4 ショッピングモールと小さな部屋
12月の街中は、リズミカルなクリスマスソングが流れ、寒いながらも人々はどことなく楽し気だった。
ちょっとした捜査要請を1つこなして、その報告をしにFOI本部に赴いた後、港に隣接するショッピングモールに足を延ばしたヒロ・ソラ・シンの3人である。
研修が始まって以来、買い物に出たことも無かったシンに、こういう場所を見ておくのも良いですよ、とヒロが誘ったのだ。広大な駐車場にあふれる車の数に人混みが想像されて、ちょっとげんなりしながらも、一通り店舗を覗いてみる。
「感想はいかがです?シン」
そこそこ多い人通りをソラのアテンドで上手く避けながら歩くヒロの左手は、彼女の右腕に添えられている。優しく細い腕に触れているその手が、何だか妙に羨ましいシンは軽く仏頂面で答えた。
「日本とあんまり変わらないな。店の名前も知ってるの多いし」
ブラブラと歩きながら、ふと気づけば、すれ違う男たちの視線がソラに集中しているのが解る。思わず見とれて視線が外せず、それに気づいた傍にいる彼女に腕を抓られている若い男もいた。
今日のソラは、いつものパンツスーツ姿だが、だいぶ寒くなってきているので、薄手のロングコートを羽織っていた。おそらくそれも、アンジーからのプレゼントなのだろう。ウエスト辺りが細くなっているAラインのもので、ウエストより少し上に切り替えが入っている。色はダークグレーでシングル。飾り気のないデザインだが、スラリとしたソラの体形を引き立てて、凄く似合っていると思うシンだ。
(俺と腕を組んで歩いて欲しいモンだぜ・・・)
そんな美人が、白杖にサングラスといった、視覚障碍者だと一目でわかる男のアテンドをしている。
通行人にしてみれば、どんな関係?とつい思ってしまうに違いない。
しばらく歩いていると、50メートルほど先の方で、何やら人だかりができていることに気づいた。
「・・・悲鳴も聞こえますね。行きましょう」
聴覚が鋭いヒロがそう言って、3人は足早に近づいていく。そこは広いモールの、長い通路の途中に設けられた円形の広場だった。吹き抜けになっている天井から自然光が差し込んでいる。
その真ん中で、1人の大男が女性の腕を掴みながら大声をあげていた。
そして男の右手には、大ぶりのナイフがあった。
「状況を説明してください」
男と女性を遠巻きにしている人々の後で、ヒロが冷静な声で告げる。
「でけぇ男が、女性を人質にしてるってところか・・・」
「身長6フィート、体重は250ポンド前後だと思います。右手にファイティングナイフ、古いランドールタイプを持って、左手で女性の腕を拘束。ナイフは女性の喉元に当てられています」
報告を聞きながら、ヒロはあたりの空気を鼻で吸い込んだ。
「麻薬中毒患者特有の、呼気の臭いを微かに感じます。男の顔はどうですか?」
「ああ、そのものズバリの顔と興奮状態だ。ヤバいぞ、これ」
シンの顔は、キュッと引き締まり、刑事のそれになっていた。
緊急事態だ。
「制圧します。命令を」
落ち着いた声で、短く言葉を投げたソラに、ヒロはきっぱりと答えた。
「ソラ、シン。女性を救出し、男を制圧してください」
「了解」
同時に応える二人。
「シン、男の後方へ。女性の保護を任せます」
ソラはそう言いながら、素早く人混みを縫って男の前方へと走り去った。シンも素早く後方へ回る。
「どけって言ってんだろ!道を開けろよ、オラァ!」
血走った目で唾と汗を撒き散らしながら、男は遠巻きにする群衆に向かって怒鳴っている。人々はジリジリと後ずさりしていた。
「警察を呼んで来い!」
「警備員はまだかよ!」
そんな声だけがチラホラと上がっているが、手の出しようがない状況だ。
男は女性の喉元にナイフを当てたまま、千鳥足のような足取りで歩く。拘束されている女性は青ざめて震えていたが、気を失うことも無く自分の足で立って男に引きずられていた。気丈な質なのだろう、日本女性らしい見かけだが旅行客ではないようだ。
そんな事を見て取りながら、シンは男の後方で人垣の一番前に立っていた。男との距離は、5メートルといったところか。
「邪魔すんじゃねぇよ!どけつってんだろうが!」
