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シュミットの肖像  作者: 乙村心
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シュミットの肖像 下

俺は決心が鈍らないうちに、それを口にした。


「――なあ。急でアレなんだが……。お、俺と、その……結婚、してくれないか?」

「え……?」


 彼女は目を丸くして驚いた表情で俺をみた。

 直後。彼女は顔を真っ赤にして涙を拭いながら距離をとって言った。

「き、急に何言い出すのよ?」


 彼女は俺の真意を確かめたいようだ。

 まあ、無理もないだろう。俺自身、なぜ急にこんなことを口走ったのかよくわかっていない。

 だいたい、まだお互いの名前すら知らないのだ。


 彼女は、俺に疑問を突き付けてきた。

「ど、どうして……? そんな回りくどいことしなくたって、どうせキミは私の財産を手に入れられるのよ?」

「そういうことじゃないんだ。ひとめぼれ……っていうのかな?」

「意味わかんない……。だって、お金や財産だけもらえるんだよ? なのに、わざわざこんな……先のない女と結婚とか……」

 彼女は、俺が何か企んでいると疑っているようでもあったが、プロポーズされたことが嬉しくないというわけでもなさそうだった。


 そのあとで俺に遠慮するように、こう付け加えた。

「もし……私に同情してっていうのなら、余計なお世話よ……」

「そんなつもりじゃないんだ、本当に。俺……こんな気持ちになったの初めてなんだよ」


 そうだ。俺は、もともと結婚なんかに興味はなかった。

 自分が低収入だからということもあるが、そもそも世の中の女どものほとんどが、金でしか男の価値をみていないと決めつけていたこともある。

 「愛さえあればいい」なんていうドラマみたいな展開は、現実では皆無だと思っていたし、俺は別にそれでいいと思っていた。

 自分が生きていけるだけの稼ぎで、好き勝手やって生きていくって――。


 彼女は大富豪だが、だからこそお金に価値を見出していない。

 家族や自分に降り注いだ不幸のせいもあるだろう。


 俺は、表面上では〝愛〟だとか綺麗ごとを言っておきながら、結局はお金のことしか考えていない女ばかりの世の中に嫌気がさしていたのだ。

 だが、彼女は違う。

 多分、俺が彼女を意識した理由のひとつに、このこともあったのだと思う。


「そんなに俺が信じられないのなら、君の財産はすべて捨てよう」

 俺がそう言うと、彼女は驚いたような表情で俺をみた。

「俺が貰えることになってるんだろ、君の財産? だったら貰おうが捨てようが、それも俺の自由じゃないのか?」

「そ、それはそうだけど……」

「お金があるから君は俺のことを信じられないんだろ? だったら捨てちまおう、そんなお金」


 彼女は俺の決断に戸惑っていたが、俺は無視して言葉を続けた。

「そしたら、俺と結婚してくれるかい?」

「ばっかみたい――……」

 少し間が空いてから、彼女は下を向いて悪態をついていたが、地面に落ちる涙は隠しきれていなかった。


「――あ、でも……君が嫌なら潔く諦めるよ」

「ふふ。案外、意地悪なのね……キミ」

 彼女は涙を拭いながら上目遣いで、ちょっと困ったような笑顔で俺の方に目を向けた。


 少しの静寂に包まれた後、俺は改めて彼女にプロポーズした。

「俺と、結婚してくれ」

「……本当に、私なんかでいいの?」

「キミを不幸にしたそのお金を捨てて、俺と一緒に静かに暮らそう」

 すると、彼女の目からふたたび大粒の涙がこぼれ落ちた。

「――うれしい」


 俺たちは、お互いの体温を確かめ合うように、しばらくそこで抱き合って、その余韻に浸っていた。

 辺りはいつの間にか暗くなっていて、彼女が「今日は泊まっていって」と、俺を豪邸に招待してくれた。

 彼女と二人、玄関まで続いている石畳の道を、一歩一歩ゆっくり歩を進める。

 彼女は歩きながら、先ほどまでの彼女にはみられなかった楽しそうな表情で俺に語りかけてきた。


「ふふ。莫大な遺産をぜんぶあげるって言って呼びつけたのに、それをぜんぶ捨てて余命半年の私を選ぶ人がいるなんて思わなかったわ」

「おかしいかい?」

 俺が聞き返すと、彼女は少し照れながら答えた。

「おかしいわよ。――でも、人生で初めて幸せ……って感じているの」


 玄関に入るとすぐに、彼女は後ろで手を組みながら、くるっと俺の方に身体を回転させて話しかけてきた。


「私。駄菓子屋ってところに行ってみたかったんだ。連れて行って……くれる?」

「いいよ。今度いっしょに行こう」

「私、藤村ふじむら未来みき。キミは?」

「俺は流星りゅうせい。……宮本みやもと流星だよ」


 ここにきて俺たちは初めてお互いの名前を知った。

 恐らく、知り合ってから結婚までの時間、世界でも最短記録だったのではないだろうか?

