8 帰国 そして新たなステージへ
シンの帰国日前日。
ヒロとシンはスマホのコールで目を覚ました。
昨晩は2人揃って酔いつぶれ、ソファーで寝落ちしてしまったのだ。慌てて時刻を確認すると、とっくに午前は終わっている。
ヒロに対するスマホからの連絡は、ゼリー湖になってしまったレジャー施設の人造湖に対する後始末の件。
シンに対する連絡は、研修終了の挨拶に関する件だった。
2人は大急ぎでシャワーを浴び、食事もそこそこにホテルを飛び出すのだった。
どうにか全ての用件を片付け、二人がホテルに戻ったのは20時を回っていた。ルームサービスで夕食を摂ったが、今晩中に荷物の整理をしなければならない。明日の朝、ホテルに頼んで送ってもらう手配をしなければならないからだ。
「今日も、面会に行けなかったな~」
午前中寝ていたからで、自分たちが悪いとは解っているが 何とも恨めしい気分になる。
「時間外でも会えないかと聞いてみたんですが、きっぱりと断られましたよ。そんなに緊急事態なのでしょうか、って」
運悪く規則に厳しい看護士に当たったらしい。けれど、こればかりはどうにもならないので、諦めて酒も飲まず荷造りを始めた兄弟だった。
そして、シンの研修終了日。日本への帰国日である。
ホテルを出て、最後にFOIに寄り研修終了の報告をする。シンと親しくなった何名かの捜査員たちは、玄関まで見送ってくれた。それなりに時間もかかったので、空港に着いたのは搭乗1時間前だった。
話すことも無く、ヒロとシンは黙って空港内を歩く。朝もう一度病院に問い合わせてみたが、やはりソラとの面会は許可されなかったのだ。
そして出国ロビーまで来た時、シンはそこに立つ美人の姿を見た。
「・・・・・・ソラ?」
思わず立ち止まって呟く弟に、ヒロも呟くように問いかける。
「・・・シン、彼女は・・・黒い服を着ていますか?」
「えっ・・・あ、ああ・・・黒い上着と黒のスラックスだな」
薄い水色のスタンドカラーブラウス。ウエストの少し上あたりにボタンが1つあって、ノーカラーの上着はひざ丈。脇に深いスリットが入っている。薄手の上着はすらりとした肢体に添うようで、シンプルなデザインが彼女の美しさを引き立てている。
「・・・似合っていますか?」
囁くようなヒロの声。心配そうでありながら、どこか満足気な笑顔。
「ああ、凄く似合ってる」
そんな二人の前に、ソラがゆっくりと近づいてきた。
「外出許可を貰ってきました」
そう言って、穏やかな笑みを浮かべたソラだが、きっと膨大な文句を並べながら、渋々ヴィクターが許可を出したのだろう。きっちりと鎮痛剤を処方して。
「今日が帰国日ですので、きちんと挨拶をしなければと思いまして」
初めて会った時と同じように、音楽的ともいえるような綺麗な声で話す。
「・・・あ、ああ・・・会えて良かった。俺も、ちゃんと挨拶したかったしサ」
シンが漸く口を開いた。
「ホント、沢山・・・ソラには色んなことを教わったから」
数えあげたら切りが無いような気がする。
例えば、本気で惚れた女性に対する自分の態度や気持ち。好きな相手を見続けて、そして感じる自分の素直な心を自覚すること。愛する相手には、後回しになどせずに真摯に向き合う事。逃げ出すような真似などせず、今を大切にすること・・・
シンは、深々と頭を下げた。
「ありがとう」
そんなシンの顔の前に、ソラは持っていた小さな紙袋を差し出す。シンでも知っているA国の有名ブランドのロゴが入っていた。
「ミントキャンディーです。日本で待っている方に、と思いまして」
「え!・・・何で知ってんの?」
こちらに来る前に喧嘩別れした彼女、小夜子のことをソラは何で知っているのだろう。
「コートをクリーニングに出すとき、ポケットに入っていたメモを見てしまいました。ヒロにも、シンには喧嘩別れしてきた人がいると聞いていましたし」
思わずシンは、隣の兄を睨みつける。
(フェアプレイじゃなかったのかよ)
「筆跡から女性であることが解りましたし、微かですが化粧品の香りもしました。あとはミントの香りも。そしてその後も、シンがスーツの内ポケットにいつもメモを入れていたことを知っていました」