男がナイフを見せつけるように振り回すと、男の進行方向にいた群衆がワッと動いて道を開けた。
その様子が見えているのかいないのか、男はナイフを左右に振りながら歩く。
「邪魔だぁ!どけぇ~~!」
しかし男の前にいたのは、群衆が開けた空間の真ん中に立つ黒髪の女性だった。
「あぁん、何だテメェ」
ソラの姿がやっと目に入ったらしい男は、少し間抜けな声で言う。
一瞬、見とれてしまったのかもしれない。
男が次の言葉を放つ前に、ソラは自然な歩様で近づき、提げていたショルダーバッグを肩から滑り落とす。男の視線がバッグに向き元に戻ったその時には、男の眼前1メールの位置まで体を運んでいた。
「ナンだ、美人さん。何か用か~~」
にやりと下卑た笑いを口元に浮かべ、それでもナイフをいきなり振りぬいた男。
ナイフの先端が弧を描く軌跡を読んで、ひょいと顔だけ後ろに引く。目の前ギリギリで通過するナイフの切っ先が僅かに横に流れた瞬間、彼女は一気に距離を詰めて男の胸元に飛び込んでいた。
左手で、ナイフごと左方向に流れた男の右手首を抑える。
そして同時に右手を男の胸に当て、左足の膝で男の股間を蹴り上げた。
ソラの一連の動作を、男を挟んで反対側で見ていたシンは驚嘆した。
(は、早っ!)
姿が見えてから数秒で、ソラの左膝は男の急所にめり込んでいる。ロングコートの裾が翻るのを、シンは不謹慎ながら綺麗だと思わずにいられない。
「グアッ!」
流石に呻いて前かがみになり1歩後退した男だったが、麻薬のせいでアドレナリン出まくりなのだろう、僅かに女性を掴む左手が緩んだだけだった。
しかしその隙を見逃さず、シンは一気にダッシュして、女性の体を掴み自分の方へ引き寄せる。
「クソっ!」
しかし、女性の腕が男の手から離れる前に、再度しっかりとその左手は握りしめられた。
「ヤバっ」
タイミングが一瞬遅かった。
その直前、男は痛みを堪えながらソラの手から右腕を自由にしていた。腕力では敵わないと解っているソラは、体勢を立て直している。
「コンチクショーっ!」
叫びながら男がナイフを向けた先は、女性の胸元。
目の前を通り過ぎるナイフの先端を見て、ソラは咄嗟に右手を出した。
女性を庇う様に差し出された腕は、ナイフの先端を受け止めた。同時に全身で体当たりしたので、男の上体が仰け反る。ナイフの軌道も変わり、先端1センチほどをソラの腕に埋めたまま横に流れた。
パッと散った鮮血の中で、ソラは軽く屈んで勢いをつけ、今度は右膝を、力を込めて男の股間にめり込ませる。
同じ場所への前回よりも更に強い衝撃に、男の体は仰向けに倒れこんだ。股間を抑えることも出来ず、白目を剥いて泡を吹く男の体に、ソラは流れるような動作で馬乗りになる。
右膝を男の鳩尾に乗せ、動きを封じてから小さく呟く。
「失礼」
そうして右手を男の汗にまみれた首、頸動脈の上に当て、左手も添えて体重をかける。
ソラの右腕から血が噴き出して男の首にかかった。
そして白い指先がめり込むと、男は完全に失神した。
ゆっくりとソラが立ち上がると、息を吞んで見守っていた人々の中から拍手が起こる。そんな時、やっと警官数名と警備員が人垣をかき分けて到着した。
ヒロが歩を進め身分証を示し説明すると、警官たちはサッと敬礼する。後始末はこちらでやりますと言う警官に背を向け、ヒロはソラがいる方向に向かって急いで歩き出した。
ソラは左手で落としたショルダーバッグを拾い、中身を出そうとしていた。下げている右手の先から、ポタポタと血が滴り落ちている。
「ソラ、怪我しましたね。血の匂いが濃い。場所はどこです。大丈夫ですか?」
口早に心配そうに問いかけるヒロの言葉には、不安と確認できない自分に対する苛立ちが含まれている。
「大丈夫です。右腕ですが、深さも1センチ弱ですし、切っ先は筋繊維方向に流れたので」
早く治る筈です、と続ける。左手だけで、何とかバッグからミニタオルを取り出し、傷の上に被せたのは、これ以上フロアを汚したくないからだろう。
痛くないはずがないでしょうと呟きながら、ヒロは自分のポケットからハンカチを取り出し、手探りでソラの上腕部を確認すると、ギュッと縛って止血する。
そこに被害者の女性を警官に任せることができたシンが駆け寄ってきた。
