表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

3 マンション

 研修が始まってから、半月が過ぎた。

 今はもう12月に入り、街中はクリスマスムード一色だ。


 シンの研修は順調に進んでいた。FOI内の各チームが抱えている事件で、研修者であっても出来るような仕事がある場合に限り、捜査に参加する。それを数日単位で終了させ、次のチームに移動した。移るチームがない時が一度だけあったが、その時は市警の交通課に配属されたくらいだった。一応休日が設定されているが、基本ほぼ休みなく出勤しているシンなのである。

 滞在中のホテルから出勤先へは、ソラがパジェロで送迎してくれたが、二人きりになれるのはその時間位だ。

 始めは勤務が終わるとクタクタで、早く帰って寝たいとしか思えなかったシンだが、3週間も続くとだいぶ慣れてきていた。


 その日は本部の福利厚生課の研修で、PC前の単純な入力作業だけで終わった。眼は疲れて肩も少し凝っていたが、気疲れも体力的な疲労も無く、迎えに来たソラのパジェロに意気揚々と乗り込む。

「サンキュ、ソラ。いつもありがとさん」

「いいえ、今日もお疲れ様でした」

「昼間は、何してたんだ?」

「今日はヒロが本部から呼ばれていたので、そのアテンドをしていました」

 このところ帰りの車内での会話は、こんな感じで始まる。その後は他愛のない雑談で一日の疲れを癒していたシンだが、その日は違った。

「なぁ、ホテルに帰る前に寄って欲しいところがあるんだけど」

 単刀直入にデートしようと誘っても、やんわりと断られる可能性は大きい。だがちょっとした希望を叶えるために、コンビニに寄ってくれたりしたことはある。例えばいきなりイナリズシが食べたいと呟いたシンに、近頃はこちらでも日本食が流行っているようですと答えて、コンビニの駐車場に車体を滑り込ませると、わざわざ買いに行ってくれたのだ。

「はい」

 いつものように、穏やかに短く返事をするソラに、シンは言葉を続けた。

「港が見えるところ・・・こう、俯瞰で全体が見えるところに行きたいんだけど」

「そうすると、丘の上にあるパークでしょうか。ホテルの先にありますので、そこに向かいます」

 そう答えてホテルの前を通り過ぎて車を走らせるソラに、シンは心の中でヨッシャ!と叫んだ。


 今日のランチタイム、気さくに声をかけてきてくれた局員との世間話で、パークの事を聞いた。夜景が綺麗で、デートスポットだという。

 そして、港を俯瞰で見たいという言い方をすれば、ソラは応じてくれるだろう。マップを頭に叩き込んでいる場所でも、実際の様子を自身の眼で見ておくことは大切だと判断してくれるだろうから。

 そんな思惑は、見事に的中した。


 パークに到着して車から降りると、そこは確かにデートスポットだった。寒空の下、寄り添う恋人同士らしき人影もチラホラ見える。そしてすぐ近くに、いい匂いを漂わせるストールもある。日本の屋台に当たるそれは、ミニホットアップルパイを売っていた。

 シンは、ちょっと待っててとソラに告げ、ストールに走ってゆく。戻ってきた時には、その両手に2つの小さなアップルパイを持っていた。

「何か腹減っちゃってサ。良かったら付き合ってヨ、苦手じゃなかったらだけど」

 そう言って、ナプキンで半分を覆われているアップルパイを差し出す。ホカホカと湯気を立てるパイを見ながらソラは答えた。

「苦手ではありません・・・いいのでしょうか?」

「イイの、イイの。一人で食うのは虚しい気がするんだよ。ま、押し付けだから、オゴリな」

 ソラが節約生活をしているのは解っている。しかも、相手はともかく自分はデートのつもりだし、自分は男で年上だ。ここで女性から代金を受け取るなんてことは出来ない。とことん日本の中年オヤジ的思考ではあるが。

