出発
「すみません、お待たせしてしまって……」
モーリャが来たのは、それから数十分経ってからだった。
店の扉の前、夜風が少し肌寒い。彼女も長袖を着ていた。
「いや、ちょうどいい時間だ。馬車は?」
「まだ余裕のある時間です。先に話しておきましょう。この世界の……色、について」
色。この世界で、はじめて聞く単語だった。だがその単語が意味するものを、俺は知っている。
「色……この世界が白と黒の色だけになったのは、ちょうどニ千年前。人類は神に挑み──この世界の色は最初から無かったわけではない。この世界の色は──奪われたのです。神の手によって」
「それを、取り戻しに行くと?」
「ええ。正確には、返してもらいに行く、といったほうが正しいかもしれませんが。二千年の時が経てば、神は人に色を取り戻す機会を与えると言われました。それが今なのです。聖典に示されています。あなたと私の名前が。」
「神が……?だが、俺が知っている限り聖典にそんな記述は無かったはず。」
幼い頃に習った神学や、親の影響で俺もこの世界の過半数が信仰する聖教会の聖典についてはある程度知っているが、そのような記述はどこにもなかった、と記憶している。
「削られたんですよ、原書から。この世界に原初はたったの17冊。そしてそのうちの一冊が、これです。」
モーリャは抱えた荷物から古びた本を取り出す。
大きさは幼い頃に見た聖典と同じ、もしくは少し大きい程度だろうか。
しかしその厚みは、記憶にあるそれの2倍ほどあった。
「聖教会は、都合の悪い記述や分派の原因となりうると判断した章を消し去りました。そして原書を封印した……この一冊以外を。」
「なんでこれだけ封印されずに……そしてお前が持っているんだ?」
「運命です」
「運命……よくわからんが……」
「それより、馬車の時間はもうすぐです。店主さんは?挨拶をしておきたかったのですが」
「寝てるよ。酒弱いのに、無理して飲みやがって」
「そうですか。ならしかたないですね。行きましょう」
と、モーリャは大荷物を抱え上げる。
「半分貸しな。持っていく」
「ありがとうございます。助かります。」
半分よりはいくらか少ない荷物を受け取り、肩に担ぐ。想像していたより少し重い。
馬車に乗り込んだのは、俺とモーリャだけだった。仕事で乗ることはあったが……そういう乗合馬車は、もう少し埃っぽく、塗装もところどころ剥げていて、馬も軍の払い下げのような、くたびれた馬だった。
だがこの馬車は違う。乾いた塗料の匂いと、たくましい黒馬。装飾も華美ではないものの、黒い文様が重厚さを感じさせる。
「ひ……じゃない、モーリャ様、お待ちしておりました。行きましょう」
筋骨隆々の御者。その顔に俺は見覚えがあった。
「あんた、見たことがある。宮殿の警備隊長だろ。なんでここに?」
俺の問いかけに、答えはなかった。
「だんまりか……まあいい。そっちにも事情があるんだろう。」
俺は馬車に乗りこんだ。乗合馬車にありがちな軋む音やがたつきもなく、馬車は蹄の音とともに動き始めた。