6 自然科学館
シンの研修期間も残すところ1か月となった。今はもう2月の半ばになる。
流石に2か月も行動を共にしていると、互いの関係も自然なものになっていた。あのソラでさえ、シンやヒロの冗談に思わず口元を綻ばせる時もある。いつもの営業用のような穏やかな微笑ではない自然な表情の変化が嬉しい男2人だが、はっきり言って恋愛に関しては一向に進展していない。
シンに至っては、もう半分くらい諦めの心境だが最後のチャンスに賭けるというくらいの意気込みだけはあった。
シンのソラに対するアタックが精彩を欠いているのは、捨てられずに持っている小さな紙片のせいなのかもしれない。以前クリーニングに出す前に、コートのポケットから出て来たやつだ。
『ごめん 帰ったらちゃんと謝る』
と書かれた小さな紙片は、こちらに来る前に喧嘩別れした相手。
腐れ縁としか言いようのない長い時間を過ごしたその女性、小夜子は同じ職場の同僚だ。
そんな小さな紙きれが、どうしても捨てることが出来ないまま、今もスーツの内ポケットに入っている。その存在に気付くたび、どうしても彼女の顔が浮かんできてしまう。苛立ちさえ感じる自分の状況だが、為す術もないまま今に至っている。
ヒロの方は、情報集めに忙しかった。ソラに関するものもそうなのだが、例の『NSAP』の事が気掛かりで あちこちと連絡を取り合っている。それ以外に、自分自身に関する仕事も片づけていたのだ。
そんな中、本部から連絡が届く。臨時とは言えチームとなってる3人への、正式な捜査依頼だった。
『NSAP』に関するFOIの捜査は、かなり進んでいた。現在は、深く関与しているクラップスという犯罪組織の調査がメインである。その中で、クラップスの息が掛かっている研究施設が幾つも洗いだされたのだ。そのうちの1つ、市内から車で1時間程度の郊外にある研究所に潜入調査をするというのが、今回の依頼内容だった。
ソラのパジェロが山道を登ってゆく。生憎天気は、今にも雨が降り出しそうにどんよりと曇っている。見える景色は森林ばかりだが、時折開けた場所に出るとゴツゴツした岩が点在していた。つづら折りの山道は目的地に近くなる程狭くなる印象だが、一応2車線ある。右側の擁壁の上には木の枝が張り出し、左側はうっそうと茂る森林なのでそう感じるのだろう。
対向車もないまま走る山道の先には、大きな研究施設があるだけだ。
「正式名称は『青少年自然科学館』だったっけか。育成センターなんだよな」
後部座席のシンが問いかけ、ヒロが話し出す。
「ええ、そうです。展示物は無く、この辺りの動植物を観察しながらグループで歩くミニツアーというのがメインですね。完全予約型で滞在も可能な施設があります。スタッフがガイドをしてくれて、老年層にも人気があるようです。僕たちが今回捜査するのは、そこに併設されている研究施設です。そちらのほうは一応『中米動植物研究所』となっているようです」
『NSAP』の原料となる何かが、中米にあるらしいことは解っている。こんな名前の研究所にクラップスの息が掛かっているのなら、かなり怪しいと言えるのではないだろうか。
「とりあえず僕たちは、自然体験をしにきた3人組ということで宿泊予約をとっています」
この3人で自然体験ツアーってどうなんだ?と思わないでもないシン。
確かに視覚障碍者と聴覚障碍者がいて、おまけに捜査官と刑事なのだ。一応怪しまれないよう、いつもと違う服装にはしてきているが。
ちなみにソラは、以前一度だけ見た似合わない古着セット、ジーンズに古ぼけたネルシャツを羽織っていて 頭にはキャップを被っている。キャップの後から覗くポニーテールが普段より可愛らしく見えるし、自然体験のツアー客ならこれもアリかもしれない。
まぁどんな人間にだって、自然の中でリフレッシュする権利はあるしな、と無理やり自分を納得させるシンであった。
駐車場に車を停め、玄関まで少し歩くと『森と緑の自然科学館へようこそ』と書かれた看板が目に入る。自動ドアから中に入るとそこはロビーのようで、観葉植物の間にソファーセットが幾つも置いてあった。ツアー参加者らしい人々が数名、楽しそうに語らいあっている。端の方にカウンターがあって、そこが受付のようだ。
