シュミットの肖像 中
三時間ほどのドライブを終えると、俺の目の前には大きな豪邸が見えてきた。
辿りついた大きな豪邸には、綺麗に四角く整えられた緑色の中に少し赤色が混じった生垣に囲まれて、手入れされた噴水のあるヨーロッパのような庭園があった。
その庭園にある噴水のまわりには白い石畳が敷かれていて、そのすぐそばにアイボリー色のワンピースを着た女性が日傘をさして立っている。
歳は二十代後半くらいだろうか?
その女性は寂しそうにもみえる落ち着いた笑顔で、俺に話しかけてきた。
「よくここまでたどり着いたね、キミ」
一瞬、俺は彼女の姿に目を奪われたが、少し頭を振ってから、気をとりなおして彼女に問いかけた。
「あの『シュミットの肖像』は、君が描いたのかい?」
「そうよ。『シュミットの肖像』だけじゃないわ。〝アーデルベルト・シュナイダーって名前の画家が描いたことになっている絵〟は、ぜんぶ私が描いたの」
『シュミットの肖像』の謎がわかった時点で想像はしていたことだが――
この娘は自分がとんでもない事をやってのけたことに気付いているのだろうか?
「いや、おどろいた。まさかあの絵画を描いたのがこんな若い女性だったとはね」
「ふふ、なに? お世辞?」
俺は本心を言ったまでだが、彼女は少し寂しげな表情のまま茶化してみせた。
「それより、君は自分がしていることをわかっているのか? 世界中を騙しているってこと――」
「あら? どうして私がそれを気にする必要があるのかしら」
「どうしてって……。君が描いた絵を『十六世紀初頭に描かれた幻の名画』だと信じきって、世界中の金持ちたちが高値で奪いあってるんだぞ?」
「……だから何?」
これまでの彼女の寂しげな表情は一転し、氷のような冷たい表情になって、そう言い放った。
正直、俺は内心ドキっとしたが、ひるまずに言葉を続ける。
「先日、君の絵を入手した人が殺された……」
「その人ならニュースでみたから知ってるわ。どこかのアパレル会社の社長でしょ?」
そう言ったあとで、彼女はこう続けた。
「…――でも、どうせお金に憑りつかれた、モノの価値のわからない八十歳過ぎのバカな老害よ」
「なんてこと言うんだ、君は! 言っていい事とわるい事の区別もつかないのか! 命はだれもが平等――――…」
そう言いかけた刹那、俺の言葉を彼女の言葉が遮った。
「――だったらなんでっ!」
彼女は一瞬取り乱したが、すぐに冷静さを取り戻し、ひと呼吸おいてからゆっくり言葉を続けた。
「……だったらなんで、私は――」
そう言いかけて、そのまま彼女は言葉を止めてしまった。
目をそらす彼女の表情はとても悲しそうで、俺は彼女がそこで止めてしまった言葉の先を知りたくなっていた。
彼女は何かを隠している――。
それは間違いない。
だが……下手に触れて、彼女を傷つけるわけにはいかない。
しばらく沈黙が続いたあと、俺は少し違う角度から話題を振ってみた。
「ところで……、君が偽名を使って描いた絵。つまり世界に出回っている君の絵は、『シュミットの肖像』以外に何枚あるんだい?」
「六枚よ。『シュミットの肖像』を含めれば全部で七枚」
彼女は少しふてくされたような表情になって答えた。
彼女の発言からわかったのは、彼女がアーデルベルト・シュナイダー名義で世に送り出した絵画は全部で七枚あるということだ。
「さっき君は自分の描いた絵を〝アーデルベルト・シュナイダーって名前の画家が描いたことになっている絵〟って言ってたけど、エルフリーデ・シュミットなんて人物もいないんだろ? ……そしてゲルハルト・シュミットも」
「ええ。ぜんぶ私が一人で造りだした幻想よ」
つい昨日まで、俺も彼女の描いた絵を『十六世紀初頭に描かれた名画』だと信じきっていた。
だが、現にいま目の前にその絵を描いた張本人が存在していて、その人物と俺は話をしているのだ。
今もなお、世界中の人々が信じて疑っていない現実の裏側にある真実――。
その真実を目の当たりにしても、自分の思考の方がおかしくなっているのではないかと、疑ってしまうくらい本当に信じられない。
三十歳にも満たない女性が、本当にたった一人で世界を騙しきったというのか?
