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月の記憶  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第5章 微睡みの蒼湖水
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01:月下大戦の終幕

 眼下に広がる深緑の絨毯が、一気に蒼く染まった。時忘れの森の果て、樹木の緑を境目にして今度は透き通るほどの蒼い景色が広がっている。

 微睡みの蒼湖水(エルスフォーリア)。龍のゆりかごがあるとされる、大きな湖がアレスたちの目の前に現れた。

 まるで鏡のように凪いだ水面には、青空を行く飛竜の姿がくっきりと映し出されている。地上と頭上、ふたつの青空に挟まれているような奇妙な感覚。どちらが上なのか、一瞬本気で迷うほどだ。


「ここが微睡みの蒼湖水(エルスフォーリア)。綺麗な湖だけど、何もないぞ? 龍のゆりかご、ってやつがあるんだろ?」


 見渡す限りの蒼い湖は湖岸にわずかな野花が咲くだけで、目を引くようなものは一切見当たらない。精霊王から受け取った「鍵」も瑠璃色の葉一枚で、その用途も()()()という曖昧な説明だけだった。


「この鍵で、龍のゆりかごを()()()ことができるらしい」

「揺らす?」

「そうだ。この場で揺らすものといったら、これしかないだろう」


 そう言ってアレスが眼下の湖へ、瑠璃色の葉を放り投げた。凍っているのかと思うほど静かに凪いでいた水面がはじめて震え、瑠璃色の葉を中心にして細く蒼い波紋が広がっていく。まるで瑠璃色の葉から音がこぼれているかのように、波紋は次第に大きなさざなみとなり微睡みの蒼湖水(エルスフォーリア)を大きく揺らした。


 水のさざめく音がする。震える湖を見ていると、不意に辺り一面が霧に包まれはじめた。最初は薄く棚引く程度だった霧は次第に濃さを増し、青空も陽光も、湖の姿さえ白の向こうにかき消していく。

 水面の揺れる音だけが響く真っ白な視界。害意はないとわかっていても、視界を遮られる不安はアレスの心にわずかな緊張感を生む。隣を飛ぶロッドの姿がかろうじて確認できていることに安堵の息を漏らしたところで、今度は湖の方から大きな水飛沫の音が響いた。


 霧に包まれた視界の中、それは霞んだ薄紫色を滲ませてアレスたちの目の前に現れた。

 湖から聳え立つ、巨大な一本の樹。枝葉を彩るのは葉ではなく、薄紫色の花だ。見たこともない花を枝いっぱいに咲かせた大樹が、霧の中に、まるで幻影のように淡い色を落としている。


「……樹?」

「龍の、ゆりかごか」

「あの場所に神龍の加護があるのでしょうか」


 薄紫色の花をつける大樹からは、今までに感じたことのない神聖な空気が伝わってくる。その中にほんのかすかに混じる、アレスには馴染み深い竜の気配。

 龍神界の民の血に残る、神龍を崇める本能なのか。あの場所に神龍の加護があると思うと、冷静さを保っていたはずの心がわずかにはやる。


「行こう」


 一度深呼吸をしてから、アレスはできるだけロッドと距離を離さないように、薄紫の大樹へと飛竜を進ませていった。



 ***



「お前はどれくらいの時を生きてきたのだ?」


 声が聞こえた。知らない女の声だ。


「世界のはじまりから」


 光が射した。目の前に長い銀髪の女と、巨大な白い龍の姿が見える。視界に映っているのではなく、アレスがいま目にしている光景は頭に直接流れ込んでくる映像だ。瞼を開いている感覚はない。たとえるなら、誰かの夢を傍観しているような感じに似ている。


「ならば、エルティナという神界の姫を知っているだろう? 私の祖先にあたる、遠い過去に生きた姫だ」

「無論。愚かな父王をもった、不運な姫だった」

「お前は数百年ごとに眠りについていると言ったな。エルティナの悲劇については、どこまで知っている?」


 二人がいるのは柔らかい風の吹く丘の上だ。見下ろす眼下、緑色の絨毯を敷き詰めた先にはひとつの町が見える。草原に影を落とし、ゆっくりと空を行くのは天界……いや、神界リヴァイアだろうか。この夢、この時代には、まだ天界も龍神界も存在していないのだから。

 その神界からゆるりと顔を戻して、白い龍が銀髪の女へ目を向ける。


「エルティナとヴァレスが引き裂かれたところまで。暴虐の限りを尽くした神界王バルザックによってエルティナは命を絶たれ、バルザックもまた復讐の鬼と化したヴァレスによって殺されたはず。怨嗟と血にまみれた、嫌な時代だった」

「だから長い眠りについたのか?」

「そうかもしれんな」

「神界王バルザックの治世ほどではないが、この世界もまた、血塗られた戦いが始まろうとしている。そんな時代へ目覚めさせてしまった私を、お前は恨むか?」

「わしを目覚めさせた時点で、あるじはお主だ。もっともわしの力など必要ないほど、お主は強そうに見えるがな」


 王族の証である銀髪を風に靡かせ、女がふっと口元を緩めて笑った。王族、即ち神界の姫である女がその身に纏うのはドレスではなく甲冑だ。傍らには女の武器である細身の剣が大地に深々と突き立ててある。