「ビートも連れてきてやれば、喜んだだろうな」
受付スタッフが来る間、シンがソラに話しかける。
「そうですね。でもここの施設は、ペットは犬しか許可されないんですよ」
長い留守番でも、ビートは自分の面倒は自分で見られるのだという。流石に賢すぎるヨウムだ。
そこにスタッフがやってきて、手続きをしてくれる。
スタッフの名札には『ジェフ・リード』の文字があった。
3人はそれぞれのルームキーを持って、各自部屋に入った。
雨が降ってきていた。ヒロはロビーの窓辺に立ち、少しずつ激しくなる雨音を聞いている。風も出てきたようで、今晩は嵐になるかもしれない。するとそこに、先ほどカウンターで受付をしてくれたスタッフが近づいてきた。
「生憎のお天気になってしまいましたね」
穏やかな声で話しかける男性は、その雰囲気の通り快活な青年なのだろう。
「ああ、リードさんですね。嵐になりそうな音です」
「ジェフで結構です。今日の夜にはいったん晴れますが、今晩は本格的に降って明け方に止むという予報なんです。ツアーは足元が危ないので明日の午前中は中止になると思います」
そこにソラとシンがやってくる。2人で館内のチェックをひと通り済ませて来たらしい。二人はジェフに軽く頭を下げると、簡単に自己紹介して会話に加わった。
「そうすると今日と明日の午前中は、何してればいいのかねぇ」
シンが肩をすくめて言う。展示物があるわけでもない館内で、何をして過ごせばいいのやら。
「そうですね、こういう時は皆さん各自のんびり過ごしていらっしゃいますが・・・今、こちらに滞在しているのは2グループ、5名なので少ないんですよ。団体ツアーもありませんし」
ジェフの言葉に、ふと思いついたようにヒロが聞く。
「こちらに併設されている研究所は、見学できないのでしょうか?僕は見て回ることはできませんが、雰囲気だけでも味わえれば嬉しいのですが」
「ああ、そうですね。でしたら館長に聞いてみましょう。研究所に連絡を取ってもらえるかもしれません。上手くいけば、ですが」
ちょっと意味深な言葉を最後に付け加えて、ジェフはカウンターに向かった。
暫くして3人は研究所の入り口に立っていた。
「実は2年前まで、こっちの研究棟1階は展示室になっていたんですよ。今は当時の展示物は半分ほどに減ってしまって、あの奥の部屋に押し込んでいるような感じなんです。見学しにくいかもしれませんが、ご容赦ください」
ジェフはそう言って、奥の部屋に案内する。ドアを開けて見れば結構広い室内だが パネルやら標本やらが雑然と置かれている。足の踏み場もないくらいで、埃が積もり黴臭いような臭いもする。
「ここの研究所の名前が変わったのも2年前くらいでしたっけ?」
ヒロが尋ねると、ジェフは苦々し気な口調で話し始めた。
「ええ、そうです。こっちの所長が変わりましてね、それ以来『中米動植物研究所』なんですよ。以前はこの辺りの動植物やその生態を研究してて、天体観測も夜のツアーに入っていたのでそれに関する展示とかもあって、ツアーに来る人たちにも好評だったんです。なのに何で、この場所で中米なのか?って感じですよ」
そこまで話して、ジェフはふいに声を潜めるように言う。
「実はうちの館長は、新しい所長と上手くいかないんです。館長はせめて1階だけでも元のようにして欲しいってずっと交渉中なんですが・・・近頃はもう犬猿の仲みたいになってて。なので、今回もよく見学の許可が出たなぁって」
成程ね、と頷きながらヒロは障害物ばかりの狭い通路を手探りで歩き始めた。するとそこに、ある程度の物を見終えたらしいソラがやって来る。
「標本やパネルを見たところ、この辺りにもそれなりに毒のある生物が生息しているんですね」
こんな質問をするのは、以前はFOIの薬学系研究室で研究員をしていたからなのだろう。
「ああ、はい。この近辺では目撃例はないんですが、沢1つ越えた向こう側ではガラガラヘビが目撃されたこともあります。なのでツアー客にはちゃんと説明して、ガイドするスタッフも注意していますよ」
