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2 埠頭

夜空を舞う鳥のように

 シンの研修四日目。

 11月の空はどんよりと曇り、シンの心の中を表しているようだった。


 昨晩、兄に教えられた通りFOIのHPにログインし、一目惚れの相手ソラの情報を入手しようとしたのだが、そこにあったのは既に知っていることばかりだったからだ。どのみち詳細情報は兄ヒロから聞けるので良いか、と諦めてPCを閉じたのだか、冷静になってみれば自分はかなり不利かもしれないと思う。兄に勝っている部分など、視力があることと8年分だけ若いということくらいだ。

 恋敵となってしまったヒロとは、ルックスでも財力でも、女性の扱いや気配りなどでも完全に負けていると認識せざるを得ない状況だ。

 先ずは何から手を付けて良いやら、皆目見当がつかないまま午前中を終えてしまったのである。


 朝食時、ヒロから告げられた今日のスケジュールは、現場見学だった。ヒロが根回しして声をかけていた相手の一人、FOIの捜査官で同期のウィル・ジョーンズから連絡が入ったのだという。

「内々で連絡があって、今晩密輸船へのガサ入れを予定しているから見学に来ても良いとのことです。22時にヨーク港・サウスボネ埠頭・SCー3号ターミナル前あたりに来てくれと言うことで、3人で行くと伝えておきました」

 決定事項として伝えるヒロの言葉に、シンは気を引き締めて頷く。見学とは言え、久しぶりに現場の空気を吸うことが出来る。

「なので、今日はそれまで自由にしていてください。とは言え、シンが外出する場合は基本的にソラがアテンドすることになりますが」

 希望すれば1人での外出も可だと言うが、そこまでして行きたい場所はないシンである。自室でのんびりすることにして昼食の時間を待った。


 昼ご飯は、久しぶりにハンバーガーが食べたいというヒロの要望で、ソラが調達した。用意された品々をテーブルに広げると、かなりの量があるように思う。

「ソラも一緒に食べませんか?昨日も一昨日も、食事時は別行動でしたから、たまには・・・と言うか、今後は可能な限り一緒に」

 ヒロとシンがホテルのルームサービスを利用する時も、レストランに行く時も、ソラは一緒に食事をしていない。自室に用意があると言ってはいたが、何を食べているのか気になった。

「あ~、イイねそれ。一緒に飯を食うっつうのは、コミュニケーションにおいて大事だしな」

 堅苦しくなけりゃの話だけど、と言いながらシンは彼の提案を喜んだ。惚れた相手と一緒にいられるなら、それは1分でも長いほうが嬉しいのだ。


「ちなみに、ソラって自分の部屋でどんなモン食ってんの?」

 ダイニングテーブルに移動し、椅子に座りながらシンはソラに問いかける。出会いから4日目にして、普段の口調に戻って話すのは、少しでも彼女に対して素の自分を見せておきたいと思ったからである。

 「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えます。自室で食べるのは、主に支給されている保存食です。今回は携帯食や缶詰、カップ麺なども色々備えてもらっています」

 本部に、と続けながら微笑んで、ソラは椅子に腰かける。そんな何気ない動作にも、彼女の魅力を感じてしまう。とはいえそんな返事の内容に、それって色々問題ないか?と眉を顰めたシンだ。

「そんなことだろうと思いました。でも飽きませんか、そればかりだと」

 ヒロも同じように思ったのだろう。気遣うような口調でソラに問いかける。

「いいえ、別に。好き嫌いはありませんし、必要カロリー分は食べていますから」

 何も問題はないと言わんばかりに笑顔で答えたソラに、そっと溜息を零す二人の顔は、流石に兄弟らしくそっくりだった。


 ランチの後は、夜間任務に備えて睡眠をとるよう促されたソラが自室に引き取ると、男二人は揃って肩を落とした。

「なんかサァ、ソラってストイックすぎないか?食べ物にも関心が無さそうな感じがするし。まるで修行僧みたいじゃないか。ワーカホリック?」

 食事は、仕事のために必要な栄養を補充する、というスタンスなのだろう。

「ええ、こうなるとデートに誘ってお茶や食事をしたとしても、現時点ではあまり喜ばれそうではないですねぇ」

 恋敵は両方とも、相手の攻略方法を考え直さないといけない状況であるらしい。

「でも今日は、とりあえずソラを休ませることができたので、良しとしましょう。この任務だと、ソラは3か月間24時間体制ということになりますから、こちらで考慮しないといけませんね」