「遠い祖先とは言え、バルザックの犯した罪は私たちが背負っていかねばならぬもの。魔界ヘルズゲートを誕生させてしまった罪も、悲しみに取り憑かれた魔界王ヴァレスを生み出してしまった罪も。――そして、月の結晶石をヴァレスが手に入れることを阻止できなかった罪も」

「月の結晶石だと!?」


 動揺のあまり、白い龍の翼がバサリと大きく広がった。風の振動を感じて思わず目を瞑ったような気がしたが、アレスにはいま体の感覚はない。頭に流れる映像を、ただ見ているだけの傍観者だ。


「そうだ。ヴァレスは月の結晶石を手に入れるために、自身の命を薄く引き延ばして生き続けている。お前が見た、エルティナの悲劇の時代から今までずっとだ」

「まさか、そんな……。奴が今も生きていると?」


 肯定し、女が頷く。


「バルザックを倒し、魔界王となったヴァレスは、長き時を生き抜いて月の結晶石を手に入れた。たったひとつの願いを叶えるために」

「そうか……。エルティナを、復活させようとしているのだな」


 ――エルティナ。エルティナ、死ぬな。俺を残して逝かないでくれ。


 慟哭する男の叫びが、聞こえたような気がした。聞いたこともない男の声は深い悲しみに満ちていて、その絶望に同調してアレスの胸が切ない痛みに軋んだ。


「エルティナはバルザックに殺された後、体を地底深くに封じられている。その体を取り戻すために、ヴァレスは結晶石を使って国ごと滅ぼそうとしているのだ」

「あやつにはもう、エルティナの声しか届くまい」

「ヴァレスの過去に同情はすれど、その行いは決して許されるものではない。奴を止めるため、私に力を貸してくれ。神龍イルヴァール」

「わしのあるじはお主だと言ったはずだ、ラスティーン。今更なにを言う」

「ありがとう」


 薄く微笑んで、銀髪の女ラスティーンが神龍イルヴァールの白い体に触れる。流れる風が雲を追いやって、降り注ぐ陽光に傍らの剣がチカチカと光を反射した。

 その光に視界を奪われたと思った次の瞬間、アレスは雷雨の降り注ぐ暗雲の下にいた。


 激しい雨の中だというのに、辺りには血の臭いが充満している。黒雲を走る稲光に照らされて、重苦しい灰色の世界の中――そこだけが鮮やかな真紅に染められていた。


 神龍イルヴァールの背に乗ったラスティーンの眼前に、彼はいた。

 赤い髪。赤い双眸。まるで鮮血に濡れたかのように、真紅に染まるひとりの男。


「ヴァレス!」


 右手に淡く光るのは、雫型の小さな石――月の結晶石だ。小指の先ほどの大きさしかない石なのに、凝縮された月の魔力はヴァレスを中心にして激しく渦を巻き、彼の頭上に重く垂れ込めた暗雲さえも吹き飛ばした。

 灰色の視界に不似合いなほど穏やかに降り注いだ陽光に照らされて、ラスティーンの長い銀髪がゆらりと煌めく。その輝きを愛おしげに見つめたヴァレスが、血の気のない顔に恐ろしく美しい笑みを浮かべた。


「神界の姫、ラスティーン。この世でもっとも愛しく、何よりも憎んだ者を思い出させる。……紛らわしい姿だ」


 気怠そうに払った左手から、黒い稲妻が放たれる。瞬きすら許さない一瞬の攻撃に反応したのはイルヴァールだ。瞬時に軌道を変えたイルヴァールの背上、完全に避けきれなかったラスティーンの頬が流れる銀髪ごと切り裂かれる。わずかに飛び散った鮮血に、ヴァレスが恍惚とした表情を浮かべて真紅の双眸を細めた。


「この世に銀髪を持つ者はひとりだけでいい」


 結晶石を握りしめた右手を空高く掲げ、ヴァレスが祈りのように言葉を紡ぐ。


「俺は、完全なエルティナの復活を望む」


 戦場に流れる魔力を、世界に満ちる生命力を吸い取って、ヴァレスの右手に恐ろしいほどの力が集まる。渦を巻き、膨れ上がった魔力はすべて結晶石へ吸い込まれ、そのあまりの大きさに空が怯えるように震えた。

 吹き飛ばしたはずの暗雲が戻り、世界が再び闇に包まれる。結晶石に内包された魔力に引き寄せられて、激しい音を響かせた稲妻が白い光を纏いながらヴァレスの頭上に渦を巻いた。それはまるで巨大な光の渦のようで――。


「やめっ……!」


 叫ぶ間もなかった。

 ヴァレスの右手から放たれた白い閃光が、遠く離れた地上へと弾き飛ばされた。上空から目視できるその場所にあったのは、山間やまあいにあるひとつの小さな国だ。閃光が投下されたかと思うと低い地鳴りと共に青白い光の振動が大地に走り、そして一瞬だけ世界から音が消えた。



