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月の記憶  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第3章 滅びの国
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13:贖罪ではなく弔いを

 その夜、ルルクスの宿場町から見えた浄化の炎は、空を逆走する不思議な流星として人々の記憶に刻まれることとなった。

 夜を彩り、満月の光に溶けるように消えていく。その赤い光がいにしえに生きていた人々の魂だと知る者はおらず、ルルクスの町は驚きと興奮でちょっとした騒ぎになっていた。


「なぁ、マスター。ちょっと消毒液と包帯ないかな?」


 騒々しい酒場の喧噪を縫って聞こえたロッドの声に、酒場の店主が太い眉を訝しげに寄せた。今夜は奇妙な星のおかげで客が盛り上がり、いつもよりも酒の注文が多く入っていた。そんな中、酒ではなく救急道具を欲しがるロッドに、店主が剣呑な眼差しを向ける。


「何だぁ? 喧嘩でもしたのか?」


 酒に酔った客が暴れることも多い酒場では、一応最低限の救急道具が置かれている。消毒液に包帯、酔い覚ましや鎮痛剤が雑多に詰め込まれた箱の奥には、なぜか媚薬まがいのものまで用意されていた。


「うん、まぁ……そんなとこ」


 曖昧に言葉を濁し、ロッドは店主から救急箱を受け取ると、急いで酒場の二階へと駆け上がっていった。


 酒場へ降りる階段から一番離れた廊下の奥、その部屋がレティシアのためにアレスが借りた部屋だ。中に入ると一階の騒がしい声はある程度遮断され、ゆっくりするには最低限の静けさが保たれている。一番奥のため、廊下を歩く物音も少ない。


「救急箱、借りてきたぞ」

「ありがとうございます」


 ロッドから救急箱を受け取ったレティシアが、ベッドに座るアレスのそばで中身を確認する。その様子を横目で見ながら、アレスは濡れたタオルを押し当てていた首筋の傷を指でそっとなぞってみた。鈍い痛みは残るものの、エレインに噛み付かれた時に感じた不快感はもうない。


「大げさだ。このくらいの傷、何てことない」

「いいえ、ダメです。まだ血が出ているじゃないですか」

「そうだぞ! 首には大きな血管があるんだから、大事にしないと」

「それくらい、ちゃんと手加減してるさ。……あぁ、レティシア。包帯なんて出さなくていい」


 なおも治療を渋るアレスに、レティシアが拒否された包帯を握りしめて頬を膨らませた。それでも全く恐ろしくは見えないのだが、どうやら機嫌を損ねたらしいことはわかった。


「だったら治癒魔法をかけます」

「無駄な魔法は使うな。お前はただでさえ体が弱ってるんだ。アーヴァンに着くまでは、できるだけ魔力を温存させておけ」

「では、代わりに手当をさせて下さい。でないと本当に魔法をかけますよ」


 手当か魔法かどちらかを選べと、レティシアが包帯を持つ手をアレスに突き出した。儚げな外見のわりに、そういえばレティシアは頑固だったと思い出し、アレスは諦めたように肩を落とすと首筋にあてていたタオルを外した。


「わかったわかった。消毒液を出してくれ」

「はい! えぇと……これでしょうか?」


 レティシアが取り出した小瓶を見た瞬間、アレスが物凄い勢いでそれを奪い取った。かと思うと眉をこれでもかと言うほど顰めて、消毒液にしては綺麗な作りの小瓶をロッドへと投げつける。


「そんなもの入れてくるな!」

「ちょっ、俺じゃないよ! もとから入ってたんだって!」


 慌てて小瓶を受け取ったロッドが、誤解を解こうと両手をブンブンと横に振る。状況を把握できていないのはレティシアだけで、怒るアレスと慌てるロッドにひとりオロオロとするばかりだ。どうしていいかわからずに、二人に挟まれたまま「すみません」と自分でも何に対してなのかわからない謝罪を口にする。


「消毒液はこれだ」

「あ、そうだったんですね。すみません」


 アレスに手渡された消毒液の瓶は、さっきの瓶に比べてシンプルで飾り気がない。つい目に止まった美しい方の瓶を手に取ってしまったが、それが問題だったのだろう。そう思ったところで、レティシアの心にふと小さな疑問が生まれた。