(全部解ってたって訳ね・・・)
「推測ですが、その方はシンにメモを渡すかどうか迷っていたのではないでしょうか。自分のポケットに何日も入れていたのではないかと思います。ミントの香りがするものと一緒に」
そう言えば、小夜子はミントが好きだった。いつもスーツのポケットに、キャンディーとかガムなどを何個も入れて持ち歩いていた。
「ヒロと一緒では、空港で購入するのもシンには難しいのではないかと思ったものですから」
確かに思いつくかどうか怪しいところだし、思いついたとしてもヒロにそれを告げて買いに行くのは避けたいシンではないだろうか。
それまで黙って二人の会話を聞いていたヒロが、口を挟んだ。
「ソラは優しいですね。人の心の機微までくみ取れて」
優しいヒロの言葉に、けれどソラは目を伏せてしまう。
「いえ、こういう事も勉強しろと以前言われたことがありましたので学んだだけです。受け売りの浅慮な発言でした。お気を悪くされたら申し訳ありません」
そう言って空は頭を下げる。シンは慌ててその手からミントキャンディーの紙袋を受け取った。
「いや、ンなこと無い。ありがたいよ、助かった」
ソラはホッとしたような色を眼に浮かべる。
「こういう相手がいるのに、一目惚れなんて言って悪かったな」
ふと気づいたようにシンは謝った。自分でも気づいていなかったことだが、心を残している相手がいたということなのだから。
「いえ、お気になさらず。シンが一目惚れをして下さったのは、ありがたいことだと思いますし、真摯に向かい合ってくれていたことは、よく解りましたから。きっと、喧嘩別れをして遠く離れた土地に来たことで、少しだけ心が迷っていたのでしょう。よくあることだと、聞きます」
自分でも気づかない寂しさ、それが一目惚れと言う形で現れたのではないだろうか。けれどそんな深層心理のような心の動きも、おそらくソラは知識として『学んだ』ことなのだろう。
「ああ、ソラ。ちょっとそこに立っていて下さいね」
シンとの会話がひと段落したところで、ヒロがそう言ってポケットから小さな機械を取り出しサングラスの丁番部分に取り付ける。そして指先で操作すると、小さなシャッター音が聞こえた。
「アイカメラです。ソラの補聴器の事を知った時、出来ることを増やそうと思うって言ったでしょう。なので僕も、遅ればせながらこれを使おうと思ったんですよ。同じように開発局でカスタマイズしてもらいました。昨日やっと出来上がったと知らせが来たので、早速使ってみました。専用AIに直結していて、これからAIを育てていかないといけないんですが」
今日と言う日に間に合ってよかった、と言うヒロは、最初の登録をソラにしたかったのだ。ついでに少し下がって全身像も撮っておく。そして、今一番大事なことを口にした。
「ありがとうございました。ところで、ご両親のご遺骨を日本に持って行くのでしたよね。来る前に連絡を貰えませんか?」
穏やかな笑顔と口調だが、微かな決意も含まれているような台詞だ。
「・・・何時になるか解りません。今回の任務でも最後に連勤手当てが減ってしまいましたので、まだ金額が足りていませんし、運ぶための手続きや書類準備も手を付けていないので」
「何時になっても構いませんから。何時まででも待っています」
ソラは少しの間黙って考えていたが、ゆっくり顔をあげると無表情で答える。
「・・・それは、ご命令ですか?」
今まで築いてきた親しさという関係を、すっぱりと切り捨てるようなソラの言葉に、けれどヒロはそれすらも想定内だというように答える。
「君がそう取りたいのなら、それでも構いません。けれど、必ず連絡してください。僕は待っています」
声の中に、ちょっぴり寂しさがあったことは仕方がないだろう。
「了解しました」
ソラの返事は、上司に対する部下の物であった。
「それでは、私はこれで失礼します。シン、どうぞお元気で」
ソラはシンに向かって、最初に出会った時と同じ穏やかな笑みを浮かべて別れを告げる。
「あ、ああ。ありがとナ。ソラも元気で」