シンも戻って来て質問を投げかける。
「そう言えば、自然科学館って医務室とかは無かったよな。怪我人とか出たらどうすんの?」
館内をひと通り歩き回った時、ちょっと疑問に思ったのだ。
「麓の病院と連携しているので、何かあったら連絡する感じですかね。でも簡単な治療なら資格を持ってるスタッフもいますので、今のところは問題ないです」
「・・・ッツ!」
会話が終わりかけた時、ヒロの声が聞こえた。どうした?とシンが振り返ると、ヒロが左手を舐めながら戻ってくる。
「どこかにちょっと引っ掛けたようです」
そんな台詞に、ソラが駆け寄って様子を見る。
「切り傷ですが、少し皮も剥けていますね。絆創膏でも貼りましょうか?」
「いや、大丈夫です。血も直ぐに止まりますし。でも、もうそろそろ科学館の方に戻りましょうか」
ヒロの言葉に物置のような展示室から出る3人とジェフだが、そこに入り口からいそいそと入ってくる1人の男を見た。
白衣を着たその男の手には、小さなガラス水槽があった。直ぐに玄関脇の階段を上がって行ったが、どこか気弱そうな雰囲気だ。そして男が持つガラス水槽の中に、ソラはコバルトブルーの鮮やかな色を見て取っていた。
その後は適当に時間を潰し、館内の食堂で夕食を摂った3人は ロビーで自販機のコーヒーを啜っていた。そこにまたもやジェフが近づいてくる。
「先ほど連絡があって、山道の一部が土砂崩れで通行不可になったそうです。でももう復旧作業が始まってるそうなんで、明日の朝には通れるようになりそうです。この辺りで、土砂崩れなんて凄く珍しいんですが」
取り合えず皆さんにご迷惑は掛からなそうですと言って、ジェフはニッコリと笑った。
「雨が止んで夜空が見えるようになったんですが、良ければ少し星空ミニツアーなんていかがですか?風も止んだので、気分転換に夜の空気を吸いに行くだけでも良いかと思うんですが」
根っからこの仕事が好きなのだろう。
少しでもツアー客を楽しませたいという、素直な応対が嬉しくなる。
「ああ、それは良いですね。夜の山の空気というのも、都会暮らしだとなかなか味わえないですから」
ヒロの言葉に、3人は自然科学館の外に出ることになった。
外は寒いですから、と言ってジェフはスタッフ用の防寒上着を3枚持ってくる。なかなか気が利く好青年だ。それを着て、4人は玄関から外に出た。2月の山中はかなり冷え込んでいるが、雨が降った後で風も無いからそれ程寒くはない。
ふとソラは、建物の右奥に人影を見つけた。直ぐにその人影は科学館の中に入ってしまったが、あの人も夜の空気を吸いに来たのだろうか。他の3人は気づかないようだ。
「本当は建物の裏側の、灯りが届かない場所が一番良いんですが・・・一応そっちが本来の星空ミニツアーのコースなんです。そのツアーは、館長が担当するんですよ。彼は天文が専門なので。僕は不勉強なので、さっき彼を探したんですが見つからなくて・・・」
説明が足りないとは思いますがと言うジェフの案内で来た場所は、建物から近い駐車場の奥だった。街灯が遠く科学館の灯りも殆ど届かない。
「ここでもかなり見えると思います」
そんな事を言いながら足元を照らしていたジェフの懐中電灯が、少し先にある柵の手前の黒っぽい塊を照らした。
「ーーーー!」
ひと目で黒い塊の正体を知ったシンとソラは、芝生の上に横たわる人物の傍にしゃがみこんだ。
「・・・死んでるな」
「まだ暖かいので、亡くなったのは私たちがまだロビーにいた頃だと思います」
シンはすぐさま立ち上がり、周囲の様子を探る。死因が何にしても、もし殺人であるなら出来るだけ早く辺りを見ておかなければならない。けれど何も見つからず、懐中電灯で死体を照らす役に徹する。
ソラは被害者の頭部から、確認作業を進めている。ヒロも仰向けになってる死体の足元にしゃがみこんだ。そこに漸く衝撃から立ち直ったらしいジェフが恐る恐る近づいて、被害者の顔を見る。
「か、館長!」
死体は自然科学館の館長のものだった。
頭部から順に調べていたソラに、ヒロが声をかける。
「ソラ、左足です」
