【コミカライズ】約束を違えるつもりはありません
真新しい寝台の上に並んで座る二人の男女。
一人は美しい白銀の長い髪にアクアマリンのような水色の瞳をした美しい女性だ。名をアデリナといい、感情のちっともうかがえない冷めた表情を浮かべている。
もう一人は緋色の髪と瞳を持つ男性で、穏やかで優しい表情を浮かべている。騎士という職業柄、身体はガッチリと鍛え上げられており、細く儚げな印象の女性とは対極的だった。
「アデリナ、愛してるよ」
男性がそう言いながら、アデリナの頬をそっと撫でる。けれど、彼女はクッと喉を鳴らしてから、小さく首を横に振った。
「そのような嘘をつく必要はありません。今日はじめて会った女を愛せるはずがありませんもの」
冷たい声音。アデリナの氷のような瞳が男性を見上げる。
「え? だけど、婚約期間中は何度も手紙でやり取りをしたし、夫婦が愛し合うのは当然のことだろう?」
男性は見るからに困惑していた。大きく首を傾げ、アデリナの肩をそっと抱く。彼女は静かに目を閉じたあと、男性のほうへと向き直った。
「別に……夫婦が愛し合うのは当然のことではありません。貴族の夫婦のほとんどが仮面夫婦です。ヘラー様はご存じないのですか?」
「え? そうかなぁ? 俺の両親はとても仲がいいし……それに、別に俺たちが仮面夫婦でいる必要はないだろう?」
男性――ヘラーはそう言ってアデリナの頭をそっと撫でる。とてもひどいことを言われているはずなのに、ちっとも意に介してなさそうな優しい微笑みだ。
(なんなの、この人)
アデリナがムッと唇を尖らせる。
今日、アデリナとヘラーは結婚式をあげた。式の最中、アデリナは終始笑顔で、こんなふうに冷めた表情を浮かべることは一度もなかったのだが。
「ヘラー様、あなたに他に好きな人がいることはわかっています」
アデリナが言う。ヘラーは小さく目を見開いた。
「え? えっと……」
「結婚する相手のことですもの。事前に確認するのは当然のことでしょう? お相手はレニャ・ニルヴィン侯爵夫人――ヘラー様の従姉妹です。幼い頃から互いに思い合って来たものの、レニャ様の政略結婚のために結ばれなかった。違いますか?」
アデリナがまっすぐにヘラーを見上げる。淡々とした口調に感情のうかがえない表情。ヘラーは大きな瞳をしばたかせつつ、アデリナの顔を覗き込んだ。
「違ってはないけど……もしかして、それが気に喰わないの?」
「いいえ、そうではありません。そうではなくて、無理に私を愛する必要はないと伝えたいだけなのです」
これは貴族の義務を果たすための結婚。愛情など伴う必要は一つもない。他に好き人がいるのに『愛している』と嘘をつかれるのはかえって不快だ。公の場で仲のいい夫婦を演じてくれればそれでいい――アデリナの主張はそんなふうに続く。
それらをすべて黙って聞いたのち、ヘラーはそっと目元を和らげた。
「わかった。だったら俺は、アデリナ一人を生涯、心から愛すると誓うよ」
「……人の話を聞いてましたか?」
ピクリと眉を上げるアデリナを見て笑いつつ、ヘラーは彼女の頬に唇を寄せた。
「確かに俺には過去に想い人がいた。けれど、今の俺はアデリナの夫だ。夫として、君のことを大切にしたいし、幸せにしたい。……というか、そうすると決めていたんだ。だから、俺は俺のしたいようにする。生涯君を愛し続けるよ」
「そ、れは……」
額やまぶた、頬に何度も口づけられ、アデリナの顔が紅く染まっていく。
(そんなふうに言われるなんて)
正直、思ってもみなかった。自分の結婚生活は両親のそれと同じように、無味乾燥したものになると信じて疑わなかったというのに。
「これからよろしくね、アデリナ」
ヘラーがそう言って微笑む。彼の笑顔を見上げながら、アデリナは返す言葉が見つからなかった。
***
そうして二人の結婚生活がはじまった。