 体力的には男性である自分たちより低いはずなのだから、というヒロの言葉に、大きく肯くシンだった。



 そして夜になり、ルームサービスで夕飯を済ませ、3人は現場へと向かう。

 ホテルからヨーク港までは、車で15分ほどの距離だ。3人はソラの運転するパジェロで、目的地に向かった。車は全て本部から貸与されていて、現場に向かう時はこちらを使います、とソラは説明する。夜はかなり冷え込むので、男2人はコート着用だ。ソラの方は、体にフィットした黒のTシャツとパンツの上から、グレーのボア付きジャケットを羽織っている。ソラのパートナー、夜目が利かないヨウムのビートは留守番だった。


 ホテルから港への下り坂。ソラの運転は、丁寧でスムーズだった。その右手に、ドライビンググローブらしい物を嵌めていることに後部座席のシンは気づき、ドライビングテクニックも相当あるのだろうと思う。これらの事とこれからの事をきちんと覚えておいて、帰ったらヒロに報告しなければならない。ギブ&テイクで、ソラの詳細プロフィールを教えてもらうためにも。そう考えながら、シンは先ほど渡された小型双眼鏡を首に掛けた。


 指定の場所に到着すると、既に状況は佳境に入っているようだった。

 サーチライトに照らされた貨物船が、妙にゆらゆらと揺れながら岸壁を離れ始めている。現場から少し離れた街灯の近くに車を停めると、それに気づいた1人の男が走って来た。

 車から降りた3人に駆け寄った男は、少し焦った様子でヒロに話しかける。

「すまん、ちょっと厄介なことになってる。Skyを貸してくれないか?」

 挨拶も無いまま唐突に投げられた言葉に、ヒロは少し憮然としながらも穏やかな声音で答えた。

「僕は構いませんが・・・ソラ、行けますか?」

「はい」

 問いかけられたソラは短く返事をすると、手早くジャケットを脱いで、車の助手席に放り込む。普段の穏やかな微笑みがスッと消え、硬質な無表情の顔に、黒い瞳だけが強い意志と集中力を感じさせる光を宿していた。

 そんな彼女に、男は簡潔に頼んだ。

「あの貨物船の船尾近くに、うちの捜査官が潜んでいる。持っている筒形の容器を、海に落とさなように回収してくれ」

 夕方急激に冷え込んだせいか陸風が強い。軽い容器だと風に流されて落ちる可能性が高いことが見て取れた。

「了解しました。行きます。コンテナクレーンを動かしてください」

 気負いのない落ち着いた声で返事をすると、ソラは最短距離で貨物船の船尾に向かって走り出した。



「ウィル、船内には何人が入っているんですか?」

 スマホでクレーンを動かすよう指示する男の腕を掴んで、ヒロが問いかけた。

 この男がヒロの友人、ウィル・ジョーンズに違いない。

「うちのチーム全員が入ってるよ。ミスやらアクシデントが連鎖しちまって、てんやわんやだ。詳しいことは・・・」

 ウィルはそこまで言うと、ヒロの腕をひいて数メートル離れた場所に移動した。できればシンには聞かせたくない内容なのだろう。それを察したシンは、双眼鏡を目に当てソラの姿を探した。


 ソラは走りながら、左手で右手のグローブを手早く操作する。そして岸壁に到着するや否や、速度を殺さず海に向かって跳ぶ。宙に浮いたわずかな時間で軽く手首を動かすと、ソラのグローブから細い鞭のようなものが伸びた。

(・・・なんだ?ありゃ・・・)


 細いロープのようにも見えるウィップの先端が、右側に停泊していた大型クルーザーの手すりに絡まった。次の瞬間、ソラの体はクルーザーの船尾にあった。走る勢いを利用して弧を描くように飛び、ウィップを引き付けて体をクルーザーの甲板に投げたのだろう。

 素早く立ち上がったソラは、頭上を見上げる。斜め上に伸びているコンテナクレーンのブームが、海に向かって突き出していた。

 ウィルの指示なのだろう、ブームの下にある運転室が先端に向かって移動している。運転室の前方にあるトロリーからはケーブルが伸び、その先端にあるスプレッダーが大きく揺れていた。


