03:奴隷の国シュレイク
――声。
声が、聞こえる。
胸を震わせるほどの。血を凍らせてしまうほどの。
激しい慟哭と憤怒にまみれた男の声が、暗雲を裂いて響き渡る。
『エルティナ……。エルティナ、だめだ。逝くな。……俺を残して逝かないでくれ』
これは記憶だ。
誰の、と考えるまでもない。アレスは今、ひとりの男の目を通して世界を見ている。
薄暗い地下洞。剥き出しの岩肌に取り付けられた水晶のランプは真新しく、澱んだ空気の満ちる洞穴で光るには違和感がありすぎた。
明るすぎず、けれど足元をしっかりと照らす暖色の灯り。黄昏時を思わせるオレンジに照らされて、薄汚れた道の先に長い銀髪の女が見える。振り返り、微笑む姿は、まるでこの地下に咲いた一輪の清楚な花のようだ。
こちらを見て微笑む女は、その小さな唇を動かして――ヴァレスと、そう男の名を口にした。
***
月下大戦の起こった一万年前よりもはるか昔、この世界を支配していたのは暴君バルザックの治める神界リヴァイアだった。
暴力と快楽だけを求め、圧倒的な魔法力によって弱き者を虐げる恐怖の世界。刃向かう者には容赦せず、反逆者の家系であれば幼子ですら手にかけた。
大地に降り注ぐのは雨よりも血の方が多く、吹き荒ぶ風よりも悲鳴の方が世界を駆け巡っていた時代。地底深くに作られた奴隷の国シュレイクに、ひとりの男が投げ落とされた。
「あぁ、こりゃぁ助からねぇな」
「一体なにがあって、ここまで手ひどくやられたんだ? この男は」
「さぁな。理由なんて奴らにはあってないようなもんだろ」
地上と地底シュレイクを繋ぐ縦穴の終着点には、落下の衝撃をほぼ無効化する水色の魔法陣が施されていた。触れれば水のように揺蕩い、投げ落とされた者の体にこれ以上の傷を負わせることなく包み込む優しい魔法だ。それはまだ息のある者も、そうでない者も、すべてを等しく抱きしめる慈しみの腕に似ている。
そして今夜。その淡い燐光を巻き上げながら水色の魔法陣に抱かれたのは、腹に大穴を開けて痙攣するひとりの男だった。
落とされた男を見て、誰もが助からないと諦める中、希望を捨てずに最後まで治癒魔法を唱える女がいた。この世界では恐怖の象徴として人々の脳裏に刻まれた銀髪を持つ女。その名は。
「エルティナ様。あんまり遅くなっては不審がられるでしょうし、もう城へ戻って下さい。包帯を変えるくらいなら、俺たちでも出来ますから」
「モーリス……。そう、ね。それじゃあ、あとはお願いします」
「任せて下さい」
シュレイクと地上を繋ぐ道はふたつある。ひとつは人を投げ捨てる目的で作られた、一方通行の長い縦穴。もうひとつは朽ちた遺跡の地下神殿に繋がる道だ。こちらは誰もが通れる道のため、神殿の入口には常に強固な結界が張られている。
一見しただけではわかりづらい結界だが、エルティナが触れると水がさざめくように空気が揺れた。透明な壁はエルティナが触れた指先を中心にして、人ひとりが通れるくらいの穴を開けて溶け落ちる。その結界が再び元に戻る前に、エルティナは後ろ髪を引かれる思いでシュレイクを後にした。
***
城のバルコニーから見下ろす城下町は、夜が更けてもなお灯りが消えることはない。娯楽に満ち溢れる灯りの下では、美しく着飾った神界人たちが贅の限りを尽くした夜会に興じている。
彼らの頭の中に、シュレイクの人々のことなど微塵もない。仮に憂える者がいたとしても、バルザックの支配下において何ができるというのだろう。娘であるエルティナ自身でさえ、彼に隠れてシュレイクに降りているというのに。
シュレイクからの帰り道。地下神殿の結界をくぐり抜ける時、エルティナはいつも心に重いしこりが残る。
結界を自由に行き来できる自分と違って、彼らはシュレイクに落とされた時から、その身に刻まれた印によってシュレイクに囚われている。シュレイクへ落ちる縦穴には拘束の魔法が施されており、穴を落ちると同時にその身に枷となる楔が刻印されるのだ。