「ありがとうございます。いただきます」

 ソラは素直に手を出して、シナモンの香りを漂わせる暖かいミニアップルパイを受け取った。


 港が見えるパークの奥まで、のんびりとパイを齧りながら歩く2人。

 沢山の街頭でパークの石畳は明るく、目指す先の空は夜景からの光でぼんやり赤く染まっている。

 チラチラと盗み見るように、隣を歩く片思いの相手を窺えば、その横顔にはどことなく嬉しそうな雰囲気がある・・・ような気がした。

「美味いナ、結構」

「はい」

 他愛ない、短い言葉を交わしつつ、港に張り出したデッキにつくと、そこには確かに美しい光景が広がっていた。

 コンテナ倉庫の照明、沢山の街頭、貨物船などの灯り、クレーンの安全灯。全体的に赤色灯が多いので、港全体が赤く染まって浮かび上がっている。そしてそこから、市街のビル群の夜景が明るく続いていた。

「おーー、こりゃスゲェ・・・」

 食べ終わったパイのナプキンをクシャクシャと丸め、ポケットに突っ込んだシンが叫ぶように声をあげる。隣ではソラも、食べ終わった後のナプキンを畳んでポケットに入れたところだった。

(ヨシ、コッからが本番・・・)

 心の中でスタートの合図を送り、さり気なさを装いながら、シンは傍らに向かって話しかけた。

「なぁ、ソラって・・・」


 その時、シンのスマホが鳴った。

 この状況は、テッパンでお約束で、つまらない、ありがちなもの。

 案の定、それはヒロからの連絡で会った。


「あ~~、ナニ~~」

 いかにも嫌そうな声音で、シンはスマホに向かって気持ちをぶつける。

「すみませんね、多分デート中だとは思うんですが、直ぐに戻ってきてください。仕事が出来ました」

 済まなそうな色は全くない口調で、ヒロは用件を告げる。

 結局、最悪な気分を抱えたまま、急いでホテルに戻るシンだった。


 ホテルに戻ると、そこにあったのは何とも薄暗いオーラを纏ってソファーに座るヒロの姿だった。

 そんなに2人のデートが気に食わなかったのかと思うシンだが、一応問いかけてみる。

「どうしたんだヨ、そんな暗い気分になるような仕事なのか?」

「いえ、落ち込んでただけです。何だか、娘のデートを邪魔する野暮な父親のようなことをしたと思いましてね」

 デートしたこと自体は、フェアに戦おうと言い合ったのだから、問題ない。だが、相手を邪魔するようなことはしたくないのだ。ある意味、プライドの問題なのだろう。

「ああ、コートは脱がないで、そのまま行きましょう」

 自身の暗い雰囲気を振り払うように、きっぱりとソファーから立ち上がったヒロは、既にコートを着て準備をしている。傍らには白杖も用意していた。

「市警の知り合いの警部から連絡があったんです。個人的に、僕への依頼と言うことですが、意見を利かせて欲しいと。殺人事件の可能性があるが、現時点では断定できない。今晩なら死体発見現場に入れるようにしておけるから来てくれないか、とね。場所はマンションの一室で・・・」

 ヒロは住所を告げる。

 3人は、急いでホテルの駐車場に降りて行った。



 マンションはホテルから左程遠くない、市街地の中にあった。外観を見れば、かなり裕福な人々が入居しているように思える。一行がエレベーターで指定の階へ到着すると、出迎えるように通路で待つ1人の男がいた。

「よう、来てくれてありがとナ。こんな夜中にすまない」

 ヒロに向かって挨拶するがっしりとした体形の男は、笑顔が人懐こい。

「いや、大丈夫ですよ。こっちがさっき言っておいた2人です。シン、ソラ、彼はテッド・ターナー警部です」

 簡単に両者を引き合わせると、4人は早速マンションの一室に足を踏み入れた。


「昼すぎに通報があって、駆け付けた警官が来た時には、この部屋の住人である男性が亡くなっていた。救急隊も来ていたがその場で死亡が確認されたので、後はこちらでの捜査になったんだが、死因が何だか気になってな」

 テッドは要領よく説明を始める。

「胃部破裂によるショック死らしい、と言うことで司法解剖することになった」

「胃部破裂ですか。ヒトでは珍しいですね。馬ならともかく」

 と、小さな声でソラが呟く。

「だろう?で、今やってもらってるんだが、分かった部分だけでも逐一報告を貰えるようになってる。で、その報告の中に・・・」

「腑に落ちない点があったというわけですね」

 ヒロが口を挟んだ。

「ああ、腹を開いてみたら、腹腔内に大量のゲル状物質があった。腸管の中にも何か所か、少量のそれが見つかったんだ」

(なんだ、そりゃ!)