とはいえ、日中ヘラーは騎士団の仕事にでかけているため、二人で過ごす時間はそう多くない。会話を交わせるのは朝夕の食事のときと、寝る前ぐらいだ。
「アデリナ、今日はどんな一日だった?」
ヘラーは毎日同じ質問をアデリナに対して投げかける。
「別になにも。昨日と同じ一日でしたわ」
対するアデリナも毎日同じ返答をした。困ったように微笑むヘラー。使用人が苦笑をしながら身を乗り出す。
「えっと……旦那様、本日奥様はオシャロア侯爵夫人のお茶会に行っていらっしゃいました」
「ああ、そうだったのか! 実は、オシャロア侯爵には以前すごくお世話になったんだ。侯爵は爵位を継ぐ前、王太子殿下の近衛騎士を務めていた時期があってね?」
「存じ上げております。そのとき、ヘラー様は侯爵様の弟子になられたのでしょう? 夫人からお聞きしました」
だからこそ、私がお茶会に招かれたのですとアデリナは続ける。ヘラーは満面の笑みを浮かべ、アデリナのことをじっと見つめた。
「そうか。リオネル様とイネス様は今、王都にいらっしゃっているんだね?」
「はい。ヘラー様に会いたいとおっしゃっていました」
「それは嬉しいな。今度の休みに会いに行こう。アデリナも一緒に。いいだろう?」
「……好きになさってください」
「それで? 侯爵夫人とどんな話をしたの?」
「どうって……」
お茶会の話を聞いたところで男性にとってはちっとも楽しくないだろう。アデリナとて、社交は貴族の義務だから仕方なく行っているだけだ。ヘラーに内容を話そうとも思えない。
「楽しかった?」
けれど、アデリナのそっけない態度にもめげず、ヘラーは嬉しそうに笑っている。
彼はいつもそうだった。
単調で代わり映えのしないアデリナの生活を聞いては大げさに驚き、共通点を見つけて話を広げ、アデリナとの仲を深めようと努力している。
(そんなこと、していただく必要ないのに)
けれど、そう伝えたところで効果はない。ヘラーは穏やかで優しいくせに頑固だった。おまけに、恐ろしいほど真面目で、一度決めたことを簡単に覆すタイプではない。アデリナはそっとため息をついた。
「そういえば、今度休暇をもらえることになったんだ。一緒に旅行に行こうよ」
「旅行ですか?」
「うん。新婚旅行! 楽しみだなぁ。アデリナも楽しみにしていてね」
ヘラーはそう言ってアデリナの手をそっと握る。握りだこができてゴツゴツした、けれど温かい手のひらだ。
アデリナは戸惑いながら、ヘラーからふいと視線をそらす。「わかりました」と小さくつぶやいたら、ヘラーは満足そうに微笑んだ。
***
以降もヘラーは変わらなかった。
毎朝毎晩アデリナに愛を囁き、彼女のことを大事にする。どれだけそっけない態度を取られようとまったくめげなかったし、むしろ愛し気に彼女のことを見つめるのだ。
(この人は、どうして私に構うのだろう)
夫婦といっても、親同士が決めただけの相手だ。無理に愛してもらう必要などない。……そう思っていたはずなのだが。
「アデリナ、こっちにおいで! ここから海が綺麗に見えるよ」
満面の笑みを浮かべたヘラーがアデリナを呼ぶ。ブンブンと大きく手を振りながら――まるで大きな子どもみたいだ。
(まさか本当に旅行に来ることになるなんて)
アデリナはヘラーの元に向かいながら、ほんのりと唇を尖らせる。ヘラーはアデリナを抱き寄せると彼女の頬に顔を寄せた。
「ほら、水面がキラキラ光ってる。まるでアデリナの瞳みたいだね」
「……嘘ばっかり。私の瞳はあんなふうに温かな色をしていません。父からも母からも氷のように冷たいと評されておりましたのに」
空の色をうつした優しい色。アデリナとは似ても似つかぬ色だ。……そう思うのに、アデリナの胸がドキドキと高鳴り、瞳に涙がじわりと滲む。ヘラーは穏やかに微笑みながら、彼女の頭をそっと撫でた。
「そんなことない。アデリナはとても温かい人だよ。俺は君の瞳が――アデリナのことがとても好きだ」
「っ……!」
