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木曜日の夕方、チョコレート店にて

作者: 木津川 結

 木曜日の夕方四時が近づくと、ヒューはジルのいる店にやってくる。


「いらっしゃいませ」

「もう店じまいかな?」


 小部屋ほどの広さほどしかない店舗の中に、他に客の姿はない。ジルはチョコレートの並んだショーケースの内側からにこりと笑う。


「ええ。少し待ってくださいね」


 ヒューを店の中に残したまま、ジルは一つしかない出入り口に向かう。扉の外側に閉店の印を掲げ、内側にカーテンを引く。

 振り向くと、薄暗くなった店内に、ヒューがいつもの姿で立っていた。

 黒い帽子とグレイのコート。深い青のクラヴァットが、同じ色の瞳によく映えている。いつ、何度見ても惚れ惚れとしてしまう。


 ジルはとっておきの笑みを浮かべながら、長身のヒューに向かって駆け寄った。帽子を脱いだヒューはそれを手にしたまま両腕を広げ、広い胸にジルを迎え入れてくれた。


「どうして先週は来てくれなかったの?」

「すまない。旦那さまの急な外出につきあわされたんだ」


 あたたかい腕を堪能した後、ジルはもったいぶって顔を上げた。

 ヒューが焦れたようにジルの顎を持ち上げ、食らいつくように唇を重ねた。


 木曜日の夕方四時が近づくと、ヒューはジルのいる店にやってくる。閉店間際に現れて、ジルが店じまいをしてからしばらく一緒に過ごすのだ。ジルが一人で店番をするのは木曜日の午後だけと決まっている。

 はじめてヒューが来店した時は、ジルの他にも売り子の女性がいた。店には二人の女性が交代で出ているが、木曜日の午後は彼女たちの休みと決まっている。そこで、店主の姪であるジルがかわりに店番をしているのだ。ヒューが最初にやってきたのは、ちょうどジルが他の売り子と入れ替わる時間帯だった。


「今日もどれかもらっていくよ。どれがおすすめ?」


 何度かキスを繰り返した後、ヒューはジルを腕に抱いたまま首を伸ばした。ショーケースの中には、チョコレートの詰めあわせが何種類も飾られている。

 ヒューはジルとの時間を過ごすたび、律儀に一つは商品を買っていく。勤めている屋敷の使用人仲間が皆チョコレート好きなのだという。チョコレートは高級品だが、当主の従者であるヒューはそれなりの報酬を得ているのだろう。


「今はいつものボンボンとタブレットだけよ。先週来てくれていたら、限定のリキュール入りのが残っていたのに」

「それは残念だ。きみは食べたの?」

「あたしに買えるわけないでしょう」


 店主である伯父はそれなりに羽振りのいい商売人だが、ジルの父親はしがない新聞社の三流記者である。週に一度の店番で給金はもらっているが、質の悪い紅茶を何杯か飲めるくらいにしかならない。

 五つ年下の弟は寄宿学校に入っていて、卒業まであと数年はある。八つ年下の妹はまだまだ手も金もかかる年ごろだ。長女のジルだけでも早く結婚して家を出てほしいと、両親は内心で思っているに違いない。


「じゃあ、いつもの詰めあわせを。二十粒入りを一箱――いや二箱」


 ジルが考えていることにも気づかず、あるいは気づいても顔に出さず、ヒューは穏やかにショーケースを眺めている。質の良さそうな白い手袋がケースのガラスに映りこんでいる。店にいる間、ヒューは決して手袋を外さない。


「お屋敷の人たち、同じものばかりでそろそろ飽きているんじゃない?」

「一つはきみのだよ、ジル」


 顔を上げたヒューと目があうなり、ジルは吹き出した。


「あたしこそもう飽きたわ。半日もここでチョコレートの匂いを嗅いでいると、それだけでおなかがいっぱいになってくるの」

「でも、売り上げが上がればきみの給金も上がるんじゃないのか」

「関係ないわよ。あたしは週にたった一度の売り子だもの」


 伯父の厚意で小遣い稼ぎをさせてもらっているだけだ。この程度の規模の店なら、売り子がいない曜日は閉めていてもいいくらいなのに。

 ヒューは自分も働いているのに、こういう点にはどうも疎く、世間知らずだとさえ思う。商売人と貴族の従者とでは金銭のとらえ方が違うのかもしれないが。


「じゃあ、今度は別のものをきみに買ってくるよ。違う店のチョコレートというのも失礼だから、他のお菓子や紅茶がいいかな。何がほしい?」


 言葉がほしい。

 毎週木曜日の夕方に会ってキスを交わすだけ、そんな変化のない関係を動かす、決定的な言葉が。


 チョコレートの箱を袋に詰めながら、ジルはにっこり微笑んだ。


「食べるものより身につけるものがいいわ」

「宝石とか?」

「まさか。そんな高価なものじゃなくていいの――そうね、ハンカチとか」

「ハンカチだね。どんなものがいい? 来週ここに来る時に持ってくるよ」


 ヒューは子どものようにはしゃいだ声を出す。決して一緒に買いに行こうとは言わない。ジルとヒューが会うのは木曜日の夕方、この店の中だけである。


「どんなのでもいいわ。ああ、レースがついていると嬉しいかも」

「レースか。わかった。次の木曜日を楽しみにしていてくれ」


 ジルはにっこりしたまま商品の袋を差し出した。自分は受け取らないが、ヒューが二箱買うと言ったからには二箱持たせる。伯父の店を逢い引きに使っていることへのささやかな罪滅ぼしだ。

 ヒューはいつものように現金を出さなかった。請求は、ヒューが仕えている貴族の家へ行くようになっている。給金から差し引いてくれるよう執事に頼んであるのだという。


「チョコレート好きのみなさんによろしくね」


 店の扉を開け、ジルは笑顔でヒューを送り出した。


 離れた場所に停まっていた箱馬車にヒューが乗りこむのを見届けると、店の扉を閉めて再びカーテンを引く。ショーケースの内側に戻り、背後の棚から店の帳簿と顧客名簿を取り出してくる。

 ヒューが仕えているという侯爵家は、名簿の上のほうに載っている。当主の母親と姉妹がそろってチョコレート好きらしく、さして有名でもない伯父の店を贔屓にしてくれているのだ。ジルも応対に出たことがある。末の令嬢は深い青の瞳が鮮やかな、美しい少女だった。


 侯爵家の当主の名前は、ヒューバート・ウィリアムズ。


 売り上げを帳簿につけながら、ジルは口の端をつり上げて微笑む。微笑みながら視界が涙でぼやけてくる。


 来週の木曜日、ヒューからハンカチを受け取ったら、一生の思い出として大切にとっておこうと思った。

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