見れば確かに、ヒロによって捲り上げられたズボンの下、足首辺りに小さな傷が2か所あった。出血は多くないが、小さな穴が開いているように見える。
「・・・ガラガラヘビでしょうか」
ジェフが震え声で問いかけた。
「いえ、この寒い時期にヘビは活動しません。そう見せかけた殺人ではないかと。傷跡の位置から推測すると、紐を使ったブービートラップの可能性があります」
ブービートラップ。
道に紐を張って、引っ掛けると針が発射される類の罠だ。ソラの冷静な発言に、ヒロも頷く。
「針を2本、ヘビの牙の間隔にしてセットしたようなものでしょう。左程大きな装置を必要とするものではないでしょうね」
「針ならこっちにあったぜ」
そこにシンが、少し離れた場所に落ちている2本の針を懐中電灯で照らした。おそらく被害者が、咄嗟に自分で抜き捨てたのだろう。トラップが仕掛けられていたのは、建物の裏へと続く小道のどこかだと思われる。そちらは背の高い草が所々に生えていた。そこでトラップに掛かり、よろよろとここまで歩いてきたのだろう。
「はい、針についていた毒はガラガラヘビのものではありません。これは・・・バトラコトキシン、カエル毒だと思います」
ソラは傷口を触り、針の先端にも触れながら答える。
粘性があるごく少量の液体、その臭いを鼻先で確認しながら言う。普通の人間なら感知できないくらいのものでも、触覚と臭覚に優れているので解るのだ。ついでにその知識量も膨大である。
そこでソラは、ハッとしたようにヒロの左手首を掴んだ。
「ヒロ、触りましたね!」
ヒロの左手の人差し指には、先ほど見学中についた傷跡があった。もうとっくに血は止まっているが、皮が剥けた部分がある。そしてその場所には、被害者の物である血が僅かに付着していた。
「バトラコトキシンは粘膜から吸収されます。その致死量は極めて少ない。傷口から入っている可能性があるので、直ぐに病院に行かないと」
今のところヒロの様子に変わりはない。けれど、緊急事態なのは確かだ。ソラは早口でそう言うと、次々に指示を出した。この場合、上司であるヒロは指揮権を行使する立場ではないとの判断だろう。
「シン、館内に戻ってください。後の事は全て任せます。私はヒロを麓の病院へ運びます。ジェフさん、すみませんが一緒に来てください」
シンは即座に科学館の玄関に向かって走り出した。やる事は沢山ある。けれど何をどの順番でやるのかは、刑事である自分にはよく解っていた。
ヒロはジェフと一緒にパジェロの後部座席に座る。だいぶ落ち着いてきたジェフは、ヒロに対して最大限の気遣いを見せていた。ヒロも、自分の状況は解っているので落ち着いている。
ソラは後部座席の準備が整うまでの間、スマホでどこかと通話していた。
「・・・はい、バトラコトキシンの抗毒素血清を・・・はい、その病院へ。30分以内で・・・」
通話が終わると、周辺地図の詳細を表示して全てを記憶する。
「ジェフさん、2人とも体をシートベルトをしっかり固定してください。ヒロ、難しいと思いますが出来るだけリラックスした状態を保って下さい」
ジェフは慌ててヒロにシートベルトを着けながら言う。
「は、はい・・・でも、道路は土砂崩れで通れないってさっき・・・」
その言葉には答えず、行きますとだけ告げてソラは車を発進させた。
土砂崩れ現場の前まで来たパジェロは、いったん停車する。フロントガラス越しの状況は、夜目が利くソラにはっきりと見て取れた。
「・・・やっぱり無理なんじゃ」
ジェフの焦るような言葉に、ソラは落ち着いた声で告げる。
「揺れますが、我慢して下さい。ショートカットします」
その言葉が終わらないうちに、パジェロを少しバックさせる。そしていきなり右側の森の中に 車は飛び込んだ。
木々の間にできた車幅程度の隙間を、縫うように走る。
低木が作る藪は突き破り、時折目の前に出現する岩を避ける。
かなりの勾配がある下り坂を、大して減速せずに走る車の中で、ジェフはパニックになっていた。
視覚効果付きのジェットコースターが、休みなく下ってゆくような感覚。
身体は上下左右に振られるから、まるで洗濯機の中にいるような気もしてくる。