 耳をつんざくほどの轟音と、視界を奪う大地の粉塵。遠く離れた上空にまで届く爆風は石のつぶてを巻き込んで、イルヴァールの白い体を真紅に切り刻んだ。

 未だ止まぬ爆風にある者は四肢を吹き飛ばされ、暗い空に鮮血の雨が降る。けれどもその雫が落ちる地上に、さっきまであった国の姿はどこにもなく。眼下に広がるのは、ただ深く穿たれた大地の黒い大穴だけだった。人の姿はもちろん、建物の名残すらない完全なる無だ。


 その、底も見えない黒い穴から、ぽうっと淡く光を纏う何かが現れた。はらはらとほどけていく光の中から、するりと滑り落ちるのは長く美しい銀の髪。


「……まさか」


 ラスティーンの途切れた言葉を繋げるように、淡い光に寄り添ったヴァレスが愛おしげに頬を寄せてその名を口にした。


「エルティナ。会いたかった」


 国という楔を失い、地底深くに封印されていたエルティナの体が、再びこの時代に現れる。抜け殻同然の魂のない体は、けれども当時の美しさを少しも損なうことはない。鮮血と闇に満ちたこの戦場においても、穢れなき銀色の輝きで澱んだ空気を浄化していくようだ。


「まさかガルフィアスが封印だったとは……」

「呆けている暇はないぞ、ラスティーン! 奴にこれ以上、石を使わせるな!」


 怒号の如く叱咤して、イルヴァールが返事も待たずに急降下する。目指すは魔界王ヴァレス。その手に握られた、月の結晶石。


「ヴァレスっ!」


 大気を震わせて響く咆哮と、視界を遮るほどの聖なる炎。神龍イルヴァールの吐き出した炎から、死したエルティナを守ろうと身を翻したヴァレスの真横――一陣の鋭い風が通り過ぎると同時に銀色の軌跡が空を斬った。


「ぐぁっ!」


 鮮血と共に、ヴァレスの右腕が宙を舞う。その手のひらに握られたままの結晶石を取り返そうとするも、ヴァレスには伸ばす腕がない。左腕に抱いたエルティナの体を放り出す選択はなく、切り落とされた右腕から溢れる鮮血を操って伸ばしたその先で、わずかに早かったラスティーンの手が月の結晶石を掠め取った。


「おのれ……っ。ラスティーン!」

「もう諦めろ、ヴァレス。お前の願いは叶わせぬ。神龍イルヴァールの聖火によって、エルティナと共に眠るがいい」


 空を焼き尽くす勢いで吐き出された紅蓮の炎。その聖火の前では、いかに強大な力を誇る魔界王ヴァレスであっても無傷では済まされない。もちろん、世界のことわりから外れたエルティナの体も。

 相反する力。白と黒。光と闇。互いを傷つけるのに、ヴァレスの闇とイルヴァールの光は相性がいい。けれども今のヴァレスはエルティナの体を呼び戻すために、結晶石を介して大量の魔力を消費した状態だ。

 月下大戦の終幕。時はイルヴァールに味方した。


「俺は諦めないっ。必ず石を……エルティナを取り戻す!」


 イルヴァールの聖火に焼かれながら体を爛れさせていく中で、それでもヴァレスはエルティナだけは守ろうと残った片腕で動かない身体をぎゅっと抱きしめる。最後にもう一度吐き出された炎にかき消されて、ヴァレスの姿は完全に見えなくなってしまった。


「……石は?」


 返事の代わりに、ラスティーンが首肯する。


「何とか手に入れることができた。感謝する」


 目的は果たされたものの、ラスティーンの表情が晴れることはない。見下ろした眼下、抉り取られた大地に消し飛んだ国を思い唇を噛み締める。


「この国は戦うことを知らない、素朴な国だった。まさかガルフィアスが封印だったとは……」

「これ以上の悲劇を起こさないために、お主は戦場に立つのだろう?」

「もちろんだ。結晶石をこの世から消し去るために、私は進み続けるしかない。それが死んでいった者たちへの償いになると……今は信じて」

「険しい道のりだな」

「結晶石は私たちの祖先が犯した罪の遺物。それを消滅させることが、一族の悲願でもあるのだ」

「手立てはあるのか?」

「結晶石を、エルティナの魂ごと消滅させる」


 ラスティーンの手の上で、雫型の結晶石が淡い光を放っている。それは点滅ごとに勢いを増し、この「夢」を見ているアレスの視界をも真っ白な輝きで埋め尽くしていった。

 完全に視界が白に染められるその一瞬、光の向こうでラスティーンがこちらを見たような気がした。


「……すまない」


 懺悔にも似た、哀切滲む声。無意識に手を伸ばそうとしたアレスから逃げるように、ラスティーンもイルヴァールもすべてが薄く溶けて消えていく。


 そして、何も見えなくなった。




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