こういうことを恥ずかしげもなく言うのだからたまらない。
けれど、ヘラーが言えば、たとえ嘘でも事実に変わるような気がしてくる。氷のように冷たい自分も、いつかは温かい人になれるような、そんな気がしてくるのだ。
「あの……旅行先にこの場所を選んだのはどうしてなのですか?」
このままでは涙がこぼれ落ちてしまう。アデリナは意図的に話題をそらした。
「え? だって、結婚前にくれた手紙に『海が見たい』って書いてくれていただろう? だから、はじめての旅行はここにしようって決めていたんだ」
「そ、そんなことを覚えていたのですか?」
アデリナの頬が真っ赤に染まる。
手紙なんて、書いたところで目を通していないと思っていた。あんなものは良好な関係を築いているとごまかし合うためのツールでしかなく、家の人間に適当に代筆させているとばかり思っていたのに。
「もちろん、覚えているよ。アデリナのことだもの」
ヘラーはそう言ってアデリナの手をギュッと握る。剣の握りだこでゴツゴツとした、けれど温かな手のひらだ。はじめは痛くて違和感しかなかったのに――いつの間にかヘラーと手をつなぐと心が安らぐ。これまで目を背けていた事実にも向き合えるような気がしてくるのだ。
「……私、旅行ってはじめてなんです。両親はその……お世辞にも仲がいいとは言えなくて。家の中で会話をしているところは見たことがないほどでしたし」
言いながらふと、幼い日の自分の姿を思い出す。
『あの……お父様とお母様はどうして家ではお話をなさらないのですか?』
あれはたしか、別の貴族の屋敷に招かれた日のことだ。
普段はひとことも会話を交わさない両親が、仲よさげに話をしていることが嬉しくて……もっと話をしてほしくて。期待に満ちた表情でそう尋ねたことを覚えている。
『アデリナ、覚えておきなさい。貴族の夫婦なんてそういうものよ』
けれど、両親から返ってきたのは至極冷たい言葉と表情だった。
二人の間に愛情はなく、貴族としての義務感しか存在しない。
加えて『お前が息子だったらよかったのに』とつぶやかれたのだ。当時のアデリナには相当なショックだった。
跡継ぎを残すこと、家門のために公の場では仲睦まじい夫婦を演じること――それだけが貴族の結婚だと思ってしまうのも無理はない。
「――だったら、これからは俺と一緒に色んな場所に行ってみよう。海でも、山でも、アデリナが行ってみたい場所全部に」
ヘラーはそう言って、アデリナの額に口づける。おひさまのような笑顔がまぶしい。アデリナは涙を流しながら「ええ」と返事をした。
その日から、アデリナは少しずつヘラーに心を開いていった。
「アデリナ、今日はどんな一日だった?」
「今日は……イネス様と一緒に王太子妃殿下のお茶会に行ってまいりました。殿下はとても美しい人で……」
結婚当初ならば『別に』で済ませていたその日の出来事を、自分の口で説明をするようになる。
「それはよかった。楽しかった?」
ヘラーは何の変哲もないアデリナの日常をとても楽しそうに聞いてくれた。どんなことを話してもニコニコと笑ってくれるから『こんなことを言ってもいいのだろうか?』と思い悩む必要はない。
「ええ、とても」
そうしているうちに、義務感しか抱いていなかった社交も、使用人たちとの会話も、花が咲いたという程度のささいな出来事すらも楽しいことのように感じられてきて、アデリナはふわりと目を細める。アデリナが微笑むたびに、ヘラーもまた嬉しそうに笑った。
***
「うわぁあ! アデリナ、綺麗だ!」
ヘラーがそう言って瞳を輝かせる。深い紅のドレスに身を包んだアデリナは、恥ずかしそうに視線をそらした。
「そんなこと、ありませんよ」
「ううん。俺の妻が一番綺麗だ。こんなに美しかったら他の男に嫉妬されてしまいそうだな。もっとよく見せてくれ」
今夜は王室主催の夜会が開かれる日。ヘラーとアデリナは夫婦揃って招待されており、出発に向けて準備をしている。夫婦で出席するはじめての夜会だから、アデリナはここ数日ずっとそわそわしていた。
