現在をどう生きるか
高須クリニックの高須院長が「若者よ、ハングリー精神を持て」と言っているのを見て、違和感を持った。ちなみに、高須院長に対して「昔と今は時代は違う」と批判している人にも違和感は持っている。
自分が不思議であるのは、例えば、今の十代や二十代は、もっと不満を持たないのであろうか?というような事だ。もしかしたら、持ってはいるが、表現法がないとか、それを違う方向にずらしているという事なのかもしれない。いずれにしろ、書店に並んでているベストセラー本、テレビ、ネットの表面的なコンテンツ、それらでは、自分が生きていく上で何の頼りにもならないとはっきりする時が来ると思う。しかし、もしかして、そんな「時」というのは上の世代にも下の世代にも全然来ないのだろうか? 小説を書くといえば、自分が作家になってしまえば、収入と地位によって、自分の倫理や哲学が回収されると信じられる、そういう人がほとんどなのだろうか?
高須院長の話に戻すと、今の日本はそれなりに豊かな社会である。「将来が不安です」なんて言う人もいるが、将来が不安という事は今はそれほど不安ではないという事だろう。今、食べるものがなければ、将来を不安に感じている余裕もない。
ハングリー精神というのは、例えば、スバル車では不満足なので、どうしてもベンツに乗りたいという事だろうか? 沢山部屋がある家に住まなければならないとか、付き合うのなら、女優と付き合わなければならないとか、それがハングリー精神だろうか? 現在の社会では、どう生きるべきかという問題を、メディアや企業が自分達にとって都合の良い方向性に沿ったものにしようとしているが、それは本当に正しいのか?と考えると、人々の中で孤立してしまう。
自分は、上の世代の作ってきた倫理・道徳・秩序にそれなりの不満を持ってきた。例えば村上春樹の小説は、突き詰めれば高度資本主義の肯定であるから、村上春樹がどう主張しても、そういう社会が流れれば半分以上は意味がなくなってしまうだろう。それが、過去の文豪とは異なる点である。何が言いたいかと言えば、突き詰めていくと、村上春樹は生きる倫理、支柱にはならないという事である。
そういう中で、この間、立川談志と北野武がラジオで話しているのを聞いて、始めて納得した。立川談志が北野武にさかんに説得していたのだが、こういう事を言っていた。「今の社会はなんでもある。戦争中や、戦争が終わった時には、戦争が終わった喜び、あるいは戦争に勝った、負けた、そういう感情があったが、今は最初からできあがってしまっている。プロセスというものがない時代で、生きがいを見つけるにはどうすればいいか、それが問題だ」と。その言葉を聞いて、始めて、自分は自分より年長の世代で、本当に自分達の世代の問題を考えている人に出会えた気がした。では、他の知識人やら何やらは一体どうなのか。僕は彼らの言っている事がなんだかよくわからない。何を話しているか、わからない。
立川談志が言おうとしている事はストレートにわかる。正にそれが問題なのだ、と思う。が、周囲を見渡すと、途端にわからなくなる。例えば、制度とか秩序というものはどこでもきっちりと守られているが、それが正当かどうかを問う事を人はしないので、それが自明であるという前提から話を始める。そして、そこで溜まった不満は「趣味」や「遊び」で発散させようとする。「仕事」は外的なものとしてあり、「遊び」は、主観的なものとしてあるが、そこに、統一的に貫く「人生の道」というものがない。あるいはそれがないというのが普通であるかもしれないが、その事についてほとんど触れられないというのはどんな問題か。
仮に品行方正な生涯を送って、家族に愛されて死んでいっても、結局、人間は皺くちゃになって憐れに死んでいくだけである。現代の社会では、老人は尊重されないが、それは年を取っても重ねていくもの、成熟していくものがないからで、したがって、金の量とか、Twitterのフォロワー数なんて「数」に寄ったものが平面的に現れてくる。「プロセスのない社会」というのは、これであろう。
高須院長が「若者にはハングリー精神がない」と言い、それに反論する人もいる。では、高須院長の生涯は立派なものなのだろうか。立派なものかもしれないが、それを立派と言うにあたり、何によって測量するのか? 金なのか。人脈なのか。美容外科を広めた功績だろうか? 一体、何によって、価値を決めるのか? 生きる事の意味を何によって問うのか、と言えば、大抵、金だとか、社会的に認められたとか、そんな事でしかない。哲学書を沢山読むという人と話してみても、話してみると、結局、金だとか多くの人に認められるとか、それが彼の価値観の根底にある事がわかったりする。だったら、哲学書など読む必要はないだろう、ワンピースとAKBで十分ではないかとも思うのだが、彼にとって哲学は「趣味」であるから、それで十分なのである。文学研究者にとって文学は研究対象である。現にそれを生きるものではない。
さて、ここまで書いてきて、結局、何が言いたいのか。何が言いたいのか、とっととわかりやすい結論を早く言え、という人にはこの文章はそもそも意味がない。多くの人は最初に、自分の中に答えを用意しておいて、それを肯定しているものだけを待ち受けているが、この文章はそういうものを狙っているわけではない。
最後にまとめるなら、現代の状況は極めて貧困であろうと思う。貧困であるというのは、例えば、芸術という領域においては、みなそれなりに分別があり、利口で、決して愚かでもなく、能力が高い人が多いのに、天才というのはまるで見当たらないという状況に見えてくる。ホリエモンくらいの人は後から後から出てくるが、現状を深刻に捉える立川談志のような人物はなかなか出てこない(出てこれない)という所にある。
深刻な問題を表面的な問題に解消しようとするのが現代の宗教だろうが、これは十九世紀くらいから始まった大衆社会の潮流であると思う。この社会は、自分達の秩序を作った。方法論を作った。そしてその中で、この方法論の中に入れば幸福である、成功である、という神話を作った。しかし神話は所詮神話であるので、これが嘘であるという事が見える時がいずれ来るだろう。その時「国破れて山河あり」という古人の言葉が人の心を捉えるかもしれず、「人生は夢幻である」という単純な原理が見えてくるかもしれない。その原理が見えれば、人々がある奇妙な踊りを踊っている事が見えてくる。これは不思議なものであるが、それが見えた時、自分自身の姿も同時に見えてくるだろう。自分自身もやはり、そんな踊りを踊らなければ生きる事はできないのだから。
例え、神話が嘘であると知っても、人はやはり神話の中にしか生きられない。そう悟った時、人は、また神話の中に戻る。だが、彼の存在はいつも神話から半歩はみ出している。そのはみ出している姿を一体、誰が見るのか、それが定かになる事はいつまでもないだろう。