シュレイクへ単独で降りることを決意してから、エルティナは今まで彼らのために誠心誠意尽くしてきたつもりだ。最初は神界人として忌み嫌われ、バルザックの娘だということで恐れられてきた。それでも住まう環境を整え、新鮮な食料を持ち込み、怪我人には治癒魔法を施して……自分に出来ることは何でもやった。そうすることがバルザックの行いに対する贖罪でもあったから。
今でこそ彼らに認められ、必要とされるまでに信頼を得ることができたが、それでもエルティナの心にはずっと拭えない思いがある。
自分がやっていることは、偽善ではないのか。彼らに尽くすことで、バルザックを止められない自分を正当化しているのではないかと。
シュレイクから戻った夜にはいつも、そんな風に思ってしまうのだ。
「こんなところにいたのか」
不意に背後から声をかけられ、エルティナの背がびくりと震えた。声を聞くだけで体が萎縮してしまうのは、幼い頃から目にしてきた父親の残虐性がすり込まれたせいだ。神界人にしては珍しくがっしりとした体格も、まるで大きな獣のように見えて落ち着かない。
「お父様」
「フィレイストンの倅がお前のことを探していたぞ」
近付くと、強い酒の匂いが鼻を突いた。城下町だけでなく、城でも毎晩のように宴が開かれている。神界の姫として顔を出さないわけにはいかなかったが、煌びやかな世界の裏側を知った今では、葡萄の一粒でさえ喉を通すのに時間がかかった。
「気分が優れませんので」
毎回早々に席を立つエルティナを、バルザックが責めることはない。むしろ傍若無人な振る舞いこそ権力者の証だと思うのか、エルティナのあからさまな退室は彼の支配欲を愉快にくすぐった。
「あやつもお前の気を引こうと必死だからな。だが地位も力も我らには遠く及ばぬ。王家に名を連ねるのであれば、それ相応の力が必要だ。お前の母親リゼフィーネのようにな」
思いがけず耳にした母の名に、エルティナの胸が鈍く痛んだ。リゼフィーネはエルティナを産んでからまもなく精神を病み、今は北の塔へと隔離されている。言葉を交わした記憶もなく、エルティナはリゼフィーネの声すら聞いたことがない。
「この世界を統べるのは絶対的な力だ。我らの持つ力こそが、世界を支配するに相応しい。他人に隙を見せるな。刃向かう者はすべて斬り伏せろ。お前にはそれだけの力も地位もあるのだからな」
「……強すぎる力は、毒にもなります」
「何だと?」
「力ある者こそ、傷付き弱った人々を助けるべきではないのですか?」
「くだらん」
エルティナの訴えなど軽く一蹴して、バルザックがその顔にいやらしい笑みを浮かべた。
「力こそすべてだ。すべてをねじ伏せるほどの力があれば、手に入らぬものなど何もない」
「それは」
「違うとは言わせんぞ。現にお前は私に楯突くことも出来ておらぬではないか。私に隠れてコソコソと動いているようだが、お前が自由でいられるのは私が黙認しているからにすぎぬ」
「……っ!」
すべて露見していたことへの驚愕より、わかっていて、それでも見逃されていたという事実の方がエルティナの心に深く突き刺さった。バルザックにとってエルティナの行動など、取るに足らない事柄だったのだ。やめさせようと思えばいつでもできる。例えば今この瞬間、シュレイクを滅ぼすことだってできるのだと、そう暗に告げられた気がした。
「奴隷は奴隷。所詮我らとは命の価値が違う。戯れはほどほどにしておけ」
「……」
「余計な希望を植え付けた後で、それを粉々に打ち砕きたいというのなら話は別だがな」
バルザックの嘲るような笑みが、エルティナの脳裏にこびり付く。声が、言葉が。彼が去った後も、エルティナの体をいつまでも金縛りにした。
勇気を出して踏み出したはずの一歩も、築き上げたわずかな信頼も、すべて無意味だったのだと思い知らされる。
それでも。
『エルティナ様。ありがとうございます』
やっとエルティナを受け入れてくれた彼らの手のぬくもり。その笑顔。同じ命の輝きを諦めるなど、エルティナにはもうできなかった。




