1 腹違いの兄弟は恋敵
シリーズ「Life of this sky」の1作目になります。
数奇な運命を辿る、1人の女性の長い物語の序章。
FOI・・・Federal Organization of Investigation の略 連邦調査組織
アラームで目を覚まし、半覚醒の頭でベッドを降りて寝室のドアを開ける。
その瞬間、頭に浮かんだの意識は
「ここ、俺んチじゃなかったっ!」
寝起きの頭髪はボサボサ。パジャマの上はヨレヨレで第一ボタンは外れ、下は少しずり下がっている。そんな自分の姿に思わず硬直した真治郎に、声が掛かった。
「おはようございます。コーヒーは・・・」
おそらく「いかがでしょうか?」と続くであろう柔らかな声を、彼は最後まで聞けなかった。
「し、失礼しましたっ!」
と叫ぶなり、真治郎は勢いよくドアを閉めた。
頭をモシャモシャとかき回しながら、クローゼットから新しいワイシャツと靴下、昨日来ていたスーツ等を取り出すとテキパキと着替えながら、真治郎は昨日の事を思い出していた。
真治郎が降り立ったのは世界屈指の超大国Aの首都空港だった。荷物は全て先に送ってある。身軽に到着ロビーに出てきて、迎えに来ている筈の男性を探す。その相手は高木博之。真治郎の10歳年上で腹違いの兄にあたる。そうと知ったのは半年ほど前の事だったが。
半年前に日本にやって来て、戸籍を見せて自己紹介した兄とは、一応それ以降も連絡を取り合っていた。腹違いの兄がいることは知っていたが、だからと言ってどうという感情も無い。自分の母親が後妻であり、法律上は何も問題はなく、当の両親はすでに亡くなっている。そして自分も32歳の社会人となっていれば、他に親戚と言える人間はいない中、血のつながりがある関係者が1人くらいいても良いと言う程度の認識だ。
ロビーの中を見回すと、少し離れた場所で見知った男の姿を見つけた。傍らには女性が立っている。その女性がこちらを見て手をあげた。真治郎が近づくと、美人だが気の強そうな印象がある女性がニッコリ笑って話し始めた。
『ようこそ、A国へ。ヤマグチ・シンジロウ刑事ですね。私はアンジェラ・リッチモンド。FOI本部人事部長です。ヒロユキから話は聞いてるわ。私たち、旧知の仲なの。でも・・・う~~ん、あんまり似てないわね』
流暢な日本語で、親し気に右手を差し出すアンジェラに、とりあえず自己紹介して握手する真治郎だ。するとアンジェラは笑顔で続けた。
「アンジーでいいわ。ここからはA語でオーケーよね」
とりあえず会話なら充分いけるので頷くと、横から長身でサングラスをかけた男が声をかけた。
「会うのは半年ぶりですね、シンジロウ。研修の要請を受けてくれてありがとう。もしかしたら断られるかもしれないと思っていましたが、嬉しいですよ」
真っ黒なサングラスがあってもそれとわかるような満面の笑みで、真治郎の兄にあたる高木博之が話しかける。そして二人がその後の状況など当たり障りのない話を続けている間に、アンジェラはスマホを取り出してどこかと連絡を取っていた。
「直ぐに来るわ。そう言えばまだ伝えてなかったわね。今回の研修中、アテンド役はヒロユキなってるけど・・・」
すると言葉を引き継ぐように博之が続ける。
「丁度いいタイミングで仕事もひと段落しましてね、次の仕事の準備をしながらアテンド役をやりたいと、ちょっとごり押しで役目をさらったわけなんですよ。でも僕はこういう状況なので…」
博之は左手の人差し指でサングラスを指し、その右手には白杖を持っている。彼は10年前、当時は捜査官であったが、任務中の怪我で視力を失っていた。それでも離職はせず、主に内勤として捜査チームをまとめ、チームリーダーとなって事件を解決に導いている。その手腕が認められ、今ではFOIの中でもかなり影響力がある存在になっているらしい。
「それでね、アテンド役の補佐としてもう一人必要かと思ったので、声をかけたってわけ。ヒロユキも会うのは初めてでしょ。今、彼女には車を回してもらっているけど、直ぐに来るわ。で、シンジロウ・・・」