目の前にいきなり出現する木の幹や枝、大岩や藪。
そしてそれらが、いきなり視界から消えては次のが目に入ってくる。
そんなとんでもない運転は、ソラの視覚関連能力の高さと恐ろしいほどの反射神経がなせる技なのだろう。時折チラッと夜空を眺めて、その星の位置から方角を割り出し 進行方向に修正を加えながらハンドルやギアをこまめに動かす。
本来なら安静状態で搬送するのがベストなのだが、この場合は時間を優先させた方が良いと判断したのだ。30分以内に麓の病院へ到着すること。それが現在の最重要事項だ。どの程度の量のバトラコトキシンがヒロの体内に入っているか、正確なところは解らない。だが現在の状態を見たところでは30分以内に処置をすれば、おそらく大丈夫だろうと思える。
時折舗装道路に出ながらも、殆ど山岳ラリーな走行を続けたパジェロが病院に着いたのは出発から25分が経過した時だった。
ソラが出発前に連絡したのはFOIの本部で、迅速に対応してくれたらしい。救急外来の玄関前に車が付いた時は既に、医師や看護士がストレッチャーを準備して待っていた。抗毒素血清もついさっき届いたところだという。
ソラはストレッチャーに乗せられたヒロについてゆき、身分証を見せて点滴速度などの処置方法を指示する。それ以外は黙って医師の治療を見守っていた。流石にここまで来て、ヒロの体調はかなり悪くなっているように見える。
やがて医師は、ホッとしたように言った。
「体内に入ってから処置を受けるまでの時間が短かったのと、入ったバトラコトキシンの量がとても少なかったのが幸いしましたね。しばらく安静にしていれば明日の朝には動けるようになると思いますよ」
できれば数日入院した方がいいかもしれませんが、という医師に深く頭を下げて、ソラはとりあえず入院手続きをお願いしておく。
医師と看護士が病室を出たあと、ソラはヒロの寝顔を見下ろしながらベッドサイドに立っていた。
ヒロの傷口がバトラコトキシンに触れたと解った時から、胃の辺りに奇妙な感覚が生じた。重苦しいようなギュッと掴まれるような。そしてそこからせり上がるような、嫌な感覚。それはそのまま脳内に侵食するような熱で、自覚するとどこかでシグナルが鳴るような気がする。
それが『怒り』であることを、ソラは知らない。
ただ、状況が自分にとって良くないことだと感じている。だから警報が鳴るような気がするのだ。
早く蓋をしろ、とでもいう様に。
ソラは一度キュッと口を結ぶと、小さく深呼吸をしてから 眠るヒロに向かって静かに告げる。
「シンの所に行きます」
病室から出ると、廊下の長椅子に座るジェフの姿があった。完璧な車酔いになっていて、顔は真っ青で体は小刻みに震えている。手には貸してもらったらしいバケツを抱えていた。
「科学館へ戻ります。ヒロをお願いします」
今は乱暴な運転を謝る暇さえ惜しいとばかりに用件だけ告げると、ソラは急いで外に出てパジェロのハンドルを握った。
土砂崩れの現場まで来ると、工事用車両はもう作業を始めていて その手前には警察車両が数台停まっている。シンが所轄の警察に連絡したのだろう。ソラがパジェロを止めると、一人の警察官が走り寄ってきた。
「おい、通行止めだ。引き返してくれ」
その言葉にソラは黙って身分証を見せると、車から降りて問い返す。
「通行可能になる予定時刻は?」
「はっ、午前6時ごろの予定です」
サッと態度を変え、敬礼と共に答える警察官。
するとソラは車内に置いてあった自分のバッグから装備であるウィップを取り出すと、装着しながら擁壁を見て言った。
「先に行っているとお伝えください」
そして、は?と口を開けた警官を尻目に、擁壁に向かってダッシュしその出っ張りに足の爪先を掛けるようにして上に飛ぶ。次の瞬間、右手から伸びたウィップは擁壁の上に腕を伸ばした木の枝をしっかりと捕え ソラの体はあっという間に擁壁の上にあった。
科学館の中で、シンは大忙しだろう。遺体の運び込みやら一時安置やら、その時館内にいた容疑者の可能性がある者達の足止めやら。おそらくブービートラップの装置はもう既に回収されているだろうが、犯人がそれに使用したカエル毒バトラコトキシンを他にも持っていることは間違いない。