俺は、話題を変えるついでに、もっとも気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば電話のメッセージで〝ぜんぶあげる〟って言っていたけど、あれはどういう意味なんだ?」
「ああ。それだったら、だいたい想像はついていると思うけど私の財産よ。お金も土地も何もかも……。私の財産のすべて」
彼女は顔色ひとつ変えずに、淡々と答えている。
たしかに予想はしていたが、財産のすべて……?
すべてって、一体どのくらいなんだ?
「き、君の財産のすべてって……。この豪邸をみれば想像はつくけど……う、嘘だろう?」
「嘘じゃないわ。だからキミを待っていたの」
「俺を待っていたって……だいたい、なぜ見ず知らずの他人に――」
すると、彼女は少し悲しそうな顔をして黙ってしまった。
「い、言いたくないならいいんだ!」
俺は彼女の反応をみて慌てて言葉を取り消そうとしたが、彼女は構わずに答えはじめた。
「私――。誰もいないの……」
「え?」
「財産をあげる人が、誰もいないの」
「誰も……いない?」
どういうことだ?
俺は、彼女の言っていることがわからなかった。
だが同時に、俺はひとつの疑問が湧いていた。
彼女のご両親は――?
彼女の歳から考えても、財産をすべて彼女が掌握しているってこと自体が不自然じゃないか?
どう考えてもおかしいだろう。
家がお金持ちであれば、この歳でもそれなりのお小遣いをもらっていても不思議ではないが、財産っていう表現がひっかかる。
そもそも、これだけの豪邸の家だ。それなりの親族がそれなりにいるのが普通じゃないのか?
仮に、彼女が財産のすべてを掌握していたとして……なぜ〝誰もいない〟ってなるんだ?
俺は思いきって彼女に聞いてみた。
「君――…。その、ご両親は?」
「…――いないわ。お父さんも、お母さんも、私が小さい頃に死んじゃった」
彼女は無表情で語っているが、明らかにその奥に悲しみが見え隠れしているのがわかる。
しまった。踏み込みすぎたか――
俺は自らを叱責するかのように心に言い聞かせて、彼女に詫びの言葉をいれる。
「その……すまない。無神経だった」
すると、彼女は少し困ったような笑顔を見せながら答えた。
「いいのよ、知らなかったわけだし。謝られるのも心苦しいわ」
俺が彼女のことを気遣って話せないでいることを察したのか、彼女の方から俺の知りたい内容について話をしてきた。
「ちなみに、親戚までみんな死んじゃった――なんて話はないから安心して」
「そ、そうか……」
実際にこの時の俺は少し安心はしたのだが、その直後の彼女の話を聞くと、それが果たして彼女にとって良かったのかどうか――。
「でもね。私、親戚には私の財産を一ミリもあげるつもりないから――」
「え? それはどういう……」
「親戚の人たちなんて、私のお父さんとお母さんが死んじゃっても、私のことなんか気にもしてくれなかった」
彼女は、少し感情を表に出しながら話した。
「それどころか、お父さんとお母さんが死んじゃった時も、お金のことばかり気にしていて……」
ここで彼女は黙ってしまった。
再び長い沈黙が訪れていた最中、俺はずっと感じていた決定的な違和感の正体が何なのか、やっとそれに気づいていた。
そもそも、彼女の年齢で〝財産を誰かに譲る〟という選択肢しかない時点でおかしいのだ。
なぜ彼女自身、自分のために使おうとしないのか?