そこまで言うとアンジェラは悪戯っぽい表情で真っすぐ真治郎に向き直り、きっぱりと言い切った。
「彼女、美人よ」
ロビーの自動ドアから、右肩に灰色の鳥を乗せた女性が駆け寄ってくる。
明るいグレーのパンツスーツに軽やかで微かな足音。無駄のない動きで真っすぐ三人に走り寄った女性は、息も切らさず博之の正面に立った。右足の踵に左足の踵を添え、流れるように右手を左のこめかみに当てる。
「ソラ・リセリ・キクチ捜査官、着任します」
すらりとした姿は気負いもなく寧ろ優雅で、自然でありながら凛とした雰囲気を纏っていた。黒い瞳、黒い髪。白い頬の横顔を眺めながら、真治郎は彼女が目に入った瞬間から心臓が鷲掴みにされたような感覚を味わっていた。
「・・・あ、ああ・・・着任報告受けました。では、どうぞよろしく」
応える博之の声が、少し上ずっているのに真治郎は気づいてしまった。
『アテンド役の補佐をいたします、ソラ・リセリ・キクチ捜査官です。どうぞよろしくお願いいたします』
真治郎に向かって、最初の挨拶は日本語で、しかも完璧なお辞儀で静かに頭を下げるソラ。そしてゆっくり頭をあげると
「ソラとお呼びください。そしてこの子はビート」
続きはA語で、穏やかな笑みを浮かべるソラは、肩に乗った鳥を指し示す。
「FOI公認で私のパートナーを務めています。私は聴覚障碍者なので。詳しい自己紹介は後程させていただきます」
ソラは更に自分の右耳を示した。そこには耳掛け式の補聴器らしきものを装着している。
真治郎は何と言って返事をしたのか、後になってもよく思いだせなかった。
アンジーとは空港で別れ、一行はソラがハンドルを握るいかにも高級な黒塗りの車で、研修中に滞在するホテルへと向かった。
(すげぇ外車だよな・・って、あ、こっちじゃ国産車か)
などと、真治郎が他愛もないことを考えているうちに到着したホテルは、たかが日本の一刑事である自分が滞在するにはあまりにも高級すぎる佇まいだった。しかも案内されたのは最上階のスイートルームである。
(どんだけ金持ちなんだ、この国は。・・・見栄はってるとか、かねぇ)
「長年生き別れになっていた兄弟ですからね、この機会に親睦を深めようと思いまして、ここにしてくれるよう申請しました。多少自腹は切りましたが、ここならベッドルームは二つあるので、一つ屋根の下みたいな雰囲気になるじゃないですか」
楽し気に、かつにこやかに、部屋に入る腹違いの兄。
(俺の兄貴様は、大層なお金持ちでおられるんですかね)
とひそかに心の中で悪態をついた真治郎だったのだ。
到着した時は、もう深夜と言ってよい時刻だったので、そのまま自分のベッドルームと言われた部屋に入り、何故か多大な疲労を感じていた真治郎は、とりあえずパジャマに着替えて最上級のベッドにもぐりこんだのだった。
昨日の出来事を早送りで思い出しながら、真治郎はスーツにネクタイという真っ当な格好でベッドルームを出る。広い室内は大きな窓から入る朝日が眩しいほどで、何度か瞬きした真治郎の眼に、昨日の美人さんの姿が飛び込んできた。肩には昨日も見たビートが乗っている。
「おはようございます。コーヒーはいかがですか?」
優しいアルトの響きは、先ほど途中で聞きそこなった言葉を最後まで紡ぐ。上品でそつのない笑顔も付けてくるから、真治郎は昨日味わった胸の高鳴りをもう一度味わってしまった。
「ありがとうございます。お願いします」
「何かお好みはございますか?豆の種類でも淹れ方でも、ご遠慮なくどうぞ」
「あ~~・・・えっと・・・」
何かセンスの良い返事は無いかと頭の中を探す真治郎だが、どこをどうやってもそんなものは出てこない。
「それじゃ・・・あの・・・何でもいいです」
考え末の返事がこれじゃ、格好がつかない。
けれど笑みを浮かべたままの表情も変えず、かしこまりましたと答えてソラはコーヒーを淹れに行く。その背中を見ていた真治郎に、ずっとソファーに座ってこちらに背中を向けていた博之が声をかけた。
「おはよう。でも、パジャマのままで良かったんですよ。僕もそうですから。ここにいる間は、自分の家だと思ってリラックスしてください」