 と、思うシン。胃が破裂するほど大量のゲル状物質。どう考えても美味そうには思えないそれを、どうやって飲んだのか。或いは、飲まされたのか。


「通報者は?」

 ヒロが冷静に問いかける。

「ああ、ここんちの家政婦だ。奥さんはいるけど、2週間前あたりから旅行に出ているらしい。現在連絡をつける努力をしているところだな。その家政婦が買い物から帰ってきたら、寝室のベッドで死んでいる男を発見して通報した」

「侵入者の形跡や、家の中に不審なものなどはありましたか?」

「いや、今までの捜査では、侵入者の形跡はない。不審なものや、関係性がありそうなものは署の方に回しているが・・・例えば、薬の類だな。ベッドサイドに、蓋つきのガラス容器にカプセルがあった。中身を調べているところだが、先ほどの連絡では、男がいつも服用してた消化薬らしい」

「男の病歴が知りたいですね」

「ああ、それも送られてきている」

 テッドはそう言うと、アイパッドを取り出し表示させた。


 画面を見ることはできないヒロは、ソラを呼び、男の直近の病歴を読み上げて貰う。音声変換の方法も無いわけでは無いが、この方が手っ取り早い。しかも、大好きなソラの声を聞くこともできるのだから、一石二鳥とはこのことだ。

 こんな時でも、機会は一度たりとも逃さないヒロは、流石と言えば流石である。

 読み上げが終わると、ふむ、と考え込むように呟いて、傍にいるソラに向かって言った。

「吸水性ポリマーかな。ソラ、どう思いますか?」


 急に振られて、少しだけ目を見開いたソラだが、直ぐに淡々と話し始めた。

「吸水性ポリマーは様々な用途に使われていて、一般家庭にも存在します」

 身近なところでは、おむつだろう。市販の紙おむつには、吸水性ポリマーが入っている。だが、赤ん坊や寝たきりの病人・老人が生活している感じは全くない。

「女性の生理用ナプキンにも使われているので、同居する妻がいるなら、この家にもあるでしょう。と言っても、吸水性ポリマーは自重の100~1000倍の水を吸水するのですが」

 ソラの言葉に、彼女の上司が口を挟む。

「それを集めてカプセルに入れ、飲ませるのは可能だと思いますか?」

 ベッドサイドに置いてあったカプセル。残ったカプセルの中身が全て消化薬だったとしても、その可能性はあるのではないだろうか、と。

「医療用カプセルの内容量は、0.13㎖です。そしてヒトの胃の内容量が1.5~2.0ℓ。カプセル1個に入る吸水性ポリマーの量では、破裂するほどには至らないでしょう。さらに付け加えると、吸水ポリマーは酸性下では、あまり反応しません。胃液は強酸性ですから」


 ソラの言葉に、ヒロは考え込み始める。

 だが、シンの方は全く別の事を考えていた。

 やがてヒロが顔を上げ、話し始めた。

「例えば誰かが、ガラス容器にカプセルを紛れ込ませ、いつか飲むだろうと思っていたなら・・・などと考えていたのですが、それだと不可能ということですね」

 例えば夫婦仲が悪くて、妻が夫を殺害しようとした場合とかだろう。

「そうすると胃を破裂させたのは、一般的な吸水ポリマーではないということになる。だとすると、腸管の方にあったゲル状物質はどうなんだろうと思うんですが」

 何故、腸の方にまであったのか。しかも何か所にまで、少量ずつ。

「先ほどの病歴では、男は半年前に腸の手術を受けていますね。そこに何か関連があるのではないのでしょうか・・・」

 そこまで言って、ヒロは再び顔をソラの方に向けた。


「手術の内容から推察すると、予後は腸閉塞を起こしやすい状態だったと推測できます。少量の吸水ポリマーでも、場合によっては発症します。ただ、腸閉塞の死亡率は高くありません」