まだ若いのだから、これから生きていく上で自分で持っていてもなにも損はない。
それどころか、人に譲るなんていう発想は普通あり得ないだろう。
俺は、どうしてもその答えを知りたくて、彼女にそれを聞いてしまった。
「君――。財産をぜんぶ他人にあげて、自分はどうするつもりだったんだ?」
すると彼女は少し躊躇ったあと、目を逸らしながら、耳を覆いたくなるような言葉を口にした。
「私ね……。あと半年くらいしか生きられないの」
「――っ⁉」
「二年半前に白血病って診断されたの……私。――『余命三年だ』って。」
彼女がさっき言葉を止めた先に言おうといたのはこれだ――。
俺は、なんてことを彼女に言ってしまったのだろう。
「そ、その……本当に重ね重ね、すまない……。俺は、偉そうに命の価値などと――」
「ふふ、キミって思ってたよりも律義なのね。さっきも言ったけど、キミは何にも知らなかったんだから、謝る必要なんてないのよ」
彼女は、すでに何かを諦めているような笑顔で俺に語りかけた。
「私の財産ってどのくらいあるのか気になってるでしょ?」
「え……? お、俺は、別に――」
俺が落ち着かない様子でいると、彼女はジェスチャーを混ぜて、まるで楽しいことを話しているかのような雰囲気で話してきた。
「ここの敷地だけじゃなくて、あっちの山とか、そのあたり一帯ぜーんぶっ……うちの土地なのっ! ね? すごいでしょ」
「い、いや……俺は」
「お金だって、多分キミが人生十回くらい遊んで暮らしても余るほどあるんだから――」
無理に明るく振舞おうとしているのがわかる。
思えば、初めてみた時からそんな感じだった。
俺は、そんな彼女の態度に耐えきれなくなり、せっかく彼女が明るくしてくれた空気を壊してしまった。
「俺はっ! ――俺は、そんなお金……欲しくないよ」
俺のせいで、再び周辺が重い空気に包まれる。
彼女も笑ってはいるが、やや下を向いていて、その表情からは元気な様子は感じられない。
この時の俺にはまだ、彼女の財産は他人に渡すべきではないという考えがあったのだ。
彼女の壮絶な人生の全貌を知らなかったから――
「な、なあ。余計な詮索はしないが、親戚の人たちだって君を無下にしていたわけじゃないと思うんだ……」
それを聞いた彼女の表情は、一転して曇ってしまったが、俺はそれが正しいと思い込んで説得し続けた。
「きっと頼れば君の面倒もみてくれるはずだから……。親戚の人と相談して――」
「――なんでっ!」
急に彼女は、大声を出して俺の言葉を遮ってきた。
「なんで……そんなこと、言うのよ……」
彼女の目に大粒の涙をためながら、その身を震わしていた。
「お、俺はただ……君のことが心配で……。親戚の人たちだって――」
「さっきも言ったでしょ⁉ あの人たちは私よりもお金が大事なの!」
「ど、どうして……そこまで?」
すると、彼女は涙を流しながら俺に話し始めた。
「お父さんとお母さんのお葬式のとき……あいつらが裏で話していたの、私、聞いたの。――私のこと『邪魔だ』って言ってた……」
「え……?」
「それに――。私が白血病で余命三年って知った途端、みんな急に私に近づいてきた……。狙ってるのよ、あいつらみんな。私の財産を!」
彼女は、これまで誰にも言えなかった心のうちを、すべて俺に吐き出すように感情にまかせて喋り続けた。
「あいつらみんな、揃いも揃って財産だけが目当てで……! これまで私のことなんて、これっぽっちも心配してくれなかった! 私、ずっと、ひとりぼっちだったのに――!」
あふれ出してくる感情に耐えきれなくなったのか、ついに彼女の目からは大量の涙がこぼれ落ちた。
そして、俺がいることも忘れているのか、その場で大声で泣き叫んでいた。
俺は無意識に彼女の肩を抱き寄せ、自らの胸を彼女に貸した。
こういうことはあまりやったことがなかったが、不思議とそうしなければいけないと感じたのだ。
これまで落ち着いて見えていた彼女とは違って、酷く取り乱して泣きじゃくる彼女が、俺にはとても小さく弱々しい存在に思えた。
俺は――。この時はじめて誰かを護ってやりたいと思ったんだ。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろう?
長い静寂が訪れた。
俺は彼女を抱き寄せながら「このまま時間が止まればいいのに」などと考えていた。
いつの間にか日が暮れていて、辺り一面が夕焼け色に染まっている。
「――ご、ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど、キミに聞いてもらっていたら、なんか……泣いちゃった」
「いいよ、別に。俺の方こそ、酷いことを言ってしまった」
「き、今日はもう遅いから、財産の受け渡し手続きとかは明日からにしよっか……?」
先ほどの抱擁に照れているのか、彼女の話し方が何か少しぎこちのない。
まだ彼女は俺に財産を渡すつもりでいたようだったが、少なくとも俺にはもうその気はなかった。
まだ彼女と出会ってから数時間しか経っていなかったが――。
それでも俺は彼女の話を聞いたことで、自分の中にひとつの答えを見出していた。