「それにしても、アデリナは赤色もよく似合うね」
前から後ろからアデリナを褒め称えつつ、ヘラーはそっと目を細める。
「俺の色、だよね」
「えっ、えっと……はい」
彼にギュッと抱きしめられたアデリナは、顔を真っ赤に染めながら今にも消え入りそうな声でつぶやいた。
「夫婦は夜会で揃いの色を身につけるものだと母から言い聞かされて育ちましたから」
「うん、そうだね」
アデリナが理想的な『貴族の夫婦』を演じるために今夜のドレスを選んだわけではないことは、彼女の表情を見ればすぐにわかる。
「ありがとう、アデリナ。すごく嬉しいよ」
愛しげに目を細めるヘラーを見上げながら、アデリナもそっと目を細めた。
会場に着くと、二人は並んで挨拶をして回った。人懐っこく、そのくせ礼儀正しいヘラーは顔が広く、放っておいてもたくさんの人が寄ってくるし、会話が途切れることがない。
(ヘラー様はすごい人だわ)
みんなが彼の人柄に心から惹かれていることが見てわかるし、妻として誇らしいことこの上ない。優しくて、穏やかで、困っている人を見かけたら絶対に放っておけないほどのお人好しで。頑固で、こうと決めたら一直線で。はじめはそんなヘラーに戸惑ったものの、彼の温かさに救われている自分に気づかずにはいられない。
(私、いつの間にかヘラー様のことが……)
「ヘラー、久しぶりね」
とそのとき、愛らしい声音がヘラーを呼んだ。
「レニャ、久しぶりだね。元気にしていた?」
と、ヘラーが返事をする。ドクンとアデリナの心臓が大きく鳴った。
(レニャ様って……)
忘れもしない。ヘラーが一途に思い続けてきた女性だ。アデリナはついつい動揺してしまう。
レニャはとても愛らしい女性だった。ふわふわのストロベリーブロンドに、緑色の大きな瞳、女性らしい体つきをしているが、屈託のない笑顔はまるで少女のようだ。従姉妹だからか、どことなくヘラーと似ている。
(私とは正反対の人)
そう思った瞬間、チクリと胸が痛くなる。
レニャはヘラーの想い人だ。結婚前に報告書でそう読んだし、ヘラー自身も否定をしなかった。
彼が本当に好きなのは、レニャのような女性らしく愛らしいタイプなのだろう――そう思うにつけ、胸がたまらなく苦しくなる。
(私は彼に嘘をつかせているんだわ)
ヘラーは毎朝毎晩、アデリナに「愛している」と囁いてくれる。けれどそれは、頑固な彼が「そうする」と決めていたからであって、本心によるものではないのだと改めて思い知らされた気がした。
「――紹介するよ。妻のアデリナだ」
と、話題が二人の近況からアデリナに移り、彼女は慌てて頭を下げる。
「はじめまして」
「はじめまして。あなたがヘラーの……! よかったわ。一度ご挨拶をしたいと思っていたのよ?」
レニャはそう言ってふわりと笑みを浮かべる。アデリナとは正反対の余裕に満ちた表情だ。
途端に、なんだか自分が惨めで滑稽に感じられてしまう。
「あの……少し席を外してもよろしいでしょうか? 人酔いしてしまったようで、風に当たりたくて」
「え? ごめん、アデリナ! 俺、ちっとも気づいてなくて。だったら俺も……」
「いえ! ヘラー様はどうぞこちらに! 積もる話もおありでしょうから」
ぶんぶんと大きく首を横に振り、アデリナは急いでその場を離れた。
(危なかったわ)
彼女の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちる。あと少し離れるのが遅かったら、二人の前で泣いてしまっていたかもしれない。
どうしてだろう? 夫に他に好きな人がいても構わないと思っていた。両親にはそれぞれ愛人がいたし、貴族の結婚に愛情など必要ないと思っていた。夫婦として、それぞれに求められた役割を演じればいいのだと、そう思っていたはずなのに。