 大型クルーザーは、動き始めている密輸船が立てた波で揺れている。ソラは揺れに合わせてバランスを取りながらタイミングを計った。

 トロリーがブームの最先端まで達すると、コンテナを下げていないスプレッダーは大きな振り子運動を始める。

 物体の運動法則を利用し、完璧なタイミングで海に向かって大きく跳ぶと、スプレッダーに向かって右手をふる。ウィップの先端はしっかりとスプレッダーに固定された。

 振り子運動を続けるスプレッダーに調子を合わせながら、ぶら下がったソラが密輸船の方を見ると、おそらく連絡があったのだろう、捜査官らしき男が船尾に姿を現した。手に円筒形の物体を持っている。

(・・・何あれ?・・・卒業証書入れる丸筒みたいだな)

 シンは双眼鏡を見ながら、心の中で呟く。


 右手で丸筒を掴み、身体を精一杯伸ばす男。

 大きく振られながら空中で姿勢を変え、運動方向を上手く変化させて位置を修正したソラの左手が男の持つ丸筒に届く寸前、銃声と男の悲鳴が響いた。

 丸筒は、男が倒れる動きに伴い、高く投げられたように宙に飛んだ。


 目標の位置が変わったことを見て取り、ソラは右手首を動かしてスプレッダーからウィップを開放する。揺れる勢いでソラの体が宙に放り出されると、再度右手を振った。

 体が落下開始になるその前に、ウィップは丸筒をしっかりと捉えていた。

 水濡れ厳禁。

 そう指示されていた。

 ソラは落下しながら周囲を見て取り、空中で身体を回転させると、ウィップの先にある丸筒を手首操作で岸壁に向かって放り出す。

 陸風は変わらず吹いていたが、それに押し戻されても充分な距離を飛んで、丸筒は無事着地した。


「ぅお!やったね!」

 双眼鏡で丸筒の動きを追っていたシンは、思わず驚嘆の声をあげた。


「無事、回収ですか?」

 いつの間にかウィルは立ち去っていて、シンの近くにはヒロが立っている。

「ああ、すげぇな。ソラって」

 双眼鏡を通して逐一見ていた光景は、帰ったら彼に報告しないといけないが、言葉で表現するのは難しそうだ。

「それじゃ、寒くもありますし、ソラが戻ってきたら帰りましょう」

 湾外に出ようとしていた密輸船の動きは、いつの間にか止まっていた。船内の鎮圧も何とかなったのだろう。ここからではその様子は見えないし、埠頭ではウィルと助っ人に来ていたらしい捜査官たちが立っているだけだ。寒くなってきたシンは、ヒロの言葉にありがたく同意した。


 ヒロは後部座席に座ると、深く考え込み始めた。先ほどウィルから得た情報を整理しているのだろう。シンは走り寄ってくるソラを車外で待つ。

「お待たせしました」

 軽く息を弾ませながら言うソラの姿にシンは驚いた。

 頭からずぶ濡れで、髪や服のあちこちから水滴が落ちている。

「どうした!その恰好」

「最後に海に落ちてしまいました。エンジンをかけますので、車内で少しお待ちください」

 ソラはそう言って車のエンジンをかけ暖房を入れた後、車の後部に回る。シンは仕方なくドアを開け、ヒロの隣に体を滑り込ませた。そして、肩越しにリアガラスの向こうを覗き込む。

 ソラはパジェロの斜め後方、街灯の下にいて、身体にフィットした黒のTシャツを脱いだところだった。


(・・・!)


 こちらに背を向けているので、見えるのは白い背中とストラップレスブラジャーのバックベルトだ。

 細い首と肩が華奢に見える。綺麗に浮き上がった背骨のラインが、緩やかな曲線を描いている。

 脱いだシャツを絞っているらしい様子が、肩甲骨の動きで分かった。


(・・・おっと・・・いかん)

 思わず前に向き直り、完全に順序が逆だが目を瞑る。


 この年齢だ。女性の裸なんて、初めて見るものでもない。ストリップ小屋にガサ入れしたときは、出番待ちや演技が終わったお姉ちゃん達の全裸に近いお姿の真ん中に飛び込んだことさえある。不謹慎な話だが、全裸死体にだって何度もご対面しているのだ。

(・・・でも、状況的には盗み見だからな)

 普段は紳士的であらねばならない。ある種の職業病だろうか。

 少ししてもう一度振り返ったのは、周囲に危険は無いかという確認である。

 たぶん・・・


 (・・・!!)