(ここに畳とちゃぶ台でもあればそれでもいいけどヨ、こういう文化には慣れてねぇっつうの)
「いや、この方が落ち着くんで・・・」
いくら兄弟だと言われても、そうそう簡単に打ち解けるなんて難しい。しかも相手は、弟に向かって教科書に載ってる会話文のように丁寧な話し方をするのだ。口から出る言葉と裏腹の心中を抱えながら、真治郎はこっそりとため息をついた。
ソラの淹れたコーヒーを飲みながら、真治郎はふと思いついてソラに尋ねた。
「その鳥・・・ビートって、オウムですか?」
ソラはバトラー並みに洗練された動作で、博之のカップに2杯目のコーヒーを注ぎながら、笑顔を絶やさずに答える。
「いえ、ヨウムです。オウム目インコ科になります。私は左耳は全く聴こえなくて、右は補聴器を使用すれば多少聞こえます。普段は主に相手の唇を読んで会話をしていますが、背後や左側からの音が解りづらいので、そちらをビートが教えてくれます」
髪を咥えて軽く引いて注意を促すのだと聞き、それは賢いなと感心する真治郎。
「ビート、ご挨拶していいですよ」
ヨウムに向かってほほ笑むソラの表情には、自然な優しさと愛情が感じられた。
《 ボク、ビート! ビート、ヨロシクゥ~ 》
少々甲高いヨウムの声が、明るい室内に響いた。
今日のスケジュールは、各方面への挨拶回りだけだと告げられ、ホテルで朝食を済ませると、昨日と同じようにソラが運転する高級車で出かけた。ビートはソラの部屋で留守番だ。
A国は連邦なので、真治郎の研修先FOIはそれらの州の垣根を越えて捜査を行う警察組織となっている。そこから日本の警視庁に、研修に来ないかとお誘いが来たらしい。お偉方の諸事情は知らないが、何となく兄博之が根回しをしたのではないかと疑っている真治郎だ。
それでも、自分にとってはいい機会ではあったので、こうして研修に来ているわけだが、真治郎としては面倒で窮屈にしか感じられない挨拶回りである。
何度も同じ文言の挨拶を繰り返し、全ての予定された場所をめぐり終わってホテルに帰った時は、もう夜の8時になっていた。
「お腹がすきましたね。シンジロウ、食事がてら一杯やりませんか? このホテルのバー、結構良いんですよ」
コートを脱いでソラに渡しながら、博之が提案してくる。確かに空腹ではあるし、酒は嫌いじゃないので真治郎は承諾の返事をした。すると博之はソラに向かって告げる。
「今晩は、兄弟水入らずで語り合いたいので、ソラはもう休んでください」
ソラの部屋は廊下を挟んで向かいにあるシングルルームだ。スイートに止まるお偉いさんのガードマンなどが使用する目的のものかもしれない。
「かしこまりました。では、ご用のある時は何時でもお呼びください。それと、ヤマグチ刑事にお伝えしておくことがあります」
ソラの言葉に、何かと振り向いて真治郎はつい姿勢を正してしまった。
「品物でも食事でも、女性でも、ご希望があれば全て叶えるようにと言われています。ご遠慮なくお申し付けください」
「・・・はぁ?」
品物と食事の希望は解る。多分、コンビニのおにぎりが食べたいと言えば調達してきてくれるのだろう。真夜中は流石に気が引けるが、もしそうなってもきっと、にこやかに買いに行ってくれるに違いない。でも、女性って・・・
「ええと、女性っていうことは・・・あ、例えばそういうサービスをしてくれるお店とかを紹介するってことか?」
そういう類の店は、この国でも種々様々ある。それにしても、いくらVIP待遇とは言えそんなことまでサポートしてくれるのは、何となく自分がスケベなおじさんに見られているようで不快になる。いや、年齢的にはおじさんに違いないのかもしれないが。
「はい、お店でもよろしいですし、出かけるのがご面倒でしたら、こちらに呼ぶことも可能です。ホテル側には内密で了承を得ているそうですので、ご安心ください。多少お時間をいただくことになりますが、お急ぎの場合でしたら、私でよろしければどうぞ」
「ちょっと待てぇぇぇ!」
思わず大声を出した真治郎だが、それを聞いていた博之が口をはさむ。
「言われている、と言いましたがそれは誰にですか?」