「大丈夫か、ソラ!」
「はい、大丈夫です」
いつもの穏やかな笑みで答えるソラに、顔をしかめるシン。
「ソラ、右腕を胸の前まで上げて・・・そう、左手で押さえておきなさい。シン、とりあえず病院へ行きましょう」
いささか慌て気味なヒロの言葉に、今までこんな風に気遣われた経験がないソラは当惑していた。
「おう、ソラ、車のキーを寄こしな。運転は俺がするから。こっちに来る前に、国際免許にしてきたけど、無駄にならなくて良かったヨ。それに、一度でいいからパジェロを運転してみたかったしな」
ソラが口を挟む暇もなく、2人は彼女を連れて迅速にショッピングモールを後にした。
パジェロが到着したのは、FOI直属でその医局が管理している病院だった。研究所が併設されているが、病院部分だけでも日本の大きな総合病院くらいの規模がある。研修の初期、施設見学で訪れたことがあるシンは、迷うことなく救急外来の入り口に車を停めた。
「そんなに大怪我じゃないのですが・・・」
ソラの言葉はここに来るまで何度も繰り返されたが、その度に却下された。完全に諦めたらしいソラは、大人しく言われるがままになっていた。
処置が終わって、待っていた二人と合流したソラは、右手を三角巾で釣っていて、左手でコートと上着を持っている。
「大げさな格好になってしまいました」
と穏やかに微笑むソラに、あからさまにホッとした表情を浮かべる男2人だ。
「痛みませんか?」
「ここに来るまでも、全然痛がってなかったけどサ、痛くない訳ないよな?」
過保護か、と言えるほどの対応に、ソラは淡々と答える。
「痛いですよ。痛覚はちゃんとありますから。でも我慢できる範囲ですので。痛みには強い方ですし、この程度の怪我には慣れています」
確かに危険の多い職種なのだから、小さな怪我などしょっちゅうなのは解る。それでも、美人が傷つくのは見ていて痛々しいのだ。
ソラの言葉に複雑な表情を浮かべたシンとヒロだが、その時つかつかと近づいてきた白衣の男から声が掛かった。
「ソラ、今月のデータが届いていないんだが」
男はヒロと同じくらいの長身で、大層気難しそうな顔つきをしている。
「ヴィクター。すみません、3か月の長期任務中です。今月のデータは、今の診療時のもので代用してください」
「3か月もか・・・仕方がない、今月はそれでいいから来月以降は暇を見て、ちゃんと健康診断を受けるように」
データ?健康診断? とシンは頭に疑問符を浮かべる。
この男は医者らしいが・・・
「前回私が言ったことを忘れたのか。二度と会いたくない、と言ったはずだが」
「いいえ、ですから出来るだけ会わないようにしていましたけど・・・」
処置室から人気のない通路を使い、受付ロビーでも隅に居て、出来る限り目立たないようにしていたソラである。
「今回は、ヴィクターの方が私を見つけて・・・」
話しかけてきたのは、そっちの方ではないですか、と言いたかったに違いない。けれどそのセリフは中断された。
「ツッ」
パチッと言う音と、ソラの声。
「減らず口は叩くんじゃない。医師が患者に『二度と会いたくない』と言うのは『怪我をするな』と言う意味だ」
ヴィクターと呼ばれた医師は、捨て台詞のように言い捨てると、背中を向けてサッサと立ち去ってしまった。
ソラが、左手で額を押さえて振り返る。
「デコピンされてしまいました」
額の真ん中が赤くなっている。わずかに苦笑が混じったソラの笑顔。
「ソラ、今の方は?」
「ヴィクター・ドゥーデンヘッファー。ここの外科医を務めていますが、苗字が長いので皆、ドクター・ヴィクターと呼んでいます」
ソラは彼の説明を始めた。
この国の医療機関で、最高峰と言われるほどの病院がここだ。ヴィクターはここで天才外科医の称号を欲しいままにしている。およそ外科と名がつくものならどの分野でも、全てトップの手術技能を持っていて、現在は脳神経外科で活躍しているようだ。マッドサイエンティストと陰で呼ばれるくらいの風貌と雰囲気を持つ彼は、偏屈で扱いづらい人物のようだ。興味を持つと、変質的にそれに執着する性癖があるらしい。
「データってナニ?」
シンが、先ほど浮かんだ疑問を投げかける。