研究所から出る時に見かけたガラス水槽の中のコバルトブルー。あれはヤドクガエルだ。きっと他にも飼育しているのだろう。そこからバトラコトキシンを採取したのなら、それはある程度知識があって慣れた人間、つまり研究員である可能性が高い。
しかし、ただの研究員が館長を殺害するには動機が弱いのではないだろうか。
仮に、館長がクラップスについて知ったとしたらどうだろう。クラップスが以前から館長を排除しようと考えていたなら、その機会を窺って彼の行動パターンを調べておくだろう。そして館長をこっそりと見張り、彼が夜1人で外に出る様子が解ったら先回りして罠を仕掛ければ良いのだ。失敗しても、罠は回収して次の機会を待てば良い。
そしてクラップスが研究員を丸め込んで、或いは脅して、罠を仕掛けさせたのだとしたら。
先ほど科学館を出た時に見た人影が、罠を回収したその研究員だったとしたら。
時間が無い、とソラは考える。
あの後、シンは直ぐに科学館に戻った。罠を回収して館内に戻った研究員は、駐車場に行く自分たちに気づいていたように見えた。そうしたら気になって、その後の展開を見ようと館内にとどまる筈だ。
シンは館内にいる人間を全てロビーに集めていることだろう。その中に、犯人がいるということだ。
研究員がそこで何かをする危険よりも、クラップスが口封じをする危険が大きいとソラは考える。
夜明けが近い。土砂崩れによる道路の封鎖は6時ごろに解除されるという連絡は、科学館にも入っているはずだ。朝になれば警察が来る、と。研究員である犯人は、逮捕されれば直ぐにクラップスとの関与を白状することだろう。その前に口封じを決行するに違いない。
シンにも危険が及ぶ。
クラップスの口封じに気づいたら、それを阻止するために必ず動くと思うから。
しかし、それ以外にもソラの中には何かがあった。
夜の山の中、再び強くなった風雨の中で移動しながらも消すことが出来ない嫌な感覚。蓋をしろと警告するようなシグナル。けれど今はどうにもならないと、無視するしかない。
けれど嫌な感覚は、急げと叫ぶかのようで・・・
その頃、ヒロはベッドの上で目覚めた。匂いで病院だと直ぐに解り、枕元のナースコールを探って押す。ややあって看護士と、廊下にいたらしいジェフが病室に入ってきた。
ジェフと看護士から話を聞き、ヒロは車中ではリラックスするために考えないでいた事件の詳細を 改めて考えだす。そして直ぐに結論を導き出した。
科学館に戻ったというソラとそこで待つシンが危険だと判断し、車を手配するようジェフに頼む。
「数日は入院予定なんですよ」
呆れたように言う看護士に、ヒロはニッコリと笑った。
「視覚障碍者でも、僕は頑丈でタフなんですよ」
ソラは嵐の山の中を、ウィップを駆使しながら移動していた。もし誰かが見ていたら、サルかムササビか 日本人だったら烏天狗を連想したかもしれない。風で揺れる木々の中から、適切な枝を探しつつ連続で飛び移ってゆく。地上を行くよりはるかに速い移動速度は、科学館までのショートカットでもあるため 30分程度でソラを目的地に到着させた。
木の上から駐車場の外れに着地したソラは、そのまま真っすぐに玄関を目指す。
自動ドアが開くと同時に中に飛び込んだソラの眼に映ったのは、カウンターの陰から覗く吹き矢の筒とそれが狙っている男の姿だった。
室内に飛び込むと同時に被っていたキャップを取り、フッと吹かれた吹き矢の軌道に向かってそれを投げる。同時に狙われていた男、館長殺害の直接の犯人である研究員にダッシュで飛びついて押し倒した。吹き矢はキャップに絡めとられて、すぐ傍に落ちた。
室内は騒然となった。吹き矢男はカウンターから立ち上がり逃走に入る。シンは気づいて追いかけようとする。ロビーにいたツアー客たちは悲鳴をあげて奥に逃げようとしていた。
そこに、警官たちとヒロが姿を現した。
土砂崩れ現場に着いたヒロが、かなりのゴリ押しで車1台分だけの幅を作らせ まだ危険だという声を無視して警察車両を走らせてきたのだ。