「トップの方々のお1人からです。お名前は出せませんが、アテンドの補佐を引き受けた時に、別室に呼ばれて告げられました」
「僕は実際アテンド役は初めてなんですが、女性がアテンドにつく場合はいつもそうなんでしょうか?」
「さあ、私も初めてなので、何とも申し上げられませんが・・・とにかく、ご不快な思いをさせることがあってはならないと言われました」
小さな島国の、一介の平刑事の研修でそこまでするのはおかしい気がするが、もしかしたら今後こちらのお偉方が視察と称して出向くときのためかもしれない。この程度の接待は普通だと思わせるとか・・・。上が考える事は解らない、と大きなため息をつく博之だが、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「それでも、貴女がこの任務を引き受けた理由は何なんですか?」
「この任務でいただける特別手当が破格だったからです」
笑顔を崩さず淡々と、ソラは真っすぐにヒロを見て答える。
そこにどうにか衝撃から立ち直った真治郎がきっぱりと言った。
「そういう意味での女性はいらん!」
「了解しました。でもお気が変わられた時は、いつでもどうぞ」
表情を全く変えず、ニッコリとソラは答えた。
どうにも気まずい沈黙の後、その場の空気を換えるように、或いは今までの会話など無かったかのように、博之が口を開いた。
「ああ、それと、僕たちは君をソラと呼んでいますけど、僕たちも略称で呼んでもらっていいですか?今後、現場に出ることもあると思いますし、短くて聞き取りやすいほうが良いと思うので。特にシンジロウは言いにくいでしょう。とりあえず僕の方は、肩書無しでヒロと呼んでください」
同意を求めるように真治郎の方を向いた博之だが、視覚障害があるとは思えない自然な動きだ。
「上司やVIPに向かって、言いにくいとは思いますがお願いします」
そして今度はソラのいる方向に向かって、人懐こい笑みを浮かべる。
「・・・・それは、ご命令ですか?」
わずかな沈黙の後、静かに答えるソラに博之は少しだけ寂しそうな笑みになって続けた。
「仕方がないですね。それじゃ命令と言うことで・・・」
すると真治郎は、どこか勝ち誇ったように言った。
「それじゃ、俺の方はシンで」
一瞬だけ困ったように眉を寄せたソラだが、直ぐに元の表情に戻ると
「了解しました」
と、穏やかにほほ笑んだ。
最上階のレストランで食事をし、バーラウンジに移動したヒロこと博之と、シンこと真治郎である。
食事をしながら共通の話題である仕事、つまりは犯罪や捜査の話などを、辺りの雰囲気を壊さない程度に話していた二人だが、バーで酒を飲みながら話すとなると、さて何を話題にすればいいのやら。
シンは黙って手の中のグラスを軽く揺らす。
するとヒロは、そんなシンの様子を伺いながら話しかけた。
「女性の話でもしませんか?」
「へっ!・・・なんで、また」
「いえ、男兄弟だとそういう話をすると、聞いたことがありまして。話題がそれなら、もっと砕けた話し方にもなりそうじゃないですか。シンはプライベートだともっと違う話し方ではないですか?僕の方は常にこんな感じなので、それにも慣れて欲しいですしね」
声は低めで良く通るが、明るいトーンの話し方が人懐こい。見かけも雰囲気も、その実年齢にはとても見えない。
「・・・ま、いいですけどね。好きなんですか?・・・その・・・女が。いや、女の話が」
「好きですよ、勿論。年は食ってますけど、ノーマルな男性ですからね」
(むっつりスケベ、いやにっこりスケベかな?)
二人とも、一応まだ独身である。
少し考えてから、シンは聞いてみることにした。
「空港で会ったアンジーって、もしかしてかなり親しかったりするのか?」
「ええ、アンジーは昔、プロポーズ寸前まで行った相手なんですよ。指輪まで用意してたんですが、その寸前に入った任務で僕は視覚を失ったので・・・色々考えた挙句、断念して今に至ります。彼女もそれを解ったうえで、仕事上では最高の上司になっている感じですかねぇ」
(あ、アンジーの階級って、もしかして相当高いのか?)