「あの、さっきの瓶は……」

「お前は知らなくていい」

「レティシアには必要ないものだよ。いまは、たぶん」


 二人の声が綺麗なくらいに重なった。疑問は解消されなかったがそれ以上聞く空気でもなかったので、レティシアはアレスの手当に意識を集中することにした。


 首の傷に布をあてると、指先の下でアレスがわずかに動くのがわかった。染みたのかと思い、慌てて布を外せば、曝された傷口がレティシアの瞳に生々しく映り込む。

 エレインの噛み痕と、アレスが爪で裂いた四本の傷。それほど深い傷口ではないものの、柔らかい首筋の皮膚からは未だにじわりと血が滲み続けている。


「……すみません」


 ほとんど無意識に口をついて出た謝罪に、アレスの深緑色の瞳が細められる。


「何の謝罪だ」

「怪我を……」

「これは俺の不注意だ。お前が気に病む必要はない」


 でも……と言いかけて、口を噤む。再び首筋に布をあてながら、レティシアは消えたガルフィアスとエレインたち姉妹のことを思い出していた。


 穏やかに暮らしていたガルフィアスの人々を、一瞬にして死に追いやった結晶石。人を歪め、心さえ狂わせる小さな石。そんな恐ろしいものが自分の中にあると思うだけで、体が内側から穢れていくようだった。

 胸を裂き、結晶石を取り出してしまえるのならどんなによかっただろう。幼い頃から今まで、もう何度も同じことを考えては諦めに心が沈んでいく。


 レティシアが死んでも、結晶石は消えない。新たな宿主が生まれるまで、天界にあるフェゼリアの大樹の中で眠るだけだ。それに、どちらにしろ封印はレティシアの代で解けるのだ。死を選んでも選ばなくても、結晶石はこの世に出現してしまう。

 レティシアは望みも持てず、けれど宿命も捨てきれずに、ただ結晶石と共にあるしか道はなかった。


「何を考えている?」


 声をかけられたことで、レティシアは自分の手が止まっていたことに気付いた。それだけでなく手首まで掴まれており、ベッドに腰掛けるアレスの探るような視線がレティシアを容赦なく見上げている。


「結晶石とお前は違う。切り離して考えろ」


 言葉にせずとも、レティシアの思いはなぜかアレスには伝わってしまう。すべてを見透かすような深緑色の瞳は、心の奥に鍵をかけたレティシアの願いすら暴こうとするのだ。その美しく、けれどまっすぐな光は、今のレティシアにはほんの少しだけ恐ろしい。


「ガルフィアスを滅ぼしたのはお前か? 結晶石を作ったのは魔界王だ。お前はその石を、自由と引き換えに守っているに過ぎない」

「けれど、この石に向けられる恐怖や憎しみは……私たち天界人が引き受けなくては……。結晶石を守るものとして、そう」

「それは傲慢だ」


 レティシアの言葉を遮って、アレスがそれを真っ向から否定した。言葉は乱暴だったが、反論することなく耳を傾けることができたのは、響く声音に冷たい色が感じられなかったからかもしれない。


「いくら天界人が結晶石の管理をしているとは言え、その罪苦まで背負う必要はない。罪は石を作った者に問え」


 間違ったことを言っているわけではなかったが、それは暴論のようにも聞こえた。

 エレインから向けられた憎悪の眼差しは、今もレティシアの脳裏に焼き付いている。理不尽に死を与えられた彼らの無念を、あの悲しみをまざまざと見せつけられて、知らぬふりなどできるはずもない。


 それに石を作った者――魔界王はもうこの世にはいない。彼の代わりに憎しみを受け止める代役が必要なら、結晶石を宿す者としてレティシアがそれを引き受けるのも宿命のひとつだと思うのだった。


