4:実家に帰らせて頂きます
平和な赤ちゃんライフが破られそうなあたしだ!いや、数日ぶりに母さんに会っただけなんだけど、つーか、0歳児が母親と数日会わないっていうのがまた凄いな、これが貴族と言う奴なんだろうか?
とにかく数日ぶりに見た母さんは更に調子が悪そうで、その肌は病的に青白く、光に翳せば薄く紫色に色づく神秘的な銀髪も、今は栄養状態が悪いのかバサバサだ。
宝石のような紫の瞳は泣きはらしたような跡と目の下の隈で酷い有様で、座った目がただただ怖かった。
そんな母さんを見ていると無性に悲しくなって、いきなりガッとベッドの柵を掴まれて驚いて、あたしは泣きそうになる。
「ッ…」
結構大きめにガタンとベッドが揺れたんだけど、母さんは別にあたしを驚かせようとしたんじゃなくて、ただふらついただけのようだった。
「奥様、そのように動かれては体に障ります…」
ふらつく母さんを支えようとしているのは、ブルクハルト家から一緒に来たという母さん付きの使用人達だった。
エレンを筆頭にもう何人か、あたしが知らない顔ぶれなのは、体調を崩した母さん側に居たので子供部屋に来た事が無い人達なのだろう。
とにかく母さんが荒い呼吸を整えてから顔をあげると、遅れてやって来た父さんが丁度部屋に入って来るところだった。
「……どういう事だ?」
そういえば父さんもこの部屋に来るのは初めてなんだよななんて思っていると、父さんは戸惑っているような、それでいてどうしたらいいのかわからないという顔で周囲を眺めた後、ポツリと呟いた。
その言葉を聞いて、母さんは笑った。その笑顔は獲物を罠に嵌めてやったというような凄みのある笑顔でめちゃくちゃ怖い。
「どういいう事?どういう事ですって?ふふ、フフフ……」
誰も何も答えない沈黙の中、母さんはただ笑い続け……周囲の精霊が警戒したりオロオロと飛び回ったりチクチクしてきて物凄く不快で、あたしは容赦なく泣いた。
「ぁぁあぃあ゙ーーーー」
一度本格的に泣くともう自分でもどうしようもないんだが、このよくわからない空気感というか、不快感に大号泣。全員あたしの方を一瞥したんだけど、すぐに視線を相手に戻して固まったままだった。
お、なんだ、放置か?泣き続けるぞ?
「あ゙あぁぁあああーーーーーー!!!」
「……体調がすぐれないので、実家に帰らせてもらおうと思います」
そんな中、最初に声を上げたのは母さんで、その声に張りは無いものの、透き通る声はあたしの泣き声よりもこの場所に響いた。
色々とラインセルのせいで心労が重なっている事を責めないところが、母さんなりの優しさで、矜持という奴なのだろう。
あくまで強がりのように「自分の調子が悪いから」と言い張る母さんに、父さんは何か言いかけたのだけど……口を閉じ、息を吐いた。
「…わかった、そうした方がいいと思う」
ここまで体調を崩した母にその突き放すような発言はちょっとどうなんだと思ったんだけど、ここに居るのは母親側の人間が多かったので、あたしが思ったよりもっと酷い感じで、一気に剣呑な空気が広がった。
母さんを守るように立つ使用人達は「幾ら旦那様でも非道な行いをするのならただじゃおかない」という空気を纏っており、それは忠誠心と言う意味では凄いのかもしれないけど、頼むから赤ちゃんの前で刃傷沙汰は止めてくれよな?
「ア、アニキまも……ってうぇ!?」
そんな修羅場になりそうな空気を破るように、遅れてピーターの野郎が部屋にバタバタと入って来たんだが、流石に部屋の中の空気の重さに面食らったようだった。
「へへへ」なんて三下っぽい笑みを浮かべながら、父さんに耳打ちをしていたんだが、あたしはまだぐずっていたもんだから良く聞こえなかった。
ただ「魔物が」がとか「村に被害が」という事を話していたと思うと、父さんが「わかった」と頷き、母さんの方を一度見てから……部屋を出ていった。
「…………」
そんな父さんの背中を見ながら、母さんはハラハラと泣いていた。
その姿がまた悲しくてあたしも泣いて、そこからはもう父さんの悪口祭りだった。「こんな家こちらから願い下げだ!」とか「いくら何でもこの仕打ちは酷すぎる!奥様がどんな気持ちでお嬢様を生んだと思っているんですか」とかもう非難轟轟だ。
正直あたしとしてはつい先日生まれたもんで事情がよくわからないんだけど、とにかく色々と家庭の危機なのはよくわかった。
そして両親の事も気にはなるんだが、それよりあたしが気にしなければいけないのは、名前すら付けて貰えていないあたしの立場だ。
前世のあたしの転落人生のきっかけは何かと言うと、やはり両親に捨てられた所だろう。
万が一母さんが出戻りして「こんな子いりません!」とか言われたらどうなるんだ?また捨て子か?0歳児スタートだと流石に難易度が高いぞ?