(いつの間にか、こんなにも好きになっていたなんて……)
「アデリナ!」
と、背後から優しく肩を叩かれる。急いで涙を拭って振り返ると、困惑した表情のヘラーがいた。
「ヘラー様、どうして……」
「どうして、じゃないよ。アデリナを一人にできるわけないだろう?」
ギュッと優しく抱きしめられ、涙が再びじわりと滲む。けれど、泣いていることに気づかれたくなくて、アデリナはさっと顔を背けた。
「本当に、私のことはどうかお気になさらないでください。具合が悪いといってもただ人に酔っただけですし、放っておけばおさまりますから」
「だとしても、一人になるのはやめてほしい。……君は気づいていなかったみたいだけど、さっきから会場中の男性がアデリナのことを見てるんだよ? 俺はずっと気が気じゃなかったんだから」
「え……?」
すねたような表情で頬を真っ赤に染めるヘラーを見上げながら、アデリナの胸が熱くなる。
「もしかして、そんな理由で追いかけてきたんですか?」
「そうだよ。君が他の男を好きになったらすごく困る。絶対、嫌だから」
「……そんなこと、ありえませんよ」
こんなにもヘラーのことが好きなのだ。よそ見なんてできっこない。
アデリナが微笑むと、ヘラーは彼女のことをギュッと抱きしめるのだった。
***
己の気持ちに気づいて以降、アデリナのヘラーへの想いは加速する一方だった。
「愛してるよ、アデリナ」
最初の頃はまったくなにも感じなかった言葉も、些細なふれあいも、すべてが特別に感じられる。彼と一緒にいられることが、アデリナに向かって微笑んでくれることが、内心嬉しくてたまらない。
けれど、アデリナは素直になることができなかった。嬉しいと、好きだと、愛していると言えればいいのに、プライドと理性が邪魔をする。ただひとこと「私も」と言えば済む話なのに、ヘラーがどんな反応をするかわからなくて怖いのだ。
(もしも戸惑われたり、困ったような顔をされてしまったら……?)
ヘラーは責任感の強い人だ。彼が『夫婦だから』という理由でアデリナを愛すると決めてくれたこと、今ではとてもありがたく思っている。
けれど、アデリナがそれにこたえたとき、彼の義務感はそこで終わってしまうのではないか。そのせいで、彼の態度が変わってしまうことがとても怖い。
「アデリナ様、お客様がお見えになっております」
「お客様?」
誰だろう? 使用人に言われ、応接間に向かう。
「突然押しかけてすみません」
「レニャ様……」
そこにいたのはヘラーの想い人、レニャだった。
「どうなさったのですか? ヘラー様は今、仕事で外出してまして……」
「実はわたくし――夫との離婚が決まりそうなんです」
「え?」
思いがけない言葉にアデリナは戸惑う。レニャは唇を引き結ぶと、感極まったように泣きはじめた。
「夫は――ヘラーとは正反対の冷たい人で。わたくしたち、結婚してからずっと上手くいっていなかったんです。だけど、元々政略結婚だし、耐えなきゃって思って頑張ってきて。……だけど、この間夜会でヘラーの笑顔を見ていたら、なんだかすごく辛くなってしまって」
ボロボロと涙をこぼすレニャの姿に、アデリナは胸が苦しくなる。
ヘラーの笑顔は、優しさは、温かさはすべてレニャのものだったのに――レニャはきっと、そんなふうに思ったのだろう。彼の優しさに触れてしまったら、自身の境遇が辛くなるのも無理はない。アデリナにはレニャの気持ちが痛いほどわかった。
「もう頑張らなくていいんじゃないかなって思って、離婚を切り出したんです。そしたら『出て行け』って言われてしまって。だけど、いきなり実家に帰ることはできなくて、それで……」
「そうでしたか」
レニャがヘラーを頼りたくなるのは当然だろう。彼女にとってヘラーは従兄弟だし、人助けが趣味のような男性なのだ。必ず力になってくれる。
けれど……。
「わかりました。どうぞ、我が家で心と体を休めてください」