 上半身に絞った後のTシャツを着ているソラは、両手を腰に掛け、黒のピッタリしたパンツを下ろすところだった。濡れて張り付いているのか下ろしにくそうで、おそらく時間短縮のためだろう、下着ごと一気に脱ぐと、周囲を気にすることも無くまとめて絞り始める。


(ちょ、ちょっと待てよ!)

 細いウエストから腰への優美な曲線、白く浮かび上がるキュッと締まったヒップ。街灯がスポットライトのようにその体に陰影を作り、双丘の谷間のラインもくっきりと見えてしまった。


 慌てたが、今度はちゃんと目を瞑ってから向き直ったシンだが、流石にその動きは不自然だったようだ。

「どうしました、シン?何やら挙動不審ですが」

 ヒロがそう声をかけたのも無理はないだろう。

「あっ、いや・・・その・・・今、ソラが外で服を脱いでて・・・だな」

「何故?この寒いのに?」

「あ~・・・海に落ちたって、濡れた服を絞って・・・」

「何でそれを早く言わないんです!」

 シンの言葉を最後まで聞かず、ヒロは外に飛び出してコートを脱ぎだす。

「気温は一桁なんですよ!」

 うっかりしていたと呟くシンを尻目に、手探りで車の後方に回ったヒロだが、その時既にソラは衣服を身につけ終わった状態でトランクを開けていた。

「ソラ、風邪をひきます」

 そう言ってコートを着せかけようとすると、ソラはやんわりとそれを遮った。

「大丈夫です。バスタオルがありますから。コートはお気持ちだけ、ありがたく頂戴します」

 そしてトランクから大型のバスタオルを取り出し、眉を顰める上司を誘導して後部座席に座らせると、運転席にバスタオルを敷いて、シートが濡れないようにしてから座る。ソラは何事も無かったように、ハンドルを握った。


 斜め後ろから垣間見るソラの横顔は透き通るように白く、唇にも血の気が無い。寒くないはずはないのだが、大丈夫かと声をかけても意味がない。ビートを連れていないので、後方からの声は聞き取りにくいはずだ。

 どうすることも出来ず、ホテルに着くまでの僅か15分の時間が、なにやら酷く長く感じる後部座席の二人だった。



 ホテルについて自室の前までくると、ヒロは足を止めて後ろにいるソラに向かって告げる。

「今晩はここで任務を上がってください。僕たちも1杯飲んで休みますから。ソラは直ぐにシャワー浴びて、暖かくしてベッドに入ること。いいですね?」

「そうそう、兄弟酒で勝手にやるからサ」

 シンも傍から付け加える。それらの言葉に、ソラは申し訳なさを籠めた声で答えた。

「・・・それでは、お言葉に甘えます。お気遣い、ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げて、ソラは向かいの部屋のドアに消えた。

 その姿を確認して、シンは小さく呟いた。

「風邪、ひかなきゃいいけどなぁ・・・」


 二人は部屋に入りコートを脱ぐ。

 シンはキャビネットからブランデーを取り出して尋ねた。

「コイツでいいかな?」

 言った後、それじゃ解らないかと気づき、結構お高そうなブランデーだけど、と付け加える。

「ナイス・チョイスです、シン。グラスもお願いしますね」

 そう答えながら、ヒロはソファーに座り言葉を続けた。

「飲みながら、今夜のミーティングをすることにしましょう」


 先ずは、埠頭でのソラの様子を教えて下さい、と言うヒロに、頭の中に映像を写すように思い出しながら真は説明した。

「・・・で、右手から鞭みたいなのをな・・・」

「ああ、ウィップですね。ソラの通常装備です。今日は見学だったので、それだけにしましたが、フル装備だとそれに小型の拳銃がつきます。ウィップで空中移動が可能なんです。それが彼女がSkyと呼ばれる所以かもしれません」

 空を飛ぶ鳥のような。

「Sky・・・スカイか・・それってコードネーム?」

 そう言えば埠頭で、ウィルもそう言っていた。Skyを貸してくれ、と。

「いえ、そこまでの物ではないですが、FOIの中ではそう呼ぶ人は多いようですね。ニックネーム的な感じなのかもしれませんが」

 彼女と彼女の能力込みで、そう呼ぶのかもしれない。空中移動を必要とする状況などでは、確かに便利だろう。


 時々ヒロからでる質問に答えながら、シンは何とか一通りの説明を終えた。

「それで、最後にソラが海に落ちたところは見なかった、と」

「ああ、双眼鏡で丸筒を追ってたから、見失っちまった。海に落ちてたとは思わなくて・・・」

「まぁ、仕方がないです。それにしても・・・何故、回収するのが紙製の丸筒だったのか・・・」

「あ、それは俺もそう思った。でもって、何で水濡れ厳禁なのかってのもな」

 この時代、丸筒に機密文書を入れるなんてことはレトロすぎる。海に落ちても直ぐに回収すれば、それ程問題にはならないだろう。中に入っていたのが書類ではなかった場合もあるのだが、それにしても他に容器は無かったものか。