 ソラの淡々と綴る言葉は、シンを意識してか、専門用語を使わず解りやすくしてあるようだった。

 そこでシンも、意見を言ってみることにする。

「そしたら、例えば『嫌がらせ』的な感じ?運が悪かったら死ぬかもしれないけど苦しめ!みたいな感じかね。死んだら死んだでイイけど、くらいな気持ちでカプセルにポリマー入れておいたら?腸の方のポリマーは、それで説明つかないか?」

 ヒロは軽く肯く。

「今のところは、そう間違ってはいないだろう、と言えるレベルですね。何しろ、男の交友関係も、夫婦仲もわからない訳ですし」

 そこでソラが口を挟んだ。

「ヒロ、腹腔内のゲル状物質と腸管内のゲル状物質のそれぞれを、分子レベルで解析することを提案します。それぞれの組成分子量を比較すれば良いかと」


 そうなると、現時点では何も断言できない。言えるのは、これが殺人事件であるということだけだ。

 ヒロは、解ったことがあったら連絡を下さいとテッドに言い、一行はマンションを出た。


 帰りの車内で、シンが不意に言い出す。

「ヒロも凄いけどサ、ソラも凄くないか。知識、半端ないだろ」

 スラスラと説明した内容、カプセルの内容量だの、胃の内容量だの。しかも、殆ど時間をかけずに胃破裂は不可能だと計算した頭も凄い。

「シン、ソラは医学部卒業ですよ」

 あ、そういやそうだった、と思いだす。HPのプロフィールに記載されていたのだ。

「4年で卒業しましたから、知識は基礎程度です。医師免許も当然ありません」

 運転席から言葉を挟むソラに、シンは少しだけ驚いた。

「あ、聞こえてた・・・」


 補聴器では、後方からの音は聞こえづらいと言ってなかっただろうか。ビートもいない今、それでも話の内容が解るらしい。

「はい、補聴器のモードを切り替えていますから、大丈夫です。これは、本部の開発局でカスタマイズしてもらっているんです。ただモードによっては消費電力が大きいので、その辺りも含めてより使いやすいように開発を続けて貰っています」

 運転しながら、ソラは片手で右耳に装着している補聴器を触る。


 そうか、と思いながら、シンは先ほどの話題に思考を戻す。

 (何かそれって、勿体なくないか? 捜査官として働くよりも、医者の方が収入がよさそうだけど)

 そう思うが、おそらく何か事情があるのだろうと考え直す。

 一方ヒロの方は、そんなソラの言葉に何やら思うことがあるのか、黙って何かを考えていた。

 そうしているうちに、いつの間にかパジェロはホテルに到着していた。



 数日後、テッドから報告があったと言って2人を集めたヒロだが、長くなりそうなのでと言ってキッチンカウンターの方へ向かう。そこには簡単な料理が作れるくらいの設備があった。

「コーヒーでも淹れましょう」

 備え付けのコーヒーメーカーの前に立って言う上司に、ソラは慌てた。

「あ、それは私が・・・」

 走り寄った彼女に、ヒロは片手をあげてやんわりと断る。

「やりたいんですよ。自宅にもコーヒーメーカーはあるんです、機種は違いますが。一応独身なのでね。家事のほとんどは通いの家政婦さんにお願いしていますが、コーヒー位なら淹れられます」

 そう言って彼は手探りでスイッチやボタンを確認していく。自宅にあるものと細かい部分は違うようだが、これなら大丈夫そうだ。

「昨晩、ふと気づいたんです。まだ自分にできることは沢山あるんだ、とね」


 10年前、任務中の怪我で失明した。そうと解った時は、人生が変わるんだと思うしかなかった。

 その後ショックから立ち直ると、出来ることを探してその範囲で努力した。そして痛感したのは、誰かの助けが無ければ、仕事も生活も不便極まりないということだ。しかし仕事では部下が、生活では家政婦が気遣って助けてくれる。恵まれた環境に感謝をしなければならないが、それならそんな彼らに報いるにはどうしたらいいか。