「私の身体に興味があるそうで、捜査官の定期健診のデータが、彼の所に送られるようになっています。ちなみに、トレーニングルームでの計測値も」
身体に興味がある、とはいささか語弊がありそうな表現だが、要はソラの身体機能に興味があるということだろう。FOIの捜査官には、月に一度定期健診を受ける義務がある。受けられない状況だと免除になるが、確かに労働者の健康管理は重要事項だ。
「彼はかなりの変わり者ですが、私もそうなので」
そう言ってソラは微笑む。自分が変わっているという自覚はあるようだ。
それでも、この変わり者同士の関係は、親しいと言ってもいいだろう。
何となくだが、ソラに親しい相手がいるように思えなかったシンは、少なからず驚いていた。
会計手続き、と言っても捜査官は基本無料だが、それが終わって病院のエントランスから出る。
「しばらくは、大人しくしていてくださいね、ソラ。右手が使えないと不自由でしょう?」
ソラが持っていたコートと上着をそっと取り、その肩にふわりと掛けながら、優しく話しかけるヒロに、ソラが淡々と答える。
「あ、すみません、ありがとうございます。でも、不自由はありません。両利きなので、左手で大丈夫ですし、こっちも普通に動きます。確かにウィップは多少使いづらいかもしれませんが、骨と神経に異常は無いので、通常通り任務に就けます」
にこやかに答え、三角巾の先から出ている手をひょいひょいと動かして見せる。きっと車内で三角巾も外してしまうのだろう。
「何針縫ったんです?傷の大きさは?」
傷の状態を見る事さえできないヒロが、問いかける。
「あ、いえ、医療用接着剤とテープ止めで塞いでいます。最新の接着剤が使ってもらえましたので。傷の長さは、12センチくらいでしょうか」
「それだと、やはり無理な力はかけないほうがいいですね」
そう言いながら、ヒロは彼女にウィップを使わせるような状況には決してするまいと思う。
絶対に傷口は開くはずだから。
「それよりも、服の方が・・・」
と、ソラは羽織っていたコートとスーツの右袖を見ながら言う。血で汚れ、ナイフで裂かれた袖口は、クリーニングと修理に出しても、どの程度元通りになるのか。どのくらい時間がかかるのか。
「どうしたものか、と考えています」
ヒトの体は軽傷なら放っておいても治る。けれど服にはそんな自己回復能力など無いわけで。
どうにも、自分の体に無頓着な想い人を乗せ、ホテルに帰る恋敵たちだった。
数日後3人の姿は、市街地の中にある大きなショッピングセンター内にあった。
先日の出来事で破損し汚れたソラの服は、やはりクリーニングと修理では完全に元通りにはならず、これで良いですと言うソラを押し切って、新しい服を買いに来たのである。
顔には出さないが、不承不承という雰囲気は隠せないソラだが、上司の方は至って上機嫌だ。
ちなみに、今日のソラは、以前埠頭に着ていった黒のパンツとボア付きジャケットを羽織っている。中には白いシャツブラウスを着ているが、寄せ集めで着たとはいえ、それなりに悪くない格好だ。
シンがスマホで検索し、破損したスーツとコートに出来るだけ似ている品を扱っている店舗を探す。そして、首尾よくそれらの品を見つけたわけだが、支払いになってヒロがカードを出した時に、ひと悶着あった。
「ヒロ、それは・・・」
困ります、とソラが遮った。確かに節約はしているが、必要経費を支払うことはできるし、何より自分の衣服なのだ。しかしヒロは、ニッコリ笑って言う。
「ちょっと早いですが、クリスマスプレゼントということで」
「いえ、それにしても、高すぎます、この値段は」
多分、アンジーがプレゼントしてくれたものも高かったのだろうと思うが、それさえもダメにしてしまったわけだし。
「僕とシンからですよ。受け取ってください」
2人分と言う事で、ソラにとっては辞退するなら両方に断らなければならない。労力は2倍だ。しかも、ヒロにとっては、シンに対してフェアプレイをアピールできるいい機会でもある。女性へのプレゼントには、おそらく慣れていないシンにとっても、これはありがたい筈だろう。
「あ、そうそう。俺からも、ってことで」
早速、その話に飛びつくシン。
(半額は絶対受け取ってもらうからな!)