「ウィルから聞けなかったのか? あ、俺が聞いちゃいけないことなら言わなくていいけど」

「いや、丸筒の中身さえ教えてもらえませんでしたよ。基本、FOIではチームで事件に当たります。その中で得た情報を上層部、あるいは他部署に伝えるタイミングなどは、特別なことが無い限り、チームリーダーの判断にゆだねられるんです。ウィルからは、大きな事件の尻尾を掴んだかもしれない、と言う程度のことしか聞けませんでしたね」


 こちらは研修者の見学として参加したのだから当然だろう。それでもそこまで知ることができたのは、ヒロの友人としてのウィルが、突然部下であるソラを借りたいと言って応じてくれたお礼の意味で、教えてくれたからに他ならない。

 とにかくこれ以上関わることはできないし、その必要もないというわけだ。


「ところで・・・」

 この話は終わりにして次に進みましょうと言うように、ヒロが少しばかり悪戯っぽい顔つきで話し出した。

「出会ってから今日で4日になりますが、どうです?第一印象から随分と違ってきているのではないですか?」

 ソラの事だ。

「あ~、確かにね」

 空港で会った時は、美人で礼儀正しく、たおやかで控えめという感じだった。でもそれは直ぐ、それだけじゃないと気づいていた。

「でも、まぁ・・・色々と解って来て、それでもやっぱり、ますます惚れるような感じヨ」

 少しばかりふざけた調子で言ってみるシン。難攻不落である気はするし、相手はただ物じゃない感じはするし、何となくだかまだまだ秘密がありそうだし。

 けれどそれでも、ガッカリしたとは感じない。

「そうですか・・・それはちょっと残念ですね」

 何時でも脱落してくれて構わない、と言いたげにヒロはクスリと笑う。

「そういうそっちはどうなんだヨ」

 笑われたことにムッとしてシンは問い返した。

「僕の場合は、第一印象が音と匂いですからね。そこは全く変わりませんし、『ますます』と言うなら僕もそうです」

 ニッコリと笑って、まだまだ戦いは続きそうですねと締めくくる。

 シンは「おう」とだけ呟いてグラスを置くと、寝室に引き取った。


 けれどヒロはその後もソファーに座ったまま、思考を続けていた。


 実はソラの第一印象は、音と匂いだけではなかった。音楽的と感じた声と言葉の中に、何か引っかかるものを感じたのだ。選んで紡ぎ出す言葉に笑顔と綺麗な声がなければ、まるでAIと話してでもいるような気がする。また同時に、彼女の纏う雰囲気がどこか作り物のような気もするのだ。

 個体識別と称して彼女の身体に触れた時は、まぎれもなく柔らかな人間の女性だったのに。

 と言うことは、彼女は本当の自分を隠しているのではないか。

 殻のように、鎧のように、けれど自然に、誰からも気づかれないように。

 そうしないと生きてこれなかったかのように。

 欠けた部分が多いために、丸ごと自分を覆い隠してしまっている。

 そんな雰囲気であることを、この4日間の間にヒロは確信していた。


 本当のソラが知りたい。その欠けた部分を知りたい。

 それを理解できるのは、自分だけかもしれない。根拠のない考えだが、同じ障碍者であるということ以上に、これまで学んで身に着けてきた心理学も助けになるだろう。

 少しでも彼女の助けになりたい。そのためにも、ずっと傍に居たい。

 ・・・彼女を守りたい

 そんな事を考えると、自嘲気味な笑みが頬に浮かぶ。

 守られているのは自分の方だというのに、と。

 ソラはおそらく、眼が見えない上司を守る盾になることも、自分の任務の一部だと考えているだろう。そして、確かにそれは事実なのだ。


「でも、諦めたくはないんですよ。何故か、こればっかりは・・・ね」

 ヒロはグラスを置くと、ゆっくりと立ち上がる。

「自分が実行可能な計画を立てましょう。時間はきっとあるでしょうから」

 そう呟いて、寝室へと向かった。

 