「……それでも」


 治療は終わりだと言わんばかりに、アレスがベッドから立ち上がる。重なったままの視線は逆転し、今度はアレスがレティシアを見下ろした。


「それでも、あいつらに寄り添うことまでは否定しない」


 レティシアが聞き返す前に視線を逸らし、アレスが部屋を出て行こうと扉を開けた。遮られていた酒場の喧噪が聞こえてきて、沈みかけていた室内の空気がかすかに揺らぐ。


「出立前に弔いたいのなら……そうしろ」


 そう言い残して、アレスは部屋から出て行ってしまった。

 使うことのなかった包帯を握りしめたまま俯いていると、いつの間にかそばに来ていたロッドがレティシアの手から包帯を取って救急箱にしまい込んだ。


「アイツなりにレティシアのこと、気にしてるんだと思うぞ」

「え?」

「俺たちは結晶石を守っていないから、レティシアの苦しみを本当の意味で知ることはできない。でもさ、そんなにツラそうな顔してたら、どうにかして助けたいって思うだろ?」


 そんなにつらい顔をしていたのかと頬を触れば、指先に残る消毒液の香りがアレスの顔を思い出させた。


「まぁ、言葉はちょっと乱暴だけど、アレスと同じことを俺も思ってた。レティシアはもっと愚痴を言っていいくらいだぞ」

「愚痴……ですか?」

「そうそう。もう結晶石なんかしらなーい! とか、アレスにもっと優しくしろー! とか」

「……ふふ」


 思わぬ方向から飛んできた予想外の言葉に、一瞬目を丸くしたレティシアが堪えきれずに笑みをこぼした。そのまるで花が綻ぶような可憐な笑顔にロッドが惚けたのも束の間、再び部屋の扉が荒々しく開かれ、眉間に深い皺を寄せたアレスが顔をのぞかせる。


「ロッド! お前、調子に乗るな!」

「おわっ、アレス!? 聞いてたのか!」

「お前がなかなか出て来ないからだろう。いつまでも居座るな」


 そう言って、自分よりも背の高いロッドの襟首をがしっと掴むと、アレスは彼の体を引き摺るようにしてレティシアのそばから引き剥がした。


「お前も、もう寝ろ。……明日、ガルフィアスの跡地に行くんだろ」

「……えっ?」


 はっと顔を上げた時にはもうアレスは部屋を出てしまい、視線が交わることもなく扉は静かに閉められてしまった。その向こうで。


「お前、素直じゃないな」

「うるさいっ」


 というやりとりが聞こえてしまい、レティシアの心は緩んだ頬のようにふわりと軽くなるのだった。



 ***



 帰らずの森の奥は、飛竜の炎によって一帯が黒く焼け焦げていた。太陽に照らされた焦土の一部は、未だにぶすぶすと白い煙を上げて燻っている。

 この地に再び緑が芽吹くのはいつになるだろう。そう思いながら、レティシアはルルクスの露店で買ってきた種を両手に掬った。

 どんなに荒れた土地でも強く育つというネルティスの種。気品ある薄紫色の花を咲かせるネルティスが、いつかこの土地を癒やしてくれることを願いながら、レティシアはそっと手を空に差し出した。


 晴れ渡る青い空に、ふわりと舞うやさしい風が、レティシアの手から小さな種を預かっていく。ほんの少しだけかけられた癒やしの魔法を纏いながら、ネルティスの種は黒く焦げた大地にきらきらと輝く鱗粉のように降り注いだ。


『お姉ちゃん』

『レイナ』


 ふと耳を掠める声に振り返れば、幼い姉妹が手を繋いで空へと駆け上がっていく幻が見えたような気がした。

 彼女たちが飛び立った場所に、細い金色の王冠が転がっている。人の姿に戻った時にエレインの額で輝いていたその王冠は、もうこの時代に留まる術を失ってさらさらと脆く崩れて落ちてしまった。崩れ、舞い上がり、姉妹の後を追って空の彼方へ飛んでいく。


「――あなたたちに安らかな眠りを」


 そう静かにささやいて、レティシアは祈るように目を閉じた。

 国を思うあまり道を誤った女王エレインと、彼女を支え続けた妹のレイナ。時の狭間に存在していたガルフィアスは消滅し、彼女たちがいた痕跡は聖獣の炎によってすべて燃やし尽くされてしまった。


 けれど、忘れない。そう心に強く誓う。

 ここにはひとつの国があった。平和を愛し、何よりも国を愛した女王エレインが守り続けたガルフィアス。


 いつかここに咲く薄紫のネルティスの花が、彼女たちに届きますようにと。

 そう願いを込めて、レティシアは弔いの種を撒くのだった。





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