と、心で叫びながらだが。
流石にソラも、これは断り切れないと観念したのだろう。
「・・・ありがとうございます」
と、言って深々と頭を下げたのだった。
ソラが、荷物は自分で持つと言い張ったので、ヒロのアテンド役はシンがしている。その後ろについて歩いていたソラが、急に立ち止まって声をかけた。
「すみません、ちょっとあのお店に寄りたいのですが」
「ん?ああ、いいよ」
シンが振り返って答えると、ソラはお礼を言って右手の店に駆け寄った。
そこは高級フルーツを扱う青果店だったが、流石におしゃれでちょっとしたブティックにも見える。果物屋のオヤジと言うより、フルーツショップのマスターと言う方が相応しい、垢ぬけた店主が愛想良く出てくる。
「あのフルーツは何ですか?」
ソラは店の片隅の籠に積まれている、薄緑色の果物を指さした。
「ああ、ホワイトサポテですね。中米の果物ですが、近頃そちらからの輸入品が多くなってまして、うちでも入荷してみたんですよ」
大きさはテニスボールくらい。半分に割って食べるのだろうか。
「甘くて美味しいですよ。いかがですか?」
と、薄っすら頬を赤くしてソラに勧める店主。ソラはホワイトサポテを1個購入した。
立ち止まって待つヒロの耳は、店主の話を聞きとっていた。
(そう言えば、あの密輸船も、中米から来ていましたね・・・)
埠頭で、ウィルから聞くことが出来た情報の一つである。
そこに、ソラが急いで戻ってきた。手には可愛くラッピングされた包みが1つ。
「ソラ、果物好きなのか?」
何だか可愛い、と思ったシンが聞く。
「これ、ビートにと思いまして。早めのクリスマスプレゼントにしようかと。近頃、留守番が多いので、拗ねがちなんです」
ふふっと笑いながら言うソラは、自然な表情を浮かべていた。
そして、いつもの穏やかな笑みに戻ると
「お2人へのお返しは後日・・・でも、私には何が良いか思いつかないので、考えて置いていただけるとありがたいです」
よろしくお願いします、軽く頭を下げるのだった。
荷物が多くなったのでソラの腕の傷を慮り、シンが全部持つと言いだす。もう傷口はほぼ塞がり痛みも無くなってはいたが、勢いに負けた形で荷物を譲り、ソラはヒロのアテンド役に戻った。車を停めた場所は第3駐車場の外れで、いささか遠かった。近道を行こうと言うシンの先導で、3人は道幅3メートル程の舗装の剝がれかけた道を歩いていた。
左手のビルでは解体作業でも行われているのか、耳を覆いたくなるような騒音が響いている。会話も難しそうな音に黙々と歩いていた3人だが、ふとヒロが足を止めた。
「・・・今、銃声が聞こえませんでしたか?」
補聴器のモードを変えていたソラには聞こえず、大音量の騒音の中から銃声を聞き分けるような聴覚は持ち合わせていないシンだ。それでも一瞬で身構え、周囲を探ってみる。
危険は無さそうだ。
しばらくそのまま警戒をしていたが、やがてゆっくりと歩き出す3人。この国では、銃声は大して珍しくもない。すると突然、後方から切羽詰まったような声が響いた。
「だっ、誰かっ!・・・来てくれ!誰か!・・・」
道路の真ん中で、辺りを見回しながら叫んでいる男がいた。背後の開け放ったドアから飛び出して来たらしい。
「どうした!何があった!」
素早く男に駆け寄るシンだが、見れば男の衣服は血まみれで、頑丈そうな体が激しい息遣いに揺れている。
「カーラが・・・お、俺の女が、いきなり、じ・・・自殺してっ!胸を撃って」
ドアの中を指さす。シンはそのまま中に入っていった。後から来たヒロはソラの腕を離すと、彼女に中に入るよう促し、男の肩に手を置いて落ち着くように声をかける。
「こりゃ、ひでぇナ」
家の中に入ったシンは、その場に立ち止まって呟いた。ドアが開いた先は小さな部屋。正面奥と左手奥に扉がある。そして小さな部屋の真ん中に、女が仰向けに倒れていた。痩せて小柄な女性は、胸を血で染めている。傍には大きな拳銃が落ちていた。