そんな中、ソラは周囲の様子にも構わず、倒れた研究員に向かいあっていた。
「貴方がトラップを仕掛けたのですね」
無表情な顔と冷たい声。
気弱そうな研究員は声も出せず、ただ必死に首を横に振る。
ソラは傍に落ちていたキャップの中から吹き矢を取りだして、男の目の前に突き付けた。
「ここに塗ってあるのは、貴方が採取したバトラコトキシンですね」
男はヒィッと喉を鳴らし、真っ青な顔で口をパクパクするだけだ。
「貴方にそうするよう仕向けた組織の名は?」
ゾッとするような空気がソラの周りに立ち上る。
冷酷とさえ言えるような笑みが口元に浮かんだ。
ソラは男の目の前で、吹き矢の先端に人差し指を付け 矢に残った液体を絡めとるように塗り付ける。そして躊躇せずに男の鼻をつまむと、たまらず開いた口に指を差し入れようとした。
男は自分が採取したカエル毒の効果を熟知していた。恐怖で顔面が蒼白になる。
次の瞬間、彼は叫ぶように声を出した。
「は、はいっ・・僕がっ・・・やりました。クラップスに言われてっ!」
研究員が自白すると、間髪入れずソラの指が口の中に差し込まれ 粘膜に指先を擦り付ける。
その瞬間、男は絶叫をあげその場に倒れ伏した。
その様子を、吹き矢男の追跡を警官に任せて戻ってきていたシンが見ていた。
ヒロもいつの間にかソラの傍に立っている。
「・・・おい、ソラ・・・」
シンが声をかけるが、それ以上の言葉が出てこない。
「・・・入れたのは中指です。気絶しただけです」
そう言って立ち上がったソラの顔は、床に転がる男よりも蒼白だった。
「手を洗ってきます」
二人の顔を見ようともせず、トイレに向かうソラの後を追ったのはヒロだった。
洗面台の前で手を洗いながら、ソラは酷い頭痛と吐き気をこらえていた。
ずっと頭の中で響いていたシグナルのような感覚が、研究員の男と対峙した時に最高潮になった。
その後の行動を覚えてはいるが、何故そんなことまでしたのか理由が解らない。
もう一度あの時の行動を思い返した途端、胃液がせり上がって来て止めることが出来なくなる。
ソラは洗面台に向かって何度も嘔吐を繰り返した。
頭がガンガンする。
ヒロは女子トイレの前で待っていた。流石に時間がかかると思ったが、中に入るわけにもいかない。誰か通りかからないかと辺りを窺ったところで、ドアが開いた。
「ソラ!大丈夫ですか?」
ふらつきながら出て来たソラは返事もろくにできないようで、廊下の壁にもたれかかる。
「・・・すみません・・・」
なぜこんなに早く、ヒロがここに来れたのかを聞くことさえできない。
何とか呟くソラの腕を手探りで掴み、ロビーの隅にある長椅子に誘導する。観葉植物の陰になるその場所には、ロビーの騒ぎもあまり聞こえてこない。
「ここに座って」
そう言いながら自分もその隣に腰を下ろす。微かに酸っぱい臭いがして、嘔吐していたのが解った。きっと顔色も真っ青なのだろう。ひと晩中行動した身体的疲労も激しいと思うが、それ以上に精神的な何かの負担が大きいようだと思う。
ヒロはそっと手を伸ばして細い肩を抱くと、静かに引き寄せた。
そのままもたれかかるソラの身体は、どこかひんやりとして心もとない。
けれど抗うことのない上体は柔らかく、肩に乗った頭から漂う香りはいつものソラの匂いだ。
そんなことを考えていると、ヒロの体にかかる重さがすぅッと増える。
そこまでが限界だったのだろう。ソラは気を失うように深い眠りに落ちていた。
シンが近くにいないかと辺りを窺うが、どうやら捜査に加わってロビーにはいないようだ。
ソラを部屋で寝かせたいと思っていたところに、ジェフが近づいてきた。
「あの・・・大丈夫ですか?」
丁度体が空いたのだろう。ロビーの片隅で長椅子に座る二人の様子に気づいたらしい。ヒロはこのスタッフに任せようかと一瞬思ったが、それはしたくないと思い返す。
そしてソラの体の下に手を入れると、意を決したように抱いて立ち上がった。
(ああ、シンが言ってた通り軽いですね)
軽いだけでなく、すっぽりと腕の中に納まる感覚。柔らかな体の感触に、胸の中が暖かいもので満たされるような気がした。