「……いいんですか? ありがとうございます、アデリナ様」
嬉しそうなレニャを見つめつつ、アデリナは上手に笑うことができなかった。
***
「レニャが?」
「はい。事情が事情なので、ヘラー様なら必ずレニャ様の力になるだろうと。……勝手なことをしてすみません」
「いや、勝手なことだなんて思わないけど……」
事情を聞きながら、ヘラーは困惑した表情で小さく首を傾げている。
「けれど、アデリナはそれでいいの?」
「え?」
どうしてそんなことを聞くのだろう? アデリナの胸が痛くなる。
「もちろん。私は……ヘラー様が望むならそれで」
嘘だ。本当は嫌で嫌でたまらなかった。
もしもヘラーがレニャを再び愛したら――アデリナは不要になってしまう。離婚をした女性が、再婚することは簡単ではない。となれば、レニャの父親だって今度はヘラーとの結婚を認めるかもしれない。
(ヘラー様が私を愛しているのは『私が彼の妻だから』)
その前提がくつがえってしまえば話は変わる。
彼が本当に愛している人を妻にできる絶好のチャンスができた。もちろん、アデリナとヘラーが離婚をするのが先だけれど……。
「アデリナ」
名前を呼ばれ、ふわりと、触れるだけの口づけが降ってくる。驚くアデリナを、ヘラーがギュッと抱きしめた。
「愛してるよ」
「……ヘラー様」
アデリナの瞳に涙がにじむ。
『そのような嘘をつく必要はありません』
『無理に私を愛する必要はないと伝えたいだけなのです』
(彼にそう約束したのは私)
ヘラーとのはじめての夜を思い出しながら、アデリナは静かに目を閉じた。
次の日の朝、アデリナとヘラーはレニャとともに朝食をとった。
「迷惑をかけてごめんなさい、ヘラー」
「迷惑、とは言わないけど、早くご両親に手紙を送って、きちんと事情を説明するんだよ。いきなり帰りづらいというのはわかるし、すぐに出て行けとまでは言わないけど」
「わかってるわ。お父様もお母様も、きちんと話せば理解してくれると思うの。だけど、時間がかかるかもしれないし……」
幼い頃から互いを知っている分、ヘラーとレニャは仲がいい。二人の間に流れる独特の空気を嫌と言うほど感じつつ、アデリナは黙々と食事を進めた。
「ねえアデリナ、今日はなにをする予定?」
「今日は……」
いつもと同じ質問。アデリナは少し考えてからヘラーを見る。
「街に買い物に出かけます。以前からほしかったものがあって」
「それはいいね。帰ってきたらどんなものか、俺にも見せてくれる?」
屈託のないヘラーの笑み。アデリナの胸がズキッと痛む。
「ええ、もちろん!」
と彼女は笑った。
***
潮風に吹かれながら、アデリナはそっと膝を抱える。
朝食を終えたあと、アデリナはひとりで屋敷を出た。使用人たちからはいつものように馬車を出すと言われたが『歩きたい気分だから』と断った。
そうして彼女は馬車を乗り継ぎ、王都から遠く離れた場所――新婚旅行でヘラーと訪れた海辺にいる。おそらく今頃は、使用人たちが彼女の書き置きと、ヘラーのために用意した離婚届を見つけていることだろう。
(これでよかったのよね)
そう思いつつ、涙がじわりとにじんできた。
夕日に照らされた海がキラキラと光る。とても温かい――まるでヘラーの瞳のようだ。
(私はヘラー様を愛している)
だからこそ、彼には心から幸せになってほしい。優しい彼に、これ以上嘘をつかせたくなかった。
『約束を違えるつもりはありません。これからはどうか、あなたが本当に愛する人と幸せになってください』
ヘラーに向けた手紙にはそう書いた。罪悪感なんて抱いてほしくない。元々、彼がアデリナに与えてくれたのは偽物の愛情なのだ。彼女のことなど気にする必要がないと、きちんと教えてあげたかった。
『アデリナ、愛してるよ』
「――ヘラー様の嘘つき」
「嘘つきはアデリナのほうだろう? 帰ったら買ったものを見せてくれると約束したのに」