何だかこれ以上深くは聞けないな、とグラスに口を着けながら黙っていると、今度はヒロの方から聞いてきた。
「シン、君の方はどうなんですか?日本で待ってる人とかは?」
「あ~~、長い付き合いだった相手はいたけど、こっちに来る少し前に喧嘩別れしちまった」
何やら事情がありそうで、これ以上詮索することを躊躇するヒロである。
気まずい沈黙が暫し流れた後、シンはまたふと思いついたことを口にした。
「さっきはビックリしたけど、そもそも俺ってソラの事をよく知らないんだな。ミドルネームがあったってことは、彼女はハーフなのか?」
「いえ、クォーターと言うことになってます。今日本部に挨拶に行った時、登録手続きをしたでしょう?FOIのホームページにそれでログインすれば、所属する捜査官のある程度の情報は解りますよ。後で見てください。扱っている事件の詳細や進行状況なども確認できますので」
ヒロはニコニコしながら話し続ける。
「とは言っても、個人の詳しい情報、プライバシーに関するような性癖とか病歴とかルーツなどは、直属の上司以上でなければ閲覧できないようになっていますが」
「ってことは、アンタは見れるってことかよ」
思わず素の話し方になってしまったシンである。
「はい、そうですね。ああ、見ると言っても音声変換で聞くことが出来るという意味ですが。でも任務上必要であると僕が判断すれば、シンに教えても良いです」
チクショウ、と心の中で呟きながら、それでも顔には出さないシンである。
「ま、上司だから自分を好きなように呼ばせることもできるしな。命令という形でならサ」
つい皮肉っぽく言葉にしてしまったシンに、一瞬眉を顰めかけたヒロだが、直ぐに元の笑顔に戻る。
「もしかして自分は命令ではなく、お願いしたと思ってるんじゃないですか?」
命令してそう呼ばせるのと、お願いしてそう呼んでもらうのでは、確かに親しさが違うだろう。
「でも、ソラにしてみればシンのお願いは、聞き届けなければいけないものですからねぇ。命令と変わりないと思いますが」
そうだった、と今度ははっきりと顔に出してシンは眉を顰めた。
「そんなに気になってるんですか?ソラが」
ヒロは真面目な顔つきで、腹違いの弟に尋ねた。
その後はお互い何も言いだせず、静かな沈黙の時が流れる。
10分位は経っただろうか、先に口を切ったのはシンの方だった。
「・・・なんかサ、一目惚れしちまったみたいで・・・」
ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟くシンに、ヒロは苦笑を浮かべて小さくため息をついた。
「どこが気にいったんです?」
「・・・見た目も雰囲気も・・? 何か、理想の女性っつう感じで・・・」
柳のようにスラリとしたプロポーションで、胸は豊かでウエストは細い。顔も、それぞれの綺麗なパーツが完璧な位置に収まり、要はパーフェクトな美女だと思った。穏やかな笑顔と洗練された仕草、纏う雰囲気が『たおやか』であるのに、芯にしっかりとしたものを宿している。口数は少なめだが、凛として傍にいる姿は大和撫子にも通じる印象だった。
するとヒロは、いささか困ったような口調で言った。
「実は、僕もなんですよね」
「はぁっ?」
シンが、思わず大きな声をあげたのも無理はなかろう。
そう言えば確かに、最初にソラが着任報告をしたとき、ヒロの様子は少しおかしかった。
「・・・彼女が駆け寄る足音を聞いた時、ハッとしました。微かだけどリズミカルで、きっと細身で体重が軽く、運動神経が抜群なんだろうと判断しながら、何故か不思議に感動しましてね。そして、彼女が近くに来て報告した時、その声の美しさに陶然としたんです。綺麗に透き通るような音律が、絶妙なリズムとアクセントで流れると、まるで音楽のようだと感じて。・・・一目惚れならぬ一耳惚れ、とでも言うんでしょうか。それに今日も、彼女が傍を通るたび、微かに感じる香りに心惹かれましたよ。香水ではない、自然な香りで・・・」
酔ったように滔々と話し続けるヒロに目を丸くするが、結局最後にシンは両手で頭を抱えた。
「なんてこった!・・・よりによって・・・腹違いとは言え兄弟で、親睦を深める話の結果が『恋敵』って事じゃねぇか。しかもお互いいい年してんのに・・・」