これは愛しさなのだ、と実感する。
そして、自分でもソラを抱き上げることができた喜び。
「疲れ切っちゃったようなので休ませたいのですが、このまま彼女の部屋まで僕を誘導して貰えませんか?」
ヒロは微笑みながら、ジェフに頼んだ。
そしてそんな様子を、ロビーに戻ってきたツアー客たちが見ている。騒ぎを聞きつけた研究所のスタッフたちも来ていて、遠くからロビーの様子を窺っていた。
その中で、白衣の集団の後方からジッとヒロの姿を目で追っていた1人の男がいた。鋭く粘りつくような嫌な視線を、けれどヒロは気づかなかった。
ソラをベッドに寝かせて、その頬にそっと手を伸ばす。触れた頬には、微かなミミズ腫れがあった。他にも泥が付いている場所があちこちにあるらしい。この嵐の中、森の中を抜けて来たのだからこうなるのは当たり前かもしれない。ヒロは彼女の補聴器をそっと外し、ベッドサイドに置く。
「すみませんが、ホットタオルを用意して貰えませんか?」
ジェフに頼むと、自分はソラの荷物から着替えを探す。任務中なので寝間着は持ってこなかったようだ。何時でも行動できるよう、そのまま寝るつもりだったのだろう。それでも何とか着替えの白いシャツを探し出し、ついでに携帯用の薬が入ったポーチも取り出す。そしてジェフからホットタオルを受け取って、後はこちらでやるからと言った。
ジェフが出て行ったあと、ヒロはどことなく嬉しそうにソラの世話を始めた。
顔と手足をホットタオルで拭いて、あちこちのミミズ腫れにポーチの中にあった軟膏を薄く塗る。それから濡れて汚れたネルシャツとジーンズを脱がせた。
ソラが起きる気配は全くない。
楽な方がいい筈だ、とブラジャーのフロントホックを外して脱がせる。
(見えてないから良しとしますか・・・)
心でそう呟きながら、最後にシャツを着せた。
そして暖かそうな毛布を肩まですっぽりと掛け、ホッとひと息つく。
ソラが気絶するように眠った原因、精神的な負担は何だったのだろう。
あの男と対峙している時の彼女の雰囲気は、尋常ではなかった。
自分には見えなかったけれど、あの時は傍にシンがいたはずだ。後で聞いてみるしかなさそうだ。
ヒロはそう思いながら、眠るソラの額にそっと唇を落とすと、静かに部屋を後にした。
結局、自然科学館併設の中米動植物研究所への、3人の潜入調査はそこで中止となった。
騒ぎがひと段落した後、警察が研究所の方も徹底的に捜査したからである。その結果、やはりそこがクラップスの持つ研究施設の1つであることが判明したのだ。
ただ、『NSAP』がそこで製造されたらしい痕跡はあったが、その製法や原料の殆どは運び出された後であった。
ヒロたちのチームは、一旦ホテルへと帰りその後の指示を待つ形となった。
そしてその晩、ヒロはシンにあの時のソラの様子を聞いてみる。
「あ~~、あの時ナ。・・・確かにソラはおかしかったと思う。って言うか、今まで知らなかったソラを始めてみたような感じだった。そうだな・・・ソラを怒らせると怖いって、あの時俺は思ったぜ」
シンは思い出しながら言った。
そして話が終わってシンが寝室へ引き取ると、ヒロは黙って考えだす。
ソラが怒った?
そう言えば、彼女が怒ったり泣いたりすることは今まで一度も無かった。
今回、その怒りの原因は何だったのかはとりあえず置いておいて、彼女の感情について考えてみる。
それが精神的負荷の原因ではなかったのか、と。
ソラの心の中にある欠けた部分、それを覆うような殻、守るような鎧。
それはおそらく、彼女が今まで生きてくるのに必要なものだったということは 何となく解る。
けれどそんな殻や鎧は、時として彼女を苦しめる存在にもなるのではないだろうか。
彼女の助けになりたい。
欠けた部分を補い、殻や鎧が無くなればソラはもっと自分らしく生きられるのではないだろうか。
そして彼女の助けになることが、自分自身のためにもなるような気がするのだ。
自分がこれほどまでにソラに惹かれるのは、きっとそれが心の奥で解っているからだろう。
ではそのために、自分はどうすればいいのか。
ヒロの思考は果てしなく続いていた。