その瞬間、後ろから思い切り抱きしめられる。アデリナの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「ヘラー様……?」
どうしてここに? と問おうとしたところで、ヘラーがアデリナの肩に顔を埋める。
「ひどいじゃないか。俺になにも言わず、勝手にいなくなろうとするなんて。書き置きと離婚届を見つけた使用人が、急いで報告をしてくれたんだ」
「それは……私はただ、ヘラー様に幸せになってほしくて。私がいなくなれば、レニャ様と結婚できるから。だから……」
「俺の幸せは、アデリナと一緒にいることだよ」
ヘラーはそう言うと、アデリナの正面に回り込む。
「アデリナは書き置きに『約束を違えるつもりはありません』って書いていたけど、俺だって同じだ。君とした約束を破るつもりなんて微塵もない」
「約束……」
アデリナの脳裏にヘラーの言葉がよみがえってくる。
『確かに俺には過去に想い人がいた。けれど、今の俺はアデリナの夫だ。夫として、君のことを大切にしたいし、幸せにしたい。……というか、そうすると決めていたんだ。だから、俺は俺のしたいようにする。生涯君を愛し続けるよ』
ヘラーの考えによれば、夫婦は愛し合うもの。その義務から作り上げた偽りの愛情――そんなものは離婚してしまえばチャラになる。アデリナはギュッと拳を握った。
「だけど、結婚した当初と今とでは違う。もう妻だから、っていう理由だけじゃない。アデリナ、俺は心から君を愛しているんだ」
体がきしむほど強く、ヘラーがアデリナを抱きしめる。アデリナは小さく目を見開いた。
「君は誰よりも気高くて、凛として美しくて。けれど本当は強がりで意地っ張りで、すごく弱い人だって知っている。アデリナが笑ってくれると俺も嬉しくて、俺も自然と笑顔になれる。君がいるから強くなれる。俺はもう、君が隣にいてくれなきゃ幸せになれない」
「ヘラー様、だけどそれは……」
「嘘をついているわけでも、義務感で言っているわけでもないよ。そうじゃなきゃ、迎えになんて来ない。こんなふうに涙を流したりしないよ」
アデリナが見上げると、彼の丸い瞳からポロポロと涙が流れ落ちていた。それがまるで自分のことのように苦しくて、アデリナは思わず彼の頬に手を伸ばす。すると、ヘラーがアデリナの手に自分の手を重ねてそっと包み込んだ。
「帰ろう? 俺たちの家に。帰ってまた、俺の側にいてよ」
「だけど、レニャ様は?」
「俺の妻はアデリナだけだよ。さっきレニャにも、すぐに屋敷を出るように伝えてきた。レニャにはひどいって罵られたけど別に構わない。俺にとって大事なのはアデリナだけだ。本人にもハッキリとそう伝えたよ」
ヘラーはそう言ってまっすぐにアデリナを見つめる。アデリナは少しためらったのち、はじめて自分からヘラーを抱きしめた。
「いいんですか? 本当に後悔しませんか?」
「しないよ。俺はアデリナと一緒にいたい。アデリナも同じ気持ちだって思っていい?」
ポンポン、となだめるように撫でられ、アデリナの目頭が熱くなる。
「……はい。私もヘラー様と一緒にいたいです。ずっと、あなたの側にいたい。あんな約束、なくしてしまいたい」
それは、ようやく口にできたアデリナの本音だった。
ヘラーは穏やかに微笑むと「うん」と力強く返事をする。
「それにしても、どうしてここがわかったのですか?」
アデリナが尋ねる。誰にも行き先は告げなかったし、書き置きでも匂わせるようなことはしていない。きっと見つかることはないだろうと思っていたのに。
「え? だって、アデリナは以前『またここに来たい』って言ってくれていただろう? だから、絶対ここに違いないって思ったんだ」
さも当然と言った表情で胸を張るヘラーにアデリナは目を丸くし、たまらず笑い声を上げる。
「ヘラー様、私、あなたのことが大好きです」
「うん! 知ってるよ」
ヘラーはそう言うと、アデリナを思い切り抱きしめたのだった。