「どうぞ」
ソラは声をかけ、シンに使い捨てゴム手袋を渡す。そして自分も手袋をはめると、床に広がる血だまりに注意しながら、女性の傍らにしゃがみこんだ。
「シン、所轄に連絡を。ソラ、ここは頼みます」
そう言って男と一緒に家の中に入ってきたヒロは、大声でしゃべり続ける男を落ち着かせようとしているようだった。
「ちょっと、言い争いしてたんだよ。そっ、そしたらいきなり拳銃持ち出して・・・一体どこで買ってきたんだヨ、あんなの。持ってるなんて知らなかったサ・・・そこまで思い詰めてたのか」
「落ち着いて、別の部屋に行きましょう。話はそっちで、ゆっくり聞きますから」
所轄への連絡を終えて、ヒロの声をを聞いたシンが、近くの扉を指さす。
「こっち?」
「ああ、いや・・・そっちは彼女の寝室だ。奥の方、そうそっちが物置になってて・・・」
何とか答えた男と共に、ヒロは男と奥の部屋に入った。
ドアは開けておく。
シンが後から入って来て、中の様子を確認した。突き当りにあるドアは、裏口だろう。いくつかの荷物と木箱が並んでいる。2人が木箱に腰かけるのを確認すると、シンは小さな部屋に戻った。
「ソラ、どんな感じだ?」
静かに、かつ手早く遺体を調べていたソラが答える。
「心臓に1発、即死だったと思います。傍に落ちているその拳銃を使用したのは確かです」
頷きながら、シンは周囲の血だまりと血しぶきを確認する。だが詳しいことは見て取れないほど、床はぐちゃぐちゃになっていた。
するとソラは、開け放たれたドアの奥の部屋を窺うと、小声でシンに言う。
「シン、裏に回って奥の部屋の裏口のドアが、開かないようにして来てください」
シンは黙って頷くと、気づかれないようにそっと入り口から出て行った。
ソラに言われた通り裏に回って、その辺りにあった重そうなものを静かにドアの前に移動させ、裏口からは誰も出てこれないようにすると、シンは再び小部屋に戻る。ソラは一通りの事を調べ終えたらしく、遺体のそばに立ってシンを待っていた。
「ヒロと交代してきてもらえますか?報告があるので」
「おう」
と短く答えて、シンは奥の部屋に入っていった。
「遺体のそばに落ちている拳銃はデザートイーグル、弾は一発だけ発射されていて、女性の胸を貫通した後、後ろの壁にめり込んでいます。傷口の様子から、胸に銃口を押し付けて引き金を引いたと思われます」
ソラの報告を黙って聞いているヒロ。
「即死ですが、遺体の頸部に浅い擦過傷と薄い圧迫痕を確認しました」
そこまで聞いて、ヒロは頷く。
そこにようやく、警察が到着した。
ヒロは、身分証を見せ、警官に耳打ちする。
「奥にいる男が容疑者です。爪の間に被害者を失神させた証拠が残っているはずですので・・・」
手を洗わせないほうがいいでしょう、と続ける。
「尋問次第で白状すると思いますが、何か疑問点があったら連絡をください」
笑顔で警官にそう告げ、傍に来たソラとシン向かってヒロは言った。
「僕たちは、これで帰りましょう」
ホテルに戻り、ヒロがコーヒーメーカーで淹れた3種類のコーヒーで一息つく。細かい操作もマスターして、それぞれの好みに合わせることが出来るようになっている。
「ココアもできるみたいなんですが、次はココアにしましょうか?ソラ」
などと言って、笑顔を向けるヒロだが、空はココアは飲んだことが無いと言う。そんな事ってあるのだろうかと思うシンだが、それよりずっと気になっていたことを口にする。
「なぁ、さっきの事件、凄く早く容疑者逮捕になっちまったけど、何時、何で解ったの?」
3人が小さな部屋から出る時に、後ろから警官の声が聞こえてきたのだ。
「確かに、アイツは何だか怪しかったけどサ」