「助けてくれる人に感謝を、素直に伝える事が大切なのだと思って、そのように実践してきたのですが、それ以外にも分かったことがあったんです」

 それは助けてくれる人の行為の、邪魔をしない事。

「自分にもできそうだと思って動くと、それが寧ろ良くない場合が多くてね。それでどうやら、何もせずに、大人しく助けを受け入れるという癖がついたようです」

 職場の立場的にも、金銭的余裕もあって、周囲の助けを得ることが容易な生活だったのだ。

「まるで家政婦付き安楽椅子探偵のような感じで、10年を過ごしたわけです」

 勿論現状で、つまり視覚障碍者としてだが、出来る限り知識の向上や体力の維持には努力してきたわけだが、それがこのまま続いていくのだと思っていた。


「昨晩、車の中でソラの話を聞いた時、ハッとしたんですよ」

 自分自身の能力に対して、目を背けていたのではないかと気づいた。

 考えてみれば、この10年の間に科学は日々進歩している。自分自身の能力も、視覚が亡くなった分、聴覚と臭覚は飛躍的に鋭くなっているのだ。

「ソラは、聴覚障碍を様々な方法で補っていて、しかもそれは継続的に向上しているんです。補聴器のカスタマイズやさらなる開発が良い例です」


 ヒロは出来上がったコーヒーをカウンターに置くと、トレイを手探りで探してカップをその上に乗せる。

「それで、いささか遅まきながら、僕もできることを増やしていきたいと決心したんです」

 先ずはこんなことからと、コーヒー乗せたトレイを片手で持って、もう片方の手でカウンターを辿りながらダイニングテーブルに向かう。

「少しずつですけどね。でもその方が、人生楽しくなるじゃないですか。今も、誰かに何かをしてあげるという嬉しさを味わっているところですし」

 そして、見当を着けた方向にカップを置くと、自分も椅子に座ってコーヒーに口をつける。

『誰かに何かを』と言うのは言い換えれば、『ソラに何かを』となるのだが、そこまでは流石に言わないヒロである。

「・・・うん、こんなものかな。でもやっぱり、ソラの淹れたコーヒーとは比べ物になりませんが」

 コーヒーの味わいに対する感想を述べたヒロに、シンとソラが答える。

「そりゃあそうだろ、ソラはちゃんとドリップ式で淹れてるからな。でもまぁ、これもコーヒーだから、全然オッケーってことで」

「ありがとうございます。でも、これはとても美味しいです」


 コーヒーを飲みながら、例の事件についてのヒロの説明が始まった。


 殺された男は半年前に腸の手術を受け、その後退院してからは暫く療法食になっていた。料理が得意でない妻は、専門の家政婦を雇って食事の支度と看護を任せた。ところが夫は、その若い家政婦と不倫関係になる。元々不仲ではあったが、離婚したくない妻はそれに気づかないふりをしていた。自分もある男性と不倫関係にあったからである。

 妻はかつて、介護用品を扱う大きな会社で営業の仕事に就いていた。提携している大学の研究室に通ううちに、そこで知り合った研究室の助手と深い仲になり、退職した後もその関係は続いていた。

 金銭的な理由で夫の不倫を黙認していた妻だが、だからと言って気分がいいはずもない。自分にも不倫相手がいたとしても、だ。

 そこで長期旅行の前に、ちょっとした嫌がらせ気分で、夫が飲む消化薬のカプセルを入れたガラス容器に、生理ナプキンを解体して集めた吸水ポリマーと中身を入れ替えたカプセルを作って、容器に残るカプセルの上にパラパラと置いておいたのだ。

 これが、腸管にあったゲル状物質の正体だった。


 一方、胃破裂で腹腔内に溢れたゲル状物質の方は、ソラが提案した分子レベルでの解析で、一般的な吸水ポリマーではないことが解った。分子組成を見ても、どうやら今まで知られていない、或いは発表されていない、未知の物質であることが推測されている。

 ちなみに妻の不倫相手の助手は、ひと月ほど前に交通事故で亡くなっていた。


「その見つかった新型の超吸水性ポリマーについては『NSAP』と略されて、さらに捜査を続けるようです。妻の不倫相手の助手が、その『NSAP』に大きく関わっている可能性があります。妻の方は、まだ全てを自白してはいないようですが、追々事件の全貌は明らかになるでしょう。どうやら事件は、今後大きくなっていきそうな感じなので、いずれFOIにの方にも調査が回ってくるかもしれませんね」