 翌朝、いつも通りの時間、いつも通りのスーツ姿、ただネクタイは手に持って、寝室から出て来たシンは、広い室内の、だがいつもと違う雰囲気に気づく。

「オハヨ、今朝はブレンドをブラックで。もう面倒くさいから、朝はこれからずっとそれでイイから」

 とりあえずいつも通りに朝のコーヒーのリクエストをソラに告げて、ダイニングテーブルにつく。

「おはよう、シン。起きてくるのを待っていましたよ」

 真面目な顔つきで話しかけてくるヒロに、シンはコーヒーの用意をするソラの背中を見ながら尋ねた。

「ナンかあった?」

「聞きたいことがが2つと、伝えておくことが1つありましてね。先ず、伝えておくことの方からにしましょう。今回の研修ですが、VIP待遇は人為的なミスだったと解りました」

 あり得ないくらい単純で、この時代まだそんなことがあるのか、と疑いたくなるような事実。

「人事担当が、シンの名前を聞き違えたようです。山之内 晋二郎と・・・」

「・・・あ~、アイツね」

 シンが所属する警視庁の、お偉方の中でもトップクラスの人物。ヤマグチとヤマノウチ、しかも名前は音が同じ。まぁ、どんな時代にも人為的ミスは発生することはある。

「で、とりあえず今日からは、通常の研修になります。宿泊場所はこのままで良いのですが、今後の研修内容が変わってきます」

 現在寝泊まりしているのは、最上級のホテルでスイートルーム。そこがこのままで良いということは、きっとヒロがポケットマネーを使うということなのだろう。そうすると後は、使用する車のランクが下がるとかだろうか。

「基本的に、色々な部署で、捜査や事件にシンが入ってそこで研修を受ける感じですね。内勤の場合は、正直に言えば雑用担当でしょうか。それらに関しては我々アテンド役はついていく必要は無いのですが、その辺りはアンジーに頼んで、僕とソラはこのまま任務続行としてあります」

 普通の研修の合間に、自分自身に入ってくる要請などに、3人で当たりたいのだという。もしかしたら、独自に進めたい捜査ができるかもしれない、と。

「・・・ん、了解。そういや、アンジーは人事のトップだったよな」

 かなり異例の対応なのだろうが、そこまで通せるところに、ヒロとアンジーの関係が読み取れる気がする。

「そうすっと、俺は毎日ここから出勤して、終わったら帰ってくるってことになるのか・・・」

 その間、恋敵の兄が彼女と二人きり。それはあまりにも自分に不利だろう、と思わず顔をしかめるシンである。

「まぁそう言うことですが、送り迎えはソラにしてもらいますから、それで我慢してください」

 それは嬉しいことだが、一緒に居られる時間はどれほどになるのか。

(あ、でも、帰りにデートに誘ってみるのもアリか)

 研修者の身としては、そのくらいの事で自分を納得させるしかない。運ばれてきたブレンドを口に含み、シンはため息をついた。


「で、聞きたいことですが、先ずはいつもの・・・」

 ヒロは毎朝、ソラの服装を聞いてくる。

「あ~、いつもと同じ。グレーのパンツスーツに白いシャツ」

 今日、5日目の朝も全く同じなのだ。答える側としては、楽でいい。すると少し考えたヒロがソラに向かって、座るようにと促す。

「ソラ、いつも同じ服装ですが、ここはオフィスではないし、寧ろプライベートなリラックス空間にしたいので、君ももっと楽な服にしてください」

 任務として、バトラーのように身の回りに関する仕事をするのだから、と堅苦しいスーツ姿にしているのなら、今後シンがVIP待遇でなくなるのだから、その必要は全く無くなる。