思春期の兄弟なら、そう言うこともあるかもしれない。けれどシンは32歳、ヒロに至っては40歳なのである。誰かに相談でもしようものなら、呆れた表情しか返ってこない気がする。
少ししてヒロが、穏やかな口調に戻って言った。
「まぁ、仕方がないですかね。こう言うこともある、と諦めるしか無さそうです。そうなると、ライバルになるわけですから、お互いフェアにいくことにしましょう。ソラに関しての情報は、ギブ&テイクにしませんか?」
「ど~ゆ~コト?」
「僕は彼女を見ることが出来ませんから、シンが見たことをなるべく詳しく教えてください。その代わり、僕しか知ることが出来ない、HPなどにある彼女の詳細情報を教えましょう」
そんなことで、個人情報を伝えていいのかとは思ったが、全てと言うわけでは無いし、ヒロならその辺りのさじ加減もできるだろう。暇な時間にこんな感じで、情報交換できるのは悪くない。どうやら異国の地で少し自分に対する厳しさが緩んでいるような気もするが、とりあえずその情報は誰にも口外しないという誓いだけはたてておく。
「わかった、それで行くしかないな・・・」
研修期間は三か月の予定だ。それまでに結果を出そうと思えば、恋の成就に使える時間はかなり短いと言える。おまけに恋敵まで存在するなら、そんな交換条件も利用するしかないだろう。
何やらかなり変則的な恋愛模様が描かれそうな気がするが、研修をこなすモチベーションも上がりそうなシンである。
そんな様子の弟を見ながら、負ける気など微塵もないと言いたげに余裕を見せて、相変わらずの笑みを浮かべる兄なのであった。
三日目。
ヒロの朝は早い。6時ごろにはさっぱりと目を覚まし、手探りで簡単に身支度を整えてベッドルームの扉を開ける。しかしそこには、いつも通りの雰囲気でコーヒーを準備するソラの気配があった。
「おはようございます。今朝のコーヒーはどのようにいたしますか?」
《オハヨー、オハヨー》
ソラの肩に乗ったビートの明るい声も続く。
音楽的なソラの声に満足感を覚えながら、ヒロは楽し気に答えた。
「そうですね、今朝はカフェオレで」
やがてカリカリと軽やかな音が聞こえ、丁寧に挽かれたコーヒー豆の香ばしい香りと温められているミルクの香りが漂う。続いてホッと落ち着くようなカフェオレの香りを感じた時、目の前のテーブルにコツンと小さな音を立ててマグカップが置かれた。音さえあればカップの位置は解る。そう告げたわけでもないのに、ソラはそんなヒロを理解したようだった。
「お待たせいたしました。どうぞ」
「ありがとう・・・うん、美味しいですね」
「ご満足いただけたなら良かったです。一応、今回のアテンド補佐に着任する前、バトラーに関する仕事はひと通り勉強してきましたが、付け焼刃なので粗相があったらご指導ください」
「いや、完璧だと思いますよ」
朝のコーヒーはもちろん、部屋の片づけや朝食の手配など、細かなことも含めてすべてを完璧にこなしていると思う。ニッコリと音がしそうなほど満足気に微笑みながら、ヒロはふと思いついたように、戻っていくソラを呼び止めた。
「ソラ、ちょっと頼みがあるんですが、いいでしょうか?」
ビートがソラの髪を咥えてそっと引く。振り返ったソラは、いつも通りの笑みを浮かべて答えた。
「はい、何か?」
ヒロの口元に視線を固定して、次の言葉を待つソラ。
「いや、頼みがあるんですが・・・顔を触らせてもらえませんか?嫌だったら断ってくれて構いませんが・・・」
いくら上司とは言え、いや上司だったら特に、突然顔を触りたいなどと言われたらドン引きされるのが普通だろう。しかしソラは「新聞を取ってくれ」と言われたかのような、自然な態度で歩み寄って言った。
「はい、どうぞ。個体識別には必要です。任務中、何かあって遺体の確認が必要になった時、傍にいるのがヒロだけだったら、情報が無いと困りますよね」
(それは、想像もしたくない状況ですが・・・)
こんな仕事をしていれば、それなりに可能性はあるだろうし、一般人だって運悪くという場合も無いではない。椅子に座ったままそんなことを考えているヒロの前に静かに歩み寄ったソラは、片膝をついて腰を落とした。
「この位置でよろしいでしょうか?」