 そう言って話を締めくくり、カップを持って立ち上がったヒロである。これ以上、首を突っ込む義務も権利も無いのだ。

「コーヒー、もう1杯作りましょう。シンもどうですか?」

「あ、いや、まだ残ってるから」

 シンの方へ伸ばしたヒロの手と、カップを持ってまだあると掲げたシンの手が見事なタイミングでぶつかった。

「おっと!」

「あっ!」

 同時にあがった声と、カップに残ったコーヒーが飛び出す音。

 そして丁度席を立ったソラの白いシャツブラウスに、その液体がかかる音が重なった。


「掛かりましたか?大丈夫ですか、ソラ」

「すまん、冷めてるから火傷とかはないと思うけど、ブラウスが・・・」

 そう言って慌てる二人に、ソラは鷹揚に答えた。

「大丈夫です。直ぐに洗えば、染みにもならないと思いますから」

 そして、ブラウスのボタンを外しながらソラは洗面所に向かう。やがて開け放ったドアから、洗っているらしい水音が聞こえてきた。

 大急ぎでテーブルを拭き、床にも散ったコーヒーの飛沫も始末し終えて、シンは洗面所に向かって声をかける。

「大丈夫か~」

「はい、殆ど目立たなくなりました」

 そう言って、洗って絞ったブラウスを手に持って、ソラは洗面所から出て来た。


( ーーーーっ‼ )


 当然のことながら、上半身ブラ1つである。

 今日は前回と違って、肩ひも付き。いや、暢気に観察してる場合じゃない。

 ギョッとしたように絶句するシンに向かって、洗ったブラウスを広げて見せたソラは、そのまま廊下に出て行こうとする。

「ブラウスを替えてきます」

 平然といつもの声音でそう告げて、自室に戻ろうとするソラにシンは怒鳴った。

「ンな格好で、廊下に出るなーーっ!」

 しかし聞こえなかったらしいソラは、そのまま廊下に出て自室に入ってしまう。慌てて後を追ったが間に合わなかったシンは、廊下を見渡し無人であったことに胸を撫で下ろした。


 戻ってきたソラを椅子に座らせ、何となく尋問している雰囲気になる男2人。

 見ることが出来なかったヒロも、ソラが着替えている間にシンから話を聞いた。

「あのな、ソラ。下着姿を見られても平気なのかよ。俺だって男なんだぜ。埠頭の晩も、外で服脱いで水を絞ってたよな。うっかり見ちまったのは謝るけど、あんなとこで下着まで脱ぐのってヤバいだろ」

 気温一桁の状況でびしょ濡れと言うのは、ある意味緊急事態かもしれないけれど。周囲に人影は無かったとはいえ、街灯の下でのその姿は、かなり遠くからでも解ったんじゃないかと思う。

 そんなシンの台詞に、ヒロもいつもの笑顔を消して、ほぼ無表情で黙っている。

「・・・失礼しました。お見苦しいものを見せてしまって。同僚レベルのお付き合い、と以前聞いていたので、つい」

 新しいブラウスを身に着けて、神妙に頭を下げるソラ。

「へ?・・・同僚なら下着姿もオッケーなの?」

「更衣室で一緒になることは多いですし」

「そりゃ、女性同士の場合だろ!」

「任務中に、服を脱ぐことが必要な場合もありますし」

 男の前で? ハニートラップか?

 何やら思考が飛躍していく。

「でも、確かに前回も今回も、緊急事態と言うわけではありませんでした。埠頭では一応周囲の状況は確認しましたし、相手に見せつけるような行動ではないので、猥褻物陳列罪には当たらないと判断しました。ですので、寒かったせいもあって服を絞ることを優先しました」

 (わ、わいせつ物って・・・寧ろ眼福物っつうか・・・)

「今回は、そもそも私の体形が男性が喜ぶようなものでは無いので、見過ごして貰えるだろうと。どちらにしても、判断に甘えがあったように思います。嫌な思いをさせてしまって、すみませんでした。以後充分に注意しますので、出来ればこのまま任務を続けさせていただければありがたいです」