「私服は持ってきていないんですか?」

 続けて問いかけるように話すヒロに、ソラは淡々と答えた。

「いえ、一応私服は一組搬入していますが、このホテルには合わないと思います。違和感があるのでは、と」

 その程度のTPOは身に着けている、と言いたいのだろう。

「いや、この部屋の中では構いません。今、とは言いませんから、次に着替えるときは私服の方でお願いします」

 お願いと言われても、彼女にとっては上司からの命令になってしまう。

 でももうVIPじゃない自分なら、と思い至ったシンが、追いかけるように言葉をかけた。

「あ、俺もお願い。あと、もうバトラーみたいなことしなくてイイんだから、畏まった話し方もナシでヨロシク。そうだなぁ、せめて普段同僚と話しているような感じにしてヨ」

 ソラは暫し考えるような表情を見せたが、いつもの穏やかな笑みに戻って返事をした。

「解りました。服装と話し方は、そのようにします」


「では最後に、一番重要なことなんですが・・・シン、気が付きませんか?」

 ヒロはシンの方に顔を向け、問いかける。サングラスは外しているが、瞼は閉じたままだ。

「え?・・・何に?」

「ああ、気づきませんでしたか。ソラの声、少し掠れているんですよ」

 健常者には気づかないような、僅かな違い。視覚障碍者の自分ならはっきりと解る。視覚が使えない分、聴覚と臭覚はかなり鋭いのだ。

「昨晩のこともあるので、風邪をひいているのではないかと思うんですが、シンに見てもらいたくて待っていたんです」

 あ、成程、とシンは思う。顔色とか動作とか、そういう事を見て取れないヒロなのだ。

 居心地悪げに身体を固くするソラの様子が、シンにははっきりと見て取れた。

 おそらく、今朝の『いつもと違う雰囲気』はそれが原因だったのだろう。声の掠れから不調に気づき問いただすヒロと、あくまで大丈夫だと答えるソラとの間に、ちょっとした不協和音があったのだ。


 ソラの方に向き直り、シンはまじまじとその顔を見る。言われてみれば、確かに頬がうっすらと赤い。伏せている眼も多少潤んでいるようだ。

「こりゃ、風邪ひいてるな。熱っぽいとか怠いとかって感じてるんじゃないか。どうなの?」

「いえ、行動に差し障るレベルではないですから・・・」

 大丈夫です、続けるソラの傍らに、いつの間に動いたと思える素早さでヒロが立っていた。目が見えないなんて嘘だろうと思うような自然さで、ソラの顔の位置を左手で確認し、頬を抑えたまま右手を彼女の頬に当てる。

「・・・37度8分・・・微熱ではありませんね」

 聴覚と同じで触覚も鋭い掌は、体温計のように熱を感知していた。

「朝でこのくらいですから、この後もっと上がる可能性が高いでしょう」

 そう断言するヒロは、今日のスケジュールを決定した。

「今日は休日にしましょう。どのみち研修先を選定しなおす必要がありますから、外出することもありません。一応4連勤と言うことになってますから、不都合はありませんしね」

 通常、と言うか表向きは、ブラック企業ではないと公言するFOIなのだ。

「お、おう・・・」

 同意するシンだが、ソラの方は何か言いたげに二人を交互に見ている。

「そういう事ですから、ソラ、今日の任務は『風邪をこじらせないように、薬を飲んで寝る事』です」

 反論は受け付けない、とヒロはきっぱり言う。

「確か、どこかに救急箱があったはずですから、探して風邪薬をソラに飲ませてください」

 諦めて大人しくしているソラの周りで、シンはバタバタと指示に従うのだった。



 そして夕方、ソラは言いつけ通り自分の任務を終わらせて、2人のいる部屋に入ってきた。朝昼2回の薬の服用、そして睡眠。熱はほぼ平熱に戻ったと判断したので、これで与えられたミッションはクリアだと考える。

「色々とありがとうございました。体調は戻りましたので・・・」

 そう言いながら頭を下げるソラの服装に、シンは思わず首をひねってしまった。

(う~~、そう言うことか・・・)

「それは良かった。でもまだ無理はしないでくださいね」

 優しく声をかけたヒロだが、ふとシンの様子に気づく。

「シン、何か?」

「・・・う~ん、何というか・・・ソラの私服がな・・・」

 それを聞いたヒロは、おもむろに立ち上がってソラの前に立つ。

「良いですか?」

 と声をかけてから、彼女の服を掌と指で確認していった。


 上には羽織っているのはネルシャツだろう。その下にはTシャツを着て、ジーンズを穿いていると解る。が、どちらもオーバーサイズのようだ。しかも、どれもかなり着古しているような生地の触り具合で、特にTシャツの襟もとなどは、ベロベロに伸びている。イメージとしては、スラムで出会う少年のような感じだろうか。確かに、このホテルには合わないだろうし、これでは、本人にまるで似合っていないだろうとも思う。