「あの男の話を聞いたから、ですよ。確かに最初は、狼狽しているにしても少しわざとらしい感じはしましたけど、はっきりと疑惑を持ったのは、家に入った時に男が言った台詞を聞いた時ですね」
コーヒーカップに口をつけながら鷹揚に答えるヒロに、シンは降参するように言う。
「・・・詳しく説明してクダサイ」
ヒロはカップを置くと、ソファーに深く座り直して話し始めた。
「彼が家に入って言った台詞を覚えていますか?『・・・どこで買ってきたんだヨ、あんなの・・・』と言いましたよね。普通は、『どこで買ってきた』というより『どこで手に入れた』と言いそうなところです。確かにこの国では、銃器類は日本よりずっと容易に購入できます。まとまった金があれば、ですが。『買ってきた』の方がより積極的な入手の意思を感じます。それに、部屋の中の空気の臭いから、決して裕福な生活ではないだろうとも感じました」
確かに、部屋の中は家具もほとんどなく、どこか饐えたような臭いがした。
「そこが彼女の家で、自分が通っていたのだと彼は言いましたが、女性は売春婦をしていたようです。遺体になっていた彼女の容姿をソラから聞きましたが、あまり儲かってはいなかったのではないでしょうか。こっそり金を貯めていたなら、購入できなくはないと思いますが、ソラに凶器の拳銃の種類を聞いた時に、その可能性は低いと思ったんです」
ヒロは、そこで言葉を切って、コーヒーを一口飲む。
「デザートイーグルは、日本円にして20万円くらいですし、もし店で『買って』きたなら、店側では当然、他のもっと安価で女性でも扱いやすい小型のものを勧めるでしょう。そしてもう1つ、彼の台詞『胸を撃って』です。拳銃で、特に女性の場合、心臓を狙うことは多くない。こめかみに銃口を当てる方が、見せつけるなら効果的でしょう。ソラの意見は?」
「そうですね、あのデザートイーグルは重量が1800gくらいありましたから、あの女性が片手で銃をこめかみに当ててトリガーを引くのは、重さでブレて確実性に欠けると思います。興奮していれば、できるかもしれませんが。寧ろ胸に当てて両手で銃を持った方が、安定はするでしょう。けれどデザートイーグルは長さが30センチはあるので、胸に押し当ててもトリガーは引きにくくなります。ちなみに、貫通した傷口の状況では、真正面から胸に対して垂直に銃口が当てられていたと推測できます」
つまり、簡単に言えば、あの銃で女性が自殺したとは考えにくいということか。
「男と倉庫にいる間に、僕は彼をなだめながら手に触りました。するとその手から、安物のコロンと女性の汗の臭いを感じたんです。後で、ソラから頸部の擦過傷と圧迫痕の存在を知らされて確信したんですよ。男は被害者の首を絞め、失神させたのではないか、とね」
そして男は、動かない女の胸に銃口を当てて、引き金を引いた。銃声は、外の工事の音に紛れてしまったが、ヒロの耳はそれを聞き分けた、ということだ。
「ソラも、解ってたのか?俺に、奴が逃げ出さないよう、裏口を封じさせただろ」
「いえ、ヒロほどの確信は持っていませんでしたが、念のためです」
おかげで、警官たちも楽に逮捕できたのだろう。
それにしても、とシンは思う。
(俺の兄貴は、もしかしたら、いわゆる凄腕捜査官なんじゃないか?)
自分もそれなりに経験は積んでいるが、あのスピーディーな思考回路には敵わないな、と。
殺人事件の話もひと段落し、珍しく、いや初めてかもしれないが、ソラが話の口火を切った。
「あの・・・先ほどはプレゼントをありがとうございました。お返しのプレゼント、何が良いか考えていただけましたでしょうか」
(あ、そうか・・・ナンも考えてなかったワ)
何しろ、半額をヒロに渡すことさえコロッと忘れていたくらいなシンである。
するとヒロの方は、おそらくプレゼントする前から考えていたのだろう、ニコニコしながら即答する。
「ええ、キスひとつ、でどうでしょう」
(え!)