 真剣な声で、いつもの穏やかな笑顔も捨てて、深々と頭を下げるソラ。

「え?・・・任務を続けさせて、ってどういう意味?」

「研修者側には、アテンド役を交替してもらう権利があります。でも、そうなると・・・」

 おそらく特別手当の殆どが支払われなくなるはずだ、とヒロは考える。日数分の給与だけになるのだろう。彼女にとって、それは可能な限り避けたいことなのだ。

「あ、いやそんなコトは考えてないけど」

 シンの言葉に、知らず体に入っていた力が抜けたようなソラだ。そこに、今まで黙っていたヒロが、穏やかな声で問いかけた。

「ソラ、さっき『男性が喜ぶようなものではない』と言いましたが、君はどんな体形がそうだと思っているのでしょうか。僕には充分すぎるほど、魅力的だと思いますが」

 ソラは少し考えてから答える。

「そうですね、一般的にバストとヒップがもっと豊かで金髪碧眼がそうだと思います。少なくともこの国ではそうだ、と同僚の話を聞いたこともありますので」

(マリリン・モンローかよ!)

 心で突っ込みを入れるシンは、実はオールドムービーファンだったりする。

「なるほどね・・・」

 苦笑交じりに呟くヒロだが、とりあえずソラには釘を刺しておく。

「人の好みは様々で、現代は多様化の時代ですから、それを考慮して充分気を付けるように」

 はい、と殊勝に返事をしたソラだが、多分解ってはいないだろうなと思われる。

 そんなこんなで、それ以外はいつも通りの一日を送った3人であった。



 その日の夜、いつものミーティングをしようと男2人はソファーに向かい合って座る。

 そして報告会のようなひと時が始まるはずだったのだが。


「ところで、シン。先に重要なことを質問します。ソラのバストは何カップでした?」

「は?見た感じだと、D・・・って、それが重要なコトかよ!」

 いきなり何を言い出すのか。つい反射的に答えてしまったが。

「重要ですよ。僕には見えませんからね」

 そう言ってニッコリと笑うヒロ。

 そう言えば、見かけによらず中身はスケベな40歳だったっけ、と思いだす。

「Dカップはこの国の女性の平均ですから、特に目立つ方ではないですね。日本だと豊かな方になるのでしょうが」

 そう言えば、市警の交通課に研修に行った時、周囲の婦人警官たちは誰も皆、大層立派なバストをお持ちだったな、と思いだすシンだ。

(あれは、なかなか素敵な光景だった・・・)

 制服のボタンが弾け飛びそうなほどで、と鼻の下を伸ばすシンは確かにヒロの弟だった。


 そして、しばしの沈黙の後、いつもの表情に戻ったヒロが話し出す。

「・・・ソラは、自分に対する関心が全く無いのだろうと思います」

 食事は、仕事が順調にこなせるのに必要なカロリーがあればいい。

 服装は、社会生活における最低限のマナーを守ればいい。

 誰に何と思われようと、構わないのだろう、と。


「最初は、節約のためかと思っていたのですが、そうではないようです。今回の事で解りました」

 自身の体についても関心がないから、裸を見られても構わない。服を着るのは、寒さや暑さから身を守るためで、そこに周囲に不快感を与えない程度のTPOを加えれば良いと考えているのだろう。似合う似合わないは、彼女にとってどうでもいいことなのだ。

「そういうコトか。羞恥心ゼロなのかと思ったけど・・・」

 恥ずかしい、と思うことなど無いのだろう。シンは軽く眉をひそめて言った。

「彼女は、感覚よりも知識で行動しているのでしょう。自分自身がそう感じるからではなく、一般的な社会人、文明人として最適な行動や言葉を学んで、それを実践しているように感じるんです。ただ時々、的確なチョイスにならない場合がある、と」

 その辺りは、まだ発展途上なのだろう。今回のブラ1枚で歩き回る、という件がそれを表している。


 何やら妙な気はするが、一応それに納得したシンは、寝室に引き取った。

 ヒロも、それに続いて自分の寝室に向かって歩き出す。


(・・・今度、アンジーに聞いてみましょう。ソラも、付き合いは長いと言ってましたし。僕らが知らないことをアンジーなら知っていそうです)

 超多忙なアンジーを捕まえるのが、かなり難しそうですが、と思いながら、ヒロは寝室のドアを開けたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