 そんなことを確認しながらヒロはふと思いついて、またソラの額に手を置いた。

「熱は少し下がったようですが・・・37度ジャストですね。まだ微熱が残っていますよ。薬が効いていないのでしょうかねぇ」

 確か、ヒロにしか閲覧できないソラの詳細情報では、平熱は36度だった。

「いえ、こんなものだと思います。元々、薬が効きにくい体質なので」

 そう言えば、その詳細情報に、薬物耐性訓練も受けているとあった。

 風邪薬も、薬物であるに違いない。

「でも、この状態なら、明日には完全に復調します」

 そう言い切るソラに、ヒロは次の任務を与えるしかない。

「それでは、夕飯の後もう一度風邪薬を飲んで、今晩は出来るだけ早く部屋に戻って寝るように」

 その言葉に、素直にはいと返事をしたソラだが、直ぐにその前の会話を思い出して言った。


「あの・・・お見苦しいようでしたら、直ぐに着替えますが」

 1歩下がってそう言うソラに、先ずはシンが答えた。

「あ~、いや・・・その、あんまり似合ってないな、と思って」

 続けてヒロが問いかける。

「ソラ、その服はかなり古そうですが、これが好みなのでしょうか?」

「好み、とかではありません。これが古着屋の中で一番安かったものですから」

 服そのものを滅多に購入しない、と続ける。そして、着ていたグレーのスーツも、この任務が始まる前にアンジーがプレゼントしてくれたものなのだと言う。

「アンジーとは長い付き合いで、本当に色々と気にかけてもらっています」

 そんな説明に、二人は出会ったその日、この部屋でソラが言ったことを思いだした。『特別手当が破格なので』と、この任務に就く理由をそう答えた。かなり意外だったあの言葉は、彼女の金銭的な事情が裏付けとなっていたのだろう。おそらく普段の生活も、かなり切り詰めて節約に励んでいるのだろう。


「では、次はもう少しマシな格好でここに来ます。それで、いいでしょうか?」

 スーツの上着を脱いで、シャツとパンツだけの姿なら、多少は堅苦しさも減るだろう。そう言えば話し方も、多少は慇懃度が下がっている。

「スーツは一組しかありませんが、出来る限りクリーニングしていますので、不衛生にはなっていないと思います。あ、クリーニングで思いだしましたが、お二人のコートをクリーニングに出そうと思います。しばらく暖かい日が続くと予報でも言っていましたので」

 確かに昨晩は港の陸風に当たってはいたが、それほど汚れてはいないだろうと思う。けれど少しでも今日の仕事がしたいのだろうと思わせるようなソラの口調に、それじゃよろしくと声を揃えて言う兄弟なのだった。


 ルームサービスの夕食後、ソラはクローゼットからシンのコートを出した。

 シングルのトレンチコートで、色はベージュだ。地味でシンプルだが、何となくシンらしい。

 そんなことを思いながら、コートのポケットを探ってゆく。クリーニングに出す前に、しなければならないことだ。案の定あちこちのポケットから、色々なものが出て来た。

 皺が寄ったハンカチ、用済みの丸められたレシート、どこで紛れ込んだのか小さな枯葉まである。

 ゴミと判断されるものは捨て、ハンカチは畳みなおしてこれもクリーニングに出すことにする。そして最後に、レシート類の皺を伸ばしてクリップで止めた。しかし、そこでソラはそれらの中に、レシートではない小さなメモ用紙を見つける。

 半分に畳まれた薄い緑色の紙片。広げて見たそこには

『ごめん 帰ったらちゃんと謝るから』

 と書かれた文字があった。

 ソラは紙片に鼻を近づけ、その匂いを嗅いでみる。女性用の化粧品と、ミントの香り。消えかけている微かな匂いだったが、嗅覚も人並み以上の感覚を持つソラは、それを確かに感じていた。


 けれどソラは、何事も無かったかのようにメモを2つ折りに戻し、クリップ止めをしたレシート類の1番上に挟む。そして夕食後の食休みのようにソファーで寛ぐシンに、いつも通り穏やかに声をかけた。

「シン、ポケットの中の物は出しました。ここに置いておきますので、後は自分でお願いします」

「オッケー♪」

 どんな些細なことでも、ソラにお願いされるなら嬉しい。上機嫌で返事をするシンと、向かいのソファーでリラックスしているヒロに軽く頭を下げたソラは、そのまま部屋を後にした。


 休日の一日は、終わった。



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