直ぐに動き出せるその姿勢は現場に出る捜査官の基本だが、それが身に沁みついているのだろう。
ソラはそのまま顔を前に出して、ヒロの顔を見上げた。
「ああ、はい。では・・・」
両手を前に出すヒロのその手の間に、すっぽりとソラの頭が入った。
先ずは頭部。
昨晩、さらに続いたシンとの情報交換では、ストレートの黒髪で長さは胸のあたりまでだ、と言っていた。変な意味の触れ方にならないよう気をつけながら指を滑らせて行く。
(頭は小さいほうですね。身長から考えると等身は高そうです・・・)
モデル並みでしょうか?そう思いながら、更に髪に注意を向ける。
(良い手触りですね。サラサラと指の間を滑ります。これはシンから聞いた通り)
心地よさを味わいながら髪の先の方へ手を下げてゆく。すると指に何か硬いものが引っ掛かった。
「・・・これは?」
触った感じでは直径1センチにも満たない球で、材質は木のようだ。ウッドビーズのような気がする。それが1つ、2つ・・・全部で4つ。それらが細い髪の束に通されて下がっている。場所は耳の少し下だろうか。そこだけ髪が短い。
「これは、祖母が昔くれたものです。お守り的な感じでしょうか」
そうか、とヒロは思った。
昨晩シンと話した時、ソラのルーツについても話したのだ。
父親は日本人、母親はハーフだったが父親の表記は無かった。そして母方の祖母がネイティブアメリカンだった。出生は日本で、生まれてすぐにA国に来ていた。二重国籍を取得している。
「ちょっと珍しいものですね。シルバーアクセサリーとかなら解りますが」
「そうですね。素材からして珍しいと思いますが、軽いし小さいので邪魔になりません」
金属製のアクセサリーを身に着けるのは、捜査員にとってはデメリットにしかならない。潜入して現場に落としてくるなどは論外だし、乱闘中に引っかかったら当然危ない。電気的な攻撃を受けた場合、形状にもよるが、それで火傷をする場合もある。金属製でなくとも特徴的なものであれば、それが手掛かりとなって正体がバレる場合もある。
ソラのウッドビーズは、確かに特徴的だが、それを冒してでも身に着けておきたい何かがあるのかもしれない。常に身に着けておきたいのなら、髪が一番良いのだろう。髪を耳にかけてしまえば、ほぼ隠れてしまうものだ。
次に顔。
額の辺りに指をやると、前髪に触れた。額の広さは普通。そのまま両手の指先をこめかみから頬へと滑らせる。
(頬骨は目立たず・・・輪郭は、一般的な美人に共通するような感じでしょうか)
特徴的な丸顔でもなく、寧ろ瓜実顔に近いようでもあるが、日本美人的特徴は強くなさそうだ。しかしヒロの指先は、形よりその肌触りに驚いていた。
「お化粧はしていないんですね」
ファンデーションどころか乳液や化粧水さえ使用していない。眼が見えない分、特に鋭敏なヒロの指先がそう告げている。それでいながら、きめ細やかな肌は自然なしっとり感があった。
「はい、特に必要としませんし。どんな匂いでも、つけていればデメリットになりますから」
ルージュも引いていないのだろう、と確かめたソラの唇は、どちらかと言えば薄いほうになるだろうか。小さめの口と薄い唇は、どこかストイックな感じがする。それでもヒロの指先には、暖かく柔らかい感触が残った。
顎まで辿ってから、眉と眼の周辺に指を置く。その瞬間、ソラの体がビクッと硬くなった。
「あ、すまない。この辺りは・・・」
「いえ、大丈夫です。すみません、目を瞑っていてもいいでしょうか」
聴覚障害があるソラにとって、視覚はそれを補うべき大切な感覚だ。個人情報にも、視覚およびその関連能力に特化するとあった。おそらく現場でも日常生活でも、眼とその周辺は防御必須の場所なのだ。
「はい、なるべく急いで終わらせますから」
眉は細く弧を描き、睫毛はややカールして自然に上を向いている。特に手入れをしているのでは無さそうだ。瞼の大きさから推測して、眼は大きいのだと解った。
「ありがとう、悪かったですね。よく解りました。アンジーが言っていた通り、ソラは美人ですね」
そう言って軽く頭を下げるヒロに、ゆっくりと立ち上がったソラが言う。
「どういたしまして。ありがとうございます。でも、体格はよろしいのでしょうか? 遺体の顔が識別困難な場合もあると思いますが」