驚いたのはシンの方だ。
「それだけで、良いのですか?」
動揺もせず、あっさりと言うソラ。
「ええ、僕たちにひとつずつ。この際、丁度いいので言ってしまいますが、僕たちはどちらも同時に、君に一目惚れしちゃってるんですよ。惚れている相手から貰えるキスは、プライスレスです。場所はソラに任せますから、お願いします」
(・・・おっとぉ・・・いや、粋な計らいだけどサ)
こんなにあっさり暴露されてもなぁ、と思わないでもないシンである。けれど、考えてみれば、この恋を成就させるには時間が足りなすぎると思っているので、ここはノルしかないと決めた。そもそも、告白などと言う恋愛イベントは苦手だという自覚もあることだし。
「俺も、それでヨロシク」
二人の顔をそれぞれ見た後、ソラは穏やかな笑みを浮かべた。
「キスは、されたことはあっても、したことは無いのですが・・・」
その言葉に、あからさまに喜ぶヒロだ。
「それは貴重ではないですか。プライスレスにプレミアが付きますよ。では、シンからどうぞ」
立ち上がりかけたソラに、ヒロが声をかける。
「はい。・・・キスして貰ったのも、実はアンジーにだけなんですが・・・」
頬に一度、額に二度、と言いながらシンの傍に立つソラ。
そして、こちらを向いたシンの頬に、その唇をそっと乗せた。そしてテーブルを回ると、今度はヒロの傍に立ち、同じようにキスをする。
そして、申し訳なさそうに言った。
「本当に、これだけでいいのでしょうか」
すると待っていたかのようにヒロが答えた。
「充分ですが、もしお返しにおまけをつけてくれるなら、僕たちからもキスさせてください」
(あ!そっちが本命か?)
とシンは心でこっそり叫ぶ。
「はい、構いませんが」
あっさりと承諾するソラに、自分の体に関心がないとはこういう事でもあるのか、と納得する。
「では、シンからどうぞ」
ニッコリと笑顔を弟に向けるヒロは、彼がソラのどこにキスをするのか窺っているようだ。多少、意地悪な気配もするが、シンはそれどころではない。
(う・・・この場合、どこにするのがイイんだ?)
頬にキスされたんだから、頬に返すのが順当だし、親愛の情ならそれが普通である。けれどそう言った文化に慣れていない根っからの日本人なシンは、惚れた相手の顔に自分の顔を近づけることにさえ、躊躇いを感じてしまう。何しろ、まだ手さえ握ったこともない。
それならば・・・
「そ、それじゃ・・・失礼します」
そう言ってシンはソラの手を取り、その甲にキスをした。その程度の事なら、仕事上の挨拶で一度したことがある。
その様子を、ヒロは正確に感じ取っていた。微かなキスの音は、手の甲にされたものだ、と。
「では、次は僕の番ですね」
ヒロは傍に来たソラの右手を取り、そっとひっくり返すと、その細い手首に唇を落とした。
数秒、そのままで、彼女の脈と体温を感じているようなキス。
ややあって、ようやく顔をあげたヒロは、見えない眼をソラに向けて、暖かく微笑んだ。
どこか儀式のような、キスの交換は終わった。
その夜のミーティング。男二人の情報交換は、最初の頃に比べると、随分短時間で終わるようになっていた。その最後に、ふと思い出したようにシンが尋ねる。
「なぁ、何であの時、手首にキスしたんだ?」
てっきり、これ幸いと唇を奪うだろうと予測していたのである。
「だって、シンが手の甲にしたんですから、同じところにしたら弟との間接キスじゃないですか」
(そういうのも、間接キスなのか?)
「だったら、掌でもいいわけだろ?ナンか、意味深だったぞ」
さらに追及するシン。
「気になるなら、調べればいいじゃないですか」
そう言って、ヒロは口元に悪戯っぽい笑みを浮かべると、立ち上がって寝室へと向かった。
そして1人になると、キス交換の時のソラの言葉を思い出す。
『キスして貰ったのも、実はアンジーにだけなんです』
彼女は、両親にもキスされたことは無かったのだろうか?
ソラの家族関係についても、知りたいと思ったヒロだった。
手首へのキス
強い本気の愛情を示す
懇願
その先への・・・