 何せ、名前を知る前にプロポーズしてしまったのだ。


 俺は未来みきと一夜を共にし、その翌日から土地の売却や引っ越しの作業、さらには結婚式の予定まで、色々な準備でバタバタしていた。

 未来みきの所持品は、必要なものだけ残してあとは処分した。

 結婚式は二人だけの質素なものだったが、未来みきはとても喜んでくれたと思っている。

 未来みきの財産は慈善団体にすべて寄付して、俺たちは小さなアパートの一室を借りて二人で貧乏な生活をはじめた。


―*―*―*―*―


 あれから未来みきの生活は一変したが、未来みきは幸せそうに暮らしている。

 普通の人間なら当たり前だと感じていることを、まるで特別なことのように、とても楽しそうにするのだ。

 俺は、そんな未来みきが、とても微笑ましくて、愛おしかった。

 毎日のように狭い部屋で何気ない会話をしているだけで、俺たちは楽しかったんだ。


 ある日、彼女がこんな話をしてくれたことがある。


「ね、流星。どうしてピカソやゴッホは、あれほど世界に認められているかわかる?」

「さあ……なんでだろう? 絵が上手かったから?」

「違うわ。彼らには才能があった。絵をうまく描くだけだったら私にだって出来るわ。彼らは天才だったの」

「ごめん。ちょっと、よくわからないんだけど……」


 適当に「なるほど」と言っておけばいいような場面だが、俺は未来みきには嘘はつきたくなかった。

 実際に、俺は彼らの絵をみても「天才だ!」という直感的な感想は湧いてこない。

 せいぜい、観て「なんとなく凄い」と感じた気になるのが関の山だ。

 そして「何をもってそれを凄いと感じたのか?」と問われれば「わからない」と答えるしかない。

 そう――。絵を観ても俺には、ピカソやゴッホの天才性がわからないのだ。


未来みきは、なぜ彼らが天才だと思うんだ?」

「えっとね……。発想の違いかな? 凡人では思いつかないような発想。それがピカソやゴッホにはあった」

「なるほどね。たしかにピカソなんて意味不明としか思えない絵もあるしな……」

「もちろん、何とも言えないあの独特なタッチとか、腕も一流だったけど、〝発想〟っていうのは努力じゃどうにもならないと私は思うの」


 絵の話をしている時の未来みきは、とても生き生きとしていて好きだ。

 未来みきの話じゃ、もともと身体が弱かったのもあったらしいが、小さい頃からずっと部屋から出られなくて、毎日のように絵を描いていたらしい。

 俺からしたら、もはやピカソもゴッホも未来みきも、同じレベルにしか見えない。


未来みきだって、じゅうぶん上手いじゃないか。なにがそんなに違うんだ?」


 俺は至って自分に正直な疑問を未来みきにぶつけてみた。

 すると、未来みきは真剣な顔で質問に質問で返してきた。 


「流星は、ピカソやゴッホにどれほどの価値があるのかわかる?」

「……いや。だけど凄いとは思うよ。だから絵が高いんだろ?」


 俺の返答を聞いた彼女は、呆れたような表情で俺に解説してきた。


「わかってないなぁ。価値がわかってる人が少ないところに本当の価値があるのよ」

「どういう意味だ?」


 まったくチンプンカンプンといった感じの俺の様子をみて、得意満面になって解説する未来みき


「確かにピカソもゴッホも凄いよ。私は一生かけても彼らのような絵は描けないわ」

 彼女はそう言った後、こう付けくわえた。

「でもね。彼らの絵の本当の価値がわかっている人たちが、この世界に一体どれだけいると思う?」

「どうだろうな……。考えたこともなかったな」


 すると、ここまで哲学的に語っていた未来みきの語りがさらに加速する。


「彼らの絵の本当の価値をわかっている人も当然いるわ。だからこそ彼らの絵に今の価値がある。でも、実際のところ大勢多数の人は、その本当の価値を理解していない。――理解できないのよ」