美人と誉められたことなどサラリと流して、お礼の言葉だけを紡いだ後の台詞がこれだ。
いや、確かにそういうご遺体もある。仕事上、ヒロが視力を失う前にも何度か見たそれは、陰惨なものだった。身元を隠すために顔を潰すという行為は、犯罪においてよくあることなのだ。
(更に想像したくないですよ、それは)
けれど、それはある意味チャンスなのである。正直に言えば、顔を触るという行為も、個体識別という目的は半分以下だったヒロなのだ。視覚障害と言うハンデを背負っているヒロだが、それを最大限利用する図太さと狡猾さも持っているのである。そしてそういったある意味邪な目的を、しっかり隠して置けるスキルも身に着けている年齢だ。
しかも、一耳惚れした相手なのだし。
「そうですか、それではお言葉に甘えましょうか」
流石にそれを言い出すのは、女性に対して失礼だと思ったのですが、と言いながらヒロは椅子から立ち上がった。
上から順に、先ずは首。
邪魔にならないよう、自ら髪を後ろに逃がしたソラの首に片手の掌を当てる。そして添えるようにもう片方の手を伸ばした。首を絞めるような動きにならないよう気を付けて、素早くそのまま両手を肩に移動させる。
肩先から両腕へ、ボディチェックをするような動きで軽く叩きながら感触を確かめる。
(首は細いですね。肩先の感じや二の腕の感触だと、最低限の筋肉がついた細身な体形かな)
意識してリラックスさせているらしいソラの体は、筋肉質と言う感じはない。女性らしいたおやかな柔らかさを持ちながら、けれど決して弱々しくはなく、しなやかな強さが感じられる。
次は胴。
手首まで移動したヒロの両手が離れ、ソラの脇の下あたりに伸びる。
「失礼」
そう声をかけながら、ポンポンと軽く叩くようにウエスト辺りまで両手を移動させる。
(細いですね・・・これは・・・)
細いけれど、絞り込まれたようなウエストに驚く。かと言って、腹部の筋肉は特に発達している様子はない。
(骨盤は広くなく小さめ)
腰のあたりに掌を下ろした感想を胸の中で呟く。どうやら、いわゆるボンキュッボンの見かけではないらしい。流石にバストやヒップに触って確かめるような真似はできないが。
そして最後に足を、横からではあるが、太腿から足首まで確認した。
足の長さから推定して、ウエストの位置が高いと思われる。足自体は、カモシカのようなと表現するのがピッタリなのだろう。しなやかな筋肉が過不足なくついて、足首は細い。
上から下まで体格を確認した(かなり楽しみながらではあるが)ヒロは、最後に手を触らせて欲しいと言う。
手は必要だろうか、と一瞬考えたソラだが、手首だけ残されている場合もあるかと思い直した。
素直に差し出された両手を、手の甲から掌そして全ての指を触って確認していく。標準的な大きさの手、滑らかな手の甲、肉厚ではないが柔らかな掌、そして節が目立たずほっそりと長い指。綺麗に切りそろえられた爪は当然マニキュアなどしていない。
そんなこんなでいつの間にか時間が過ぎていた。
「オハヨ!」
ああ、よく寝たワと起きてきたシンがドアを開けて見たものは、椅子に座るヒロの前に両手を差し出したソラと、その手を優しく取りながらどこか嬉しそうに微笑んでいるヒロの姿だった。
「な、なにしてんだよ、朝っぱらから!」
一瞬固まって、眼をしばたたき、それから大声をあげるシンの行動は、至極当たり前だっただろう。
ヒロの説明に完全に納得したわけではないシンだが、それでもスケジュールはこなさなければならない。今日の予定は、本部と関連施設の見学になっているが、終了予定時刻は夕方になっていて、それ以降は自由に過ごせそうである。
(今晩は、FOIのHPにログインして、色々と情報を仕入れておかないとな)
主にソラに関する部分を、と心中で呟く。昨晩はアルコールの影響か、睡魔に負けてしまったのだ。客観的に見れば、その辺りで、もう既に恋敵に負けているようだが、それがシンの今までの恋愛にもマイナス作用を及ぼしていたことに本人は気づかない。つまり、マメさと迅速さ、そして根性と優先度が大事なのである。そしてそれを知ることも無く、今に至っているわけだが・・・
とりあえず今晩の情報収集を楽しみに、今日の行動のモチベーションをあげるシンだった。