それしか言葉は出てこない。
穏やかな雰囲気の美人は、次にヒロの前に向き直るとスッと姿勢を正して右手をこめかみに当てる。
「ソラ・リセリ・キクチ捜査官、離任します」
ヒロは黙って敬礼を返した。
そしてソラは、二人に背を向けて去ってゆく。
その凛とした美しい後ろ姿を、二人は何時までも見つめていた。
飛行機が離陸し水平飛行に移ると、シンは早速気になっていたことを口にする。
「なぁ、ソラが着てた服って・・・」
「ええ、シンが思っている通りですよ。3か月分の感謝の気持ちですね」
「・・・いつの間に・・・」
それはだいぶ前から。
アンジーに相談して、ソラに似合うものを探して選んだ。本当は直接手渡したかったのだけれど。
「ホテルのソラの部屋に置いてきました。ソラはビートを必ず迎えに行くと思いましたから」
彼女が見送りに行きたいと思って外出許可を貰ったら、先にホテルに行くだろう。自分たちはもう出ているから、出来るだけ早くビートと手荷物を引き取らなければならないと考えるはずだ。
「ソラがあれを着てくるかどうかは、ちょっと賭けでもあったんですけどね」
2人がクリスマスにプレゼントしたグレーのスーツ。そっちを着てくる可能性もあったから。
けれどソラは、ヒロが贈った服を着て空港に来た。
もしかしたら本人でさえ、そちらを選んだ理由は解らないのかもしれないが。
「でも、着て来てくれたので、それだけで僕は大満足なんです」
「・・・あっそ・・・でも俺も、最後の最後でソラを助けることができたから大満足だぜ」
何だか、兄弟大満足合戦でもやっているようだ。
「・・・まぁ、兄貴にも随分教えられたしな」
女たらしとでも言いたくなるほどの、女性に対する気遣い。どんな時でも、時間を惜しまず相手の事を考えて対応する行動力。マメさとか、タイミングの良さとか、話し方とか・・・
「だから、御礼もかねて教えておくよ。ソラの事だけど・・・」
基本的に、ソラの表情は2通りしかないと思う。無表情も表情の一つだと考えるならば、だが。
誰かといる時は穏やかな微笑みが通常装備で、それ以外は殆ど無表情。
微かに口元がほころんだりすることも、ごくたまにあったけれど、表情に乏しいのは確かだといえるだろう。
けれどシンは、気づいたのだ。
「ソラの気持ちって、眼に現れるんだよ。ほんの少しの変化だけどな」
驚いた時に僅かに見開かれる眼。
困った時に僅かに陰る瞳。
楽しい時にほんの少し明るくなる瞳の色。
「だからサ、そのアイカメラのAIにも その辺りを学習させとけば?」
どうせその装置は、主にソラのために使われるのだろうから。
そんなぶっきらぼうだけど根はやさしい弟の言葉に、素直に頷いて礼を言う兄だった。
会話がひと段落した後、座席に深々と座り、シンは口を閉ざして窓の外を見ていた。雲海が広がるだけの景色が、寧ろ心地よく感じる。そんなシンの隣で、ヒロが独り言のように呟く。
「ソラのミドルネーム、覚えていますか?」
「え?ああ・・・リセリ・・・だったか」
「ええ、シンが研修中で留守だった時、一緒に散歩にいったことがあるんですよ。その時に聞いたんですが、そのミドルネームは彼女の母方のお祖母さんがつけたそうです」
「ソラのお祖母さんって、ネイティブだったよな」
「ええ、それで後から調べてみたんです。ネイティブの言葉で、リセリは光と言う意味でした」
それを知った時、ヒロは目の前に光が射してきたような気がした。
目が見えない自分の、暗闇の世界の中に射しこんできた一筋の光。
「だから僕は、ソラを追いかけるんです。いい歳したオッサンが、いささかロマンチック過ぎるかもしれませんけど」
ヒロはそう言って、アイカメラを外すと掌に載せてそっと撫でる。
「ソラが日本に来るまでの間、シンから得た情報やこの3か月で僕が知ったソラの事を全て、AIに覚えさせておきましょう」
飛行機は日本に向かう。
シンの3か月に及ぶ研修は、こうして終わった。
ソラと、ヒロ・シン兄弟の出会いの話でした。
空の人生を追うシリーズ、「Life of this sky」はここから始まります。