「たしかに、俺もどこが凄いのかと問われてもよくわからないが……」

「実際に彼らの絵の本当の価値がわかってる人なんてごく一部よ。ほとんどの金持ちどもは『高いモノ』っていう偽りの価値に大金を払って満足しているだけ。バカみたい――」


 彼女は少し不機嫌そうな顔をして、そう答えた。

 そして、少し沈黙した後で、吐き捨てるように付け加えた。


「――だから、私の絵なんかに騙されるのよ」


 考えたこともなかった。

 そういえば俺自身、ピカソやゴッホの絵の凄さを的確に説明しろと言われても出来ない。

 要するに、俺は彼らの凄さをまったく理解していなかったのだ。

 ただ単に〝世間があれらは高価なものだ〟という認識を示しているから、俺もそれに従っていたに過ぎない。


「なんか――。未来みきの言っていること、少しわかったような気がする」

「それがわかっただけで、キミは世界の不条理から抜け出したんだよ」

「世界の――…不条理」

「そ。世界の不条理。この世界は惰性に満ちている。多くの人々が考えることを放棄して、大勢多数が正義だということを正義だと疑わない世界。――考えることを放棄した時点で、その人は死んでるも同じよ」


 未来みきは、たまに突拍子もないことを言う。

 これが天才肌というやつなのだろうか? 天才は変人が多いと言うが……。

 だが、未来みきの言っていることは正しいと思う。


「自分を持てるか、持てないか――……か」

「そうだよ。やっぱりキミは私のところにたどり着いただけあって理解が早いね」

「いや、俺は凡人さ。今更だけど――俺は『シュミットの肖像』の謎を自力で解いたわけじゃないんだ。偶然、グラスを落として……」


 俺は未来みきに失望されるのが怖かったが、正直に答えるべきだと思って、今更のことを律義に話した。

 すると、未来みきはクスっと笑って俺に質問をしてきた。


「じゃあ、質問。どうして私は『シュミットの肖像』の謎を解いた人に、財産のすべてをあげようと思ったのでしょう?」

「それは――。あ、あれ? 未来みきの理論で考えると、おかしくないか?」

「どうして?」

「だって未来みきは、『シュミットの肖像』を名画として世界に認識させようとしたわけだろ?」

「そうよ?」

「そしたら、普通『シュミットの肖像』を入手しようとするヤツなんて、君が嫌いそうな――価値のわからないヤツばかりになるじゃないか?」

「じゃあ、キミもそうだったの?」

「お、俺は――。ただ、なんとなく入った骨董屋で安かったから買っただけだ。まだ、話題にもなっていない頃に……」

 俺は、彼女の質問責めに尻込みしながら答えていった。


「――五十点かな。確かにキミは偶然買っただけだったかもしれないけど、キミに執着はなかったでしょ? 安くても私の絵を〝良い絵〟だと思って買ってくれたんでしょ?」

「まあ確かに、良い絵だと思ったから買った……というのは間違えていない」

「それでいいのよ。私の絵に本当の価値を見出してくれた人にあげたかったの。それに、もし目のくらんだ人間が手にしても絶対に秘密を見抜かれない自信はあったもの」


 自信満々の未来みきに、俺は自分が感じた疑問を素直にぶつけてみた。

「でもさ。俺みたいに何かのアクシデントで、偶然発見してしまう場合だってあるんじゃないか?」

 すると未来みきは、ブレることなく自信に満ち溢れた表情で答えた。


「その程度の人の思考回路じゃ、仮に偶然だまし絵の秘密がわかったとしても、私のもとには絶対に辿りつけないわ」

「すごい自信だな……」

「君がみつけてくれた電話番号と住所の番地だって、よほどでなければわからないように紛れ込ませておいたのよ。仮に数字をみつけられても、そこから私までたどり着ける人なんて、そういないんじゃないかしら?」

 そして、彼女はこう続けた。

「それに――、別に名画を欲しがるお金持ちのすべてが、揃いも揃って価値を理解できていない馬鹿だとは思っていないわ。当然、絵の本質を理解した上で欲しがっている人だっている。そういう人が手にすれば、おのずと私のもとにたどり着いたはずよ」

未来みきは、本当に絵が好きなんだな」


 未来みきは、俺が微笑ましく思って眺めていたのに気づくと、顔を赤らめて下を向いてしまった。

 未来みきの哲学論の話はひと段落した感じだったが、俺は未来みきの話を聞いたことで、新たに湧いた疑問についても彼女に質問してみた。


「でもよく考えたら、それならわざわざ名画だと偽って世間を騒がせる必要ってなかったんじゃないか?」

 すると未来みきは、遠くをみつめながら、愁いを帯びた表情で答えた。


「世界に――…挑んでみたかったのよ」


 俺は思わず、彼女の横顔に見惚れてしまった。

 一緒に生活をはじめてから、すでに二か月近く経とうとしているのに、まだ俺の知らない未来みきがいた――。


 彼女は俺なんかよりずっと価値がある――。

 なのに、どうして彼女が死ななければならないんだ……!

 可能なら俺の命を彼女にあげたい――この時、俺は心からそう思った。

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