何とかしなければと思いながらも、赤ん坊のあたしはただ泣いて手をモゾモゾさせるしかなくて……いや、最近は足も良い感じにモゾモゾ出来るようになってきたような気がするんだが……そんな事はどうでもいいな、とにかくあたしは泣き叫びモゾモゾと抗議活動をしてみた訳なんだが、「おお、やはりお嬢様もこんな所が嫌ですか」と反対の意味でとられてシュンとした。
何でも母さんの体調が崩れた辺りから実家とは連絡を取り合っていたようで、向こうからは『そんなに辛かったら一度帰って来たらどうだ?』という手紙が来ていたようで、ある程度帰省の計画はあったらしい。
そんなもんだからあれよあれよという間に旅支度が完了し、あたしは母さんに連れられて、ブルクハルト侯爵家に行く事になってしまった。
母さんは当て擦りのように堂々と帰る準備していたんだが、父さんは一度も顔を見せずどこかフラフラしているようで、こりゃ不味いなとあたしが思っている間に出発準備が整い、あたしはさくっと布の詰められた籠に入れられ馬車の中だ。
そしてとにかくこの馬車の旅は最悪だった。そもそもいったい何日の旅路だ?ガタガタと揺れるだけでも0歳児には十分厳しいんだが、なによりも馬車の中の空気が最悪だった。
この6人乗りの箱形馬車の中に居るのは母さんとあたし、そしてその2人の様子を見るためにつけられたエレンの3人だ。
少しでも快適な旅をと言う事で空間を広く取ったというのもあるんだろうけど、そもそもラインセルに来ていた母さん付きの使用人が少ないようで、実は10人にも満たない数だった。
そういう訳で知っている顔ばかりなのは良いんだが、馬車の中はもうこれから処刑台にでも向かっているんじゃないかという空気で、母さんはずっと泣きながら離れていくラインセル邸を眺めていた。
エレンもエレンで母さん派なのだから、泣いている母さんを慰めるとか場を盛り上げるとかしてくれてもいいもんだが……こちらはこちらで父さんの態度に憤っているようで、難しい顔をしていた。
というよりもしかして、母さんはあれだけ啖呵をきっておいて、実家に戻るのを嫌がってないか?あたしの気のせいか?あれか、相手の気持ちを確かめたいからつい言っちゃったタイプの「実家に帰らせてもらいます」発言か?
どうやらエレンはそんな母さんの気持ちを知っているようだったんだけど、今のラインセル家にいるより実家に戻った方が幾分マシだろうと考えているようで、母さんの行動を止める気は無いようだった。
まあ日に日にやつれていく母さんを見せつけられていたらそう思うのも仕方がないとは思うのだが、あたしがいらない子扱いされるかどうかがかかっているんだ、出来たら母さんを説得して欲しい。
(頼むー)
心の中で念じてみたのだけど、どうやらエレンには通じないようだった。
代わりに精霊達が「なんだなんだ」と寄って来たのだけど、今は遊んでいる余裕がないので「だーばぶー」と言いながら手を振って散らしておいた。
そんなやり取りをしている訳なんだが、ここの人間はあまり精霊に反応しないな。
唯一母さんがあたしと精霊がじゃれ合っていると少しだけ視線を向けて来たんだけど「お、これは気を引けるのでは?」と思い拙いながら精霊達をぶつけてみたりしたんだけど、そよ風を浴びた程度の反応で、成果は芳しくなかった。むしろ精霊術の使用であたしが物凄いバテた。
そんな訳で何とか母さんの気を逸らそうとしたり途中休憩を挟んだりしながらの馬車の旅が半日も続き、もうこうなったらお互い冷静になるまでほっとくしかないなとあたしが思い始めた頃、いきなり馬車がガタリと止まった。
「魔物だ!!魔物が出たぞ!!」
そして聞こえて来た叫びに、辺りが騒然となった。
※次回は両親の事情を母親目線で進めていきます。少し長いのですが、その辺りの事情がわからないとどうなっているのかわからないと思いますので、よろしければお付き合いください。