰し方を知っている。
「ぼったくりも甚だしいな」
声が、冷たかった。氷柱のように、相手の心臓を貫く声音。
「悪評を立てられたくなければ、正規の値で取引をしろ。言われた物をさっさと寄越せ」
「なっ……! ぼったくりなんて、言いがかりを……! いつの相場の話を――」
「お前こそ、どこの相場の話をしている? ……道士の力で、店ごと吹き飛ばされたくなければ、今すぐ金と品を出せ」
それだけで、店主の顔が蒼白に染まる。口ごもり、頬が引きつり、何も言えなくなる。
――結局、店主は震える手で正規の金と焔硝、硫黄を差し出した。
人を殴ろうとする奴ほど、殴られるのには弱い。すぐに怯むなら、最初から真っ当な商売をしておけ――黎麟は鼻で笑った。
必要な物を揃えて、次に向かうは宿屋。安全そうで、清潔で、程よい価格の宿を選ぶ。訝し気な主人には「親を亡くし、親戚を頼って旅をしている」と言えば、渋々だが泊まらせてくれた。宿泊料は一泊二銀。まぁ、悪くない。
荷物を宿に置いた黎麟は、その足で市場へと向かう。人混み。屋台。香ばしい匂いと喧騒の中を抜け、目指すは旅道具屋。
「おや、お嬢ちゃん。お使いかい? 偉いねぇ。今日は何が欲しいの?」
「革製の水袋を二つ。炭綿と油脂も」
「旅にでも出るのかい? ……お嬢ちゃん可愛いから、一銀七十銅銭でいいよ」
「ありがとう」
にっこりと笑ったその手には、火薬を詰めるための容器が握られていた。
続いて鍛冶屋へ。煤けた空気。いかつい男が、どっかと腰を下ろしていた。
「鉄釘と、炭をください」
「親父さんの使いかい? 坊主は可愛いから、二十銅銭でいいよ」
「ありがとう」
その笑顔に、男は一瞬、表情を緩める。
――人間ってのは、なんて単純なんだろう。少し笑えば、誰もが甘くなる。
宿に戻って、手に入れた品々を床にぶちまける。
水袋。炭綿。鉄釘に、炭。それから焔硝、硫黄、油脂――。
顔をしかめるような組み合わせの中から、水袋の一つを手に取り、宿の甕から水を注ぐ。ぐび、と一口。喉を通った水が胃に落ちたあたりで、一息。
そして、開始。
調合、だ。
視線は鋭く、指先は迷いなく。測り取る目は確かで、動く手は淀みがない。まるで、長年の経験が染みついた職人のように――いや、実際、そうだった。前世で得た知識は、異世界で人を焼き尽くすための武器になる。皮肉なもんだ。
火薬を練り上げる。鉄釘を詰める。
膨張するのはただの袋じゃない。死の塊だ。水袋の内部で息を潜める、破滅の塊。
炭綿を咥えさせ、導火線の代わりに。油脂で密封して――
完成。
爆弾、だ。
さあて。
これで、村長をどうやって焼き殺してやろうか。
思案は外で。ついでに草をむしって腹を満たしつつ、市場で村長の噂を探る。
歩きながら、ちらと視界に入る家族連れ。その姿に、思考が揺らいだ。
(……あの村長にも、家族がいるんじゃないか?)
その一瞬の思いつきが、やけに心を重くする。
(違う、そんなこと考えるな。こっちは家族を奪われたんだ。なのに、なんで俺が、あいつの家族のことを気にしてやらなきゃならない)
首を振る。全力で、頭を振る。
心のどこかが、黙れと叫んでる。
市場での情報収集は、あっさり済んだ。不当な税を取り立て、商人たちの間じゃ評判が最悪。まあ、予想通り。
「若い女に入れあげてさ、奥さんと子ども、追い出したんだよ」
反物屋の女主人が、ひそひそ声でこっそり教えてくれた。
(――なら、気兼ねなく吹き飛ばせる)
吐き出した息は、知らず安堵の色を含んでいた。
「なんか、上手い儲け話が舞い込んだんだってさ」
通りすがりの男が言っていた。
間違いない。うちの村のことだ。
怒りが、再点火する。燃えさかる。止まらない。
村長は毎朝、寺で神前の儀式を受けるらしい。
なら、そこが舞台だ。供物に紛れ込ませればいい。爆弾を。
榊の香に死の匂いを混ぜて、静かに届ける。
聖なる名を冠する仁獣の皮を被りながら、その実、殺しに来た悪鬼の如く。
(俺は麒麟だ。でも――あの“仁”は、昨日の夜、家族